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一章



 ヨシュアが動く気配がした。
 振り向いたメイヴェルが、厳しい顔をしたヨシュアが睨む先を視線で追うと、街道脇に立ち並ぶ木々の向こうの暗闇で、何かが蠢く様子が目に映る。
 そこに居るものが何なのか、判別はできない。判るのは、メイヴェルやヨシュアよりも大きいものが、ゆっくりとこちらに近付いてきている事だった。やがて木々を抜けて現れたそれは、ヨシュアが呼んだ魔法の灯りに照らされ、正体をあらわにする。
 大きな四足獣だった。針のように硬く鋭い毛を立て、低く唸る口の端から涎をしたたらせながら、大きな鼻をひくひくと動かしている。匂いで何かを探しているのだろうか? 本能的な恐怖に揺さぶられ、メイヴェルはごくりと喉を鳴らした。
 やがて威嚇のつもりか、大声で唸った四足獣は、ふたりに向かって走り出す。
「ヨシュア……!」
「大丈夫ですよ。大きいせいで見た目は強そうですが、下等です。屋敷で遭遇したものと大差ありません」
 四足獣は一度跳ね上がってから、振り上げた前足をヨシュアに向けて振り下ろしたが、ヨシュアは怯む事も逃げる事もしなかった。
 ヨシュアは自身の安全を確信していたのだろう。四足獣の攻撃が光の壁に遮られ、メイヴェルたちを傷付けるどころか触れる事すらできない様子を近くから眺め、勝ち誇った笑みを浮かべている。そんなヨシュアの、余裕が浮かんだ表情を見上げていれば、メイヴェルの緊張もほぐれると言うものだった。
 攻撃が効かない事が理解できないのか、四足獣は光の壁に何度も突撃した。牙を立てようともしたが、文字通り歯が立たなかった。延々とそれを繰り返してから、ようやく無駄だと悟ったのか、光の壁から少し離れて、弱々しい唸り声を上げる。
「見ての通り、こいつでは朝までかけてもこの壁を破れません。気分はよろしくないでしょうが、安全は保証しますよ。なんならお休みくださっても構いません」
 ごゆっくり、とヨシュアは言ってくれたが、いくら安全が保証されていても、獣の唸りと言う立派な騒音と、すぐそばに闇の眷族がいると言う視覚的な抑圧の中で、ゆっくり休めるほどにメイヴェルの神経は太くなかった。
 それに、ヨシュアは余裕を見せてはくれているが、周囲への警戒を解こうとはしていなかった。獣以外の――獣よりも上位の――闇の眷族の存在を、否定しきれていないと言う事だろう。
『話が違うな』
 声が、闇と光の中で響いた。
 綺麗な声だった。ほとんどを屋敷の中で過ごしていたメイヴェルが知りうる一番美しい声の持ち主は、父が時おり屋敷に招く歌い手たちのものであったが、それとも比べものにならないほどだった。涼やかで耳に心地よく、爽やかなように聞こえながら妖艶さも入り混じり、誘うようで拒絶する。なんとも言えない魅力を持つ声は、警戒心を抱かせる事なく、メイヴェルの耳へ飛び込んでくる。
『目的を遮るものは何も無いはずだと聞いていたが』
 ヨシュアは素早く法剣を引き抜いた。
 先ほどまでの余裕はどこへやら、唇を硬く引き締め、険しい視線で一点を見据えている。額には緊張のあまりにじみ出た汗が光っていた。
『まあ良い。手に負えないほどではなさそうだ』
 闇の向こうから現れた影は、小柄な人間のものとさほど変わりなかった。
 メイヴェルよりは背が高く、ヨシュアよりは背が低い。中性的な容姿をしており、男か女か判別するのは難しかった。青白い顔に描かれた、血のような赤と漆黒で創りあげられた文様が、より性別を判り辛くしている一因だ。
 血色の悪そうな紫の、しかし形良い唇の端が吊りあがる。楽しそうに笑う様子は無邪気な子供を思わせ、不可思議な文様さえなければ、普通の人間として受け入れていたかもしれない、とメイヴェルは考えた。いや、普通よりも美しい人間として、だろうか。
「思っていたより大物だったかもなあ」
 ヨシュアはため息混じりにそうこぼして、法剣を構えながら、視線だけをメイヴェルに向ける。
「絶対にこの中から出ないでくださいね。朝までの保証はできなくなりましたが、一撃や二撃でやぶれはしないと思いますので」
「思うって……」
「直撃食らうよりは、生き残る可能性高いです。それは間違いありません」
「……あれも、闇の眷族なの?」
 メイヴェルの問いに、ヨシュアは簡潔に答えた。
「はい」
 同時に闇の眷族は、目に眩しいほど鮮やかな深紅に染まる皮膜の羽根を背中から生やすと、それを羽ばたかせる。しかし、僅かに浮き上がるだけで、空を飛ぶわけではないようだ。
 代わりに、空気が動く。風が荒れ、周囲の木々を力任せに揺さぶる。四足獣は唸り声を上げながら吹き飛ばされ、転がっていった。メイヴェルたちが何ともなく立っていられるのは、ヨシュアが作ってくれた障壁のおかげなのだろう。
『なるほど』
 闇の眷族は呟くと同時に口元に嘲笑を浮かべ、腕を振り上げる。
 合わせてヨシュアも、法剣を手にしたまま手を付き出した。
【光の王よ、ヨシュアの名において、闇を遮る強靱な楯を!】
 光でぼやけた視界の向こうで、紅蓮の炎がはじける。それは一瞬、メイヴェルたちを守る障壁を抉ったかに見えたが、ヨシュアが作り上げた更なる壁が連なる事で、守られる形となった。
「なーるほど。これは怖い。でもま、これだけやっときゃだいぶもつだろ」
 言ってヨシュアは地面を蹴り、光の壁の向こうへと飛び出した。素早く闇の眷族へと駆け寄り、左右の法剣による連撃を浴びせる。
 ヨシュアが障壁の外に出てくるとは思っていなかったのか、突然の事に反応しきれなかった闇の眷族は、一撃目こそかわしたものの、続く二撃目を避けられなかった。人間で言うところの臑の部分に、黒い刃を受ける。 闇の眷族はすかさず、傷を負ったのと逆の足で、ヨシュアを蹴り飛ばそうとした。だが、ヨシュアとて素直に受けるつもりはない。後方に体を反らして避けると、闇の眷族と距離を置く。
 距離を置こうとしたのは、闇の眷族も同様のようだった。翼をはためかせ、更なる上空へと浮かび上がる。
【光の王よ、ヨシュアの名において、闇を貫く鋭き槍を!】
 唱えたヨシュアが指さす先に現れた魔法陣から、白き光が集約して象られた槍が生まれ、闇の眷族に向けて真っ直ぐに落ちていった。
 しかし空中を自在に動き回る闇の眷族は、槍を紙一重で避けてしまう。何に触れる事もなく地面へと落ちた光の槍は、静かに消えていくだけだった。
「もっと油断していてくれていいんだけどなあ」
 ヨシュアは闇の眷族が再び腕を振り上げるのを見て、障壁の内側へと飛び込んだ。間一髪、靴の先を少し火にあぶられた程度で、炎から逃れる。
「さーて、どうするかな」
「ずっとこの中に居てはいけないの?」
「外の力、中には影響しないでしょう? 逆もそうなんです。中からじゃ、外に魔法を放てないんですよねー。かと言って、朝までこの障壁出しっぱなしにするのは、無理そうですし。何とかして倒すか、追い払わないと……と」
 炎に煽られる事で光の障壁が弱まっている事に気付いたヨシュアは、すでにメイヴェルが聞き慣れてしまった詠唱を繰り返す。
 強い衝撃音がしたのは、新たな障壁ができあがるとほぼ同時だった。消耗戦に疲れたのか、それとも単に飽きたのか、壁の向こうにはいつの間にか闇の眷族が迫っていて、刃のように鋭い爪を、壁に突き立てていた。
 先ほどまでの、四足獣が壁を怖そうと必死になっていた時の一撃と、明らかに違った。ただ守られているだけのメイヴェルでも判ったのだから、ヨシュアに判らないはずもない。「しょうがねーな」と呟いて、壁の外へと足を踏み出す。左手の剣を鞘に戻し、代わりにひとつの宝玉を、懐から取り出しながら。
 激しい切りあいがはじまる。魔法も、妖力も使わない、剣と爪が幾度も交わる肉弾戦だ。ヨシュアが闇の眷族の鋭い一撃を受け止め、闇の眷族がヨシュアが繰り出す刃を避ける。メイヴェルが素人であるからか、目で追うだけでも大変なほどに、素早い攻防だった。
 ヨシュアの息が上がりはじめている。心なしか、闇の眷族のほうに余裕があるように見える。避けると受け止めるの違いだろうか。もう一方の剣を使えば、もっと相手を追いつめれられるのでは、とメイヴェルは思うのだが、ヨシュアはけしてそうしなかった。
 やがて、ヨシュアの剣と闇の眷族の爪とが重なるなかで、ヨシュアの体勢が揺らぐ。すかさず闇の眷族の蹴りがヨシュアの腹に埋まると、ヨシュアの体が大きくよろけた。
 闇の眷族が、高く飛んだ。そして、腕を振りあげる。
「ヨシュア!」
 メイヴェルは叫んでいた。
 闇の眷族が腕を振り上げるのは三度目だ。一度目も、二度目も、炎が一帯を包み込んだ。今度もきっとそうだ。そうなれば、障壁から遠ざかっているヨシュアは――
「ヨシュア!」
 メイヴェルが予想した通り、光の障壁の向こう、白く霞む視界が、紅蓮の業火に埋め尽くされる。それは間違いなく、横たわるヨシュアをも飲み込んでいて、メイヴェルは衝撃に震え、膝を折った。
「ヨシュア……」
 力なく見上げたその先に、闇の眷族が飛んでいる。
 人によく似た白い顔に、笑みが貼り付いているように見えて、メイヴェルは唇を噛みしめた。


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