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一章



 右手にはヨシュアの温もり、左手には蜜蝋を灯した銀の燭台。
 今の自分を支えるふたつに眼差しを注ぎ、メイヴェルは進む。
 逃げると言ったヨシュアが、一体どこに向かおうとしているのかメイヴェルには判らなかった。判らなかったが、カドリーンの屋敷に居てはいけない事だけはなんとなく理解していたため、ヨシュアの進む道に異論を唱えようとは思わなかった。彼の指示通り、蜜蝋を灯した燭台を手にし、閉ざされた街を抜け、街道を進んだ。
 深夜に歩みを進めるためには、蝋燭の灯りだけでは心ともない。狙われている身としてはすぐそばに死角が存在する事も恐ろしく、ヨシュアもそれを判ってくれているのか、常に四方を光で照らしていた。月の無い夜だと言うのに、メイヴェルたちの周囲は、まるで朝のような明るさだ。
 それでもまだメイヴェルが恐ろしいと感じるのは、音が無いせいだろうか。永遠を思わせる沈黙が、思考する余裕を与えてくるせいで、考える必要がない事まで考えてしまうからだろうか。突然非日常に追いやられた不安ゆえか、思考は勝手に悪い方向へと向かい、ヨシュアが自分だけを連れて屋敷を出た事も手伝って、他の物は全員、闇の眷族によって殺されてしまったのかもしれないとの予想が、頭から離れないのだ。
 メイヴェルは前を進むヨシュアの背中を見つめる。何か話してくれないだろうかと、願って。
 光の王の力を利用でき、闇の眷族と戦う力を有する彼ならば、蜜蝋が消し去られた屋敷の中でも自由に動き回れただろうと思うのだ。ならば、カドリーンの屋敷の中、両親やもうひとりの使用人であるシャナの現状を、知っているかもしれない。
 話さないと言う事は、知らないか、知った上で話す必要を感じていないか、話してはいけないと考えているか――単純に話す余裕がないだけなのか。メイヴェルはヨシュアの横顔を眺め、彼の考えを読もうとした。
「話を、聞いてもいい?」
 眺めるだけでは判らない。だからメイヴェルは意を決し、ヨシュアに声をかけた。
 だいたい、と、メイヴェルは心の中で自分に言い訳をする。ヨシュアには謎が多すぎるのだ。信用すると決めたのはメイヴェルだが、だからと言って疑問点が解消するわけではない。蜜蝋の灯りに何の反応もしないので、実は彼こそが闇の眷族であった――などと言う展開は考えられなかったが、どこから来て、何のために無償でメイヴェルを助けてくれるのかは、さっぱり判らなかった。
「俺に答えられる事でしたら、いいですよ」
 少し間を空けてから返ってきたヨシュアの答えに、牽制の意味が込められていたような気がして、メイヴェルはまず言おうと思っていた問いかけを、あたりさわりのないものに変更する事にした。
「貴方は、<守護者>なの?」
「はい、そうです」
「<守護者>なのに、どうして使用人なんてしていたの? もっといい仕事は沢山あったでしょう」
 ヨシュアは僅かに沈黙を挟んでから答えた。
「師の元を巣立ったばかりでしてね。まだどこにも売り込みに行っていないんです。そのうち、大きな街や城に仕えようとは思っていますよ。これでもけっこう出来が良い方なんで」
「自分で言うのね」
「実力に関しては、嘘や見栄は言いません」
「じゃあ、なおさら判らない。どうして貴方が、うちの使用人をしていたのか。半年前は無職だったかもしれないけれど、すぐにどこかで雇ってもらえたでしょう?」
 似たような質問を重ねると、ヨシュアは再び沈黙を呼び込んだ。
 口元に手をあてて何か考え込んでいる。一瞬メイヴェルの方を見たかと思うと、すぐに目を反らし、月の見えない夜空を仰いだ。
「答えられませんねえ」
「もう?」
「うーん……俺から説明していい事じゃない気がするんですよ。少なくとも、今はまだ」
「何それ」
「俺も無駄に文句言われたくないんで、勘弁してください。そのうち判りますから」
 自分でも無理な事を言っていると判っているのだろう。ヨシュアはばつが悪そうに頭をかき、メイヴェルが彼の表情を覗き込もうとしても、けして目を合わせようとしなかった。
「じゃあ、私が目覚めた時、屋敷の中は真っ暗だったけど、どうして蜜蝋の灯りが消えていたかは知ってる?」
 ヨシュアはすぐに首を振った。
「はっきりとした原因はさっぱり。ですがまあ、誰かが消したと考えるのが自然でしょうね。ひとつやふたつならともかく、あれだけの量、勝手に消えたとは考え辛い」
「蜜蝋の灯りを保つのは、使用人としての貴方の仕事ではないの?」
「それを言われると耳が痛いんですよねー」
 冗談めいた様子で、大げさに動いて耳を押さえたヨシュアだが、メイヴェルの真剣な眼差しに冷たさが混ざった事に耐えきれなかったのか、咳払いをひとつ挟んでから、表情を引き締めた。
「言い訳じみてしまいますが、俺はメイヴェル様の元に駆けつけるまでに、十匹ほどの闇の眷族を倒してまして。手間取っているうちに、次々と消されてしまった、と」
「誰に?」
「それは、この目で見たわけではありませんから、なんとも。誰の名前を挙げても、現時点では予想にしかなりませんが、そんなもの貴女は信じないでしょう? 証拠があれば別でしょうが」
 まったくヨシュアの言う通りだったので、メイヴェルは頷く代わりにうなだれて、反論の意志がない事を示した。
 けれど、はぐらかすヨシュアの様子から、感じた事がひとつある。ヨシュアは、犯人はカドリーン家で暮らす誰かだと思っているのではなかろうか?
「他にご質問はないですか?」
「お父様や、お母様や、シャナは、今どうしているの?」
「――また、難しい事を訊きますね」
 ヨシュアの肩が揺れる。大きくため息を吐いたようだ。
「俺が異変に気付いた時、すでにカドリーン家は闇の眷族に囲まれていました。だから俺は、それを片付ける事に力を注いだ。けれど逃してしまった何匹かが家の中に入り込んでしまい、追いかけた……時に、メイヴェル様に会いました」
「じゃあ、貴方もお母様たちがどうなっているか判らないって事?」
「判りませんけど、無事だと思いますよ」
「どうしてそんな事を言えるの!?」
「闇の眷族は、全部倒しておきましたし」
「また現れるかもしれないでしょう? そう思ったから、貴方は私を連れて家を出たのではないの?」
「そうなんですけど――あー、やっぱこの状況じゃろくな言い訳考えつかねーわ」
 ヨシュアは困惑しきった顔で頭を抱えると、再び大きなため息を吐いた。
「もういいか。怒られても」
 そして諦めたように吐き捨ててから、今一度メイヴェルに向き直った。
「実はですね」
 覚悟を決めながら、それでもまだ迷いを内包する顔で、ヨシュアは口を開く――その瞬間だった。
 突然の突風が、ふたりの間をすり抜けるように吹く。それによって、メイヴェルが手にする蜜蝋の火が途絶え、ヨシュアが呼んだ光だけが残された。
 ヨシュアの表情が変わる。舌打ちをして、メイヴェルを背に庇うように立ちながら、辺りを見回した。同時に早口で呪文を唱えると、光の王の力がふたりを守る壁となって、周囲に現れる。
 そこでようやく、メイヴェルは自分たちの危機に気付いた。
「今日来ちまうのか……?」
 ヨシュアは天を仰いだ。空模様から夜明けまでの時間を読んだのか、苦々しい表情で唇を噛んだ。
 ふたりの周囲には未だ、闇の眷族の姿はおろか、他者の姿も見えない。だが、緊張を保ったままのヨシュアにつられて、メイヴェルも身構えていた。
「こんなに都合よく風が吹くなんて……」
「偶然とは限りませんよ、メイヴェル様」
 ヨシュアは腰に差した法剣の柄に手を置きながら言った。
「敵は風を操れるのかもしれません。そして、はじめからこの時を狙っていたのかもしれない。俺たちが新手を恐れるなり周囲を気遣うなりして屋敷を離れ、すぐに火種を手に入れられないようにしてから、蜜蝋を消す。だとすれば下級の眷族ではないでしょうね。多少は知恵が働いているようですし、そもそも下等な眷族どもは、ただ力があるだけで、風を動かすような妖力を持っていない」
 なおも鋭い視線で周囲を見渡したヨシュアは、上着を脱いで地面に敷いた。
「ここまで歩き詰めでお疲れでしょう。よろしければ、お座りください」
 メイヴェルは呆気にとられるしかなかった。
「逃げなくていいの?」
「逃げきれるなら逃げた方がいいのでしょうが、この感じだと、動くほうが危険かな、と」
「どう言う事?」
「相手が上級の眷族っぽいからです。上級の眷族に対抗するだけの力を使うには、消耗も激しいんですよ。この壁もね」
 ヨシュアは白くぼやける壁の線をなぞるように手を滑らせた。
「このくらいの大きさで、下級の眷族をはねのける程度のものなら、いくらでも出せますが、強いものとなるとそう何度もは。移動しながら、何かある度に出すとなると、俺が朝までもちません。不便を強いて申し訳ありませんが、朝まではこの障壁の中で我慢してください」
 月を覆い隠す厚い雲を見上げるヨシュアに応えるように肯いて、メイヴェルはその場に腰を下ろした。メイヴェルの服が汚れないようとの気遣いに感謝し、「ありがとう」と小さく伝えると、ヨシュアは満足げに頷く。
 背中の向こうにヨシュアの気配を感じながら、メイヴェルは自身の膝を抱えた。
 草木も眠る夜分、動物や虫たちも闇の眷族を恐れて身を隠しているのだろうか。音の無い完全な沈黙が戻ってきてしまい、その重さがメイヴェルには息苦しかった。


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Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.