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一章



 忘れられない光景と言うものは、優しいものであれ辛いものであれ、誰にでもあるものなのかもしれない。
 メイヴェルにもいくつかある。たとえば、幼い日に両親と手を繋ぎながら見た、日が沈みゆく遠い山々。たとえば、優しく頭を撫でてくれた父ウォルツの大きな手や、母シェーラの柔らかで温かな膝。
 そうした光景のうちいくつかは、夢と言う形をとり、メイヴェルの中で幾度も繰り返されるのだが、そこには必ずと言っていいほどコーラルが登場して、ゆえにメイヴェルは夢見て目覚めた朝、枕を濡らしている事が多かった。
 共に庭を駆けずり回った日や、小さないたずらが成功した日。本を読みたいと言ったら、「女の子には必要ないよ」と父にやんわりと言われてしょげた日。その翌日、コーラルが人目を忍んでこっそり本を持ち込んでくれたけれど、やっぱり難しくて読めなかった事――ほとんどは楽しく優しい思い出としてメイヴェルの中に残っているのだが、過去となり失われてしまった時を惜しむように、メイヴェルは泣いてしまうのだった。
 ああ、まただ。
 頬や枕が濡れる感触は、メイヴェルにとって慣れたものだった。何もなく目覚める日よりも、泣きながら目覚める日の方が、多いくらいなのだから。
 メイヴェルは涙を拭いながら、ゆっくりと体を起こす――そして、異変に気付いた。
 暗闇だった。
 灯りひとつ無い闇の中に、メイヴェルは居た。
 慌てて窓際に駆け寄って外を覗くが、やはりまだ朝は訪れていない。見上げた空は厚い雲に覆われていて、柔らかな月光はどこにも見つけられなかった。
 月のない夜だと言うのに、蜜蝋の灯りを絶やしてしまった恐怖におののいたメイヴェルは、何度か大きく呼吸を繰り返す事で、己の心を落ち着けた。
 大丈夫だ。まだ自分は生きている。つまりこの部屋にはまだ、闇の眷族は入り込んでいない。
 メイヴェルは手探りで、部屋の隅に置いてあった燭台を手に取ると、部屋を飛び出した。月の見えない晩は屋敷中に蜜蝋を灯しているので、廊下に出れば別の蜜蝋から、火を分けてもらう事ができるはずだ。
 だが、どうしてか、扉の向こうまでも、延々と続く暗闇だった。
 メイヴェルは悲鳴を上げる事もできず、その場に硬直した。
 月の見えない夜、大多数の無力な人間にとって、蜜蝋の灯りだけが命綱だ。だからこの日、カドリーン家には何十もの蜜蝋が灯る。そのうちひとつふたつくらいならば不注意で消えても不思議はないだろう。しかし、あたり一面暗くなるほどの量が一度に消えてしまう事など、まずありえない。
 故意に消されたのだろうか。
 恐ろしい予感が湧き上がり、あまりの恐ろしさにすぐに脳裏から消そうとしたメイヴェルだったが、強烈な印象は簡単に拭う事はできなかった。それに、他の理由が考え付かない。
 誰かが、何らかの理由で、屋敷の蜜蝋を消している。
「お父様! お母様! シャナ! ヨシュア!」
 暗闇の中を進みながら、メイヴェルは家族と使用人たちを呼んだ。
 誰かにこの異常を気付いてもらい、再び蜜蝋を灯してほしかった。そうすれば、誰が何を企んでいようと何の意味もなさず、この屋敷の者たちは平和に次の朝を向かえる事ができるのだから。
「蜜蝋の灯りが消えているの! お父様! お母様!」
 やはり、返事はない。
 誰もこの異常に気付かないのだろうか。それとも、闇に怯えて動けないのだろうか。
 目が暗闇に慣れはじめたのをいい事に、メイヴェルは少し歩みを早めた。喉が痛むのも構わず、先ほどよりも更に声を張り上げ、父や使用人たちを呼び続ける。
 もう軽く十度は繰り返したが、やはり返事は無い。それでもメイヴェルは、呼ぶ事をやめる気はなかった。皆がこの屋敷のどこかで暗闇に怯えているのだとすれば駆けつけてやりたかったし、駆けつける事で、メイヴェルの中に溢れる不安を払拭したかったのだ。
「シャナ――」
 もう一度呼ぼうとして、何かが足先に触れた事に驚き、メイヴェルは口を噤む。
 火が消えた燭台が通路の途中に転がり、それを蹴ってしまったのかとも考えたが、それにしては柔らかく、重く、大きい。
 メイヴェルはその場にゆっくりと膝を着いた。
 暗闇に慣れたからと言って、窓ひとつない通路の途中には何の明かりもなく、視覚でものを判別する事はできない。恐る恐る手を伸ばし、蹴り飛ばしてしまったものが何かを確かめようとした。
 軽く指先に触れる。緊張した体は小さく悲鳴を上げ、反射的に腕を引く――その瞬間だった。沈黙を引き裂く若い男の声が響き、闇を引き裂く輝きが生まれたのは。
【――の名において、世界を照らす優しき光を!】
 光は、本来ならば強烈と言うほどでもなく、心地よい朝の明かり程度だったのかもしれないが、闇に慣れた目には、攻撃的にすら感じる。メイヴェルはとっさに目を伏せ、腕で顔を覆ってみたが、焼きついた光の残像は、すぐには消えてくれなかった。
 この光は何なのか。それに、直前に聞こえた声。聞き慣れていると言うほどではない。だが、知っている。
 あの声は――
「ヨシュア……?」
「メイヴェル様!」
 目の痛みに耐え、メイヴェルが顔を上げると、眼前にヨシュアが迫っていた。
 ヨシュアは呆然としたメイヴェルの体を抱えると床を蹴り、その場を離れて転がる。何度か回り、壁にぶつかる事で回転を止めると、メイヴェルの体を離して即座に立ち上がった。
 軽く打った頭を押さえながら、メイヴェルも体を起こす。
 すると、つい先ほどまでメイヴェルが居たところに、得体のしれないものがあった。
「何……?」
 メイヴェルが両手を広げたほどの長さで、紫色の鱗をびっしりと生やしたものが三匹――三つと言うべきなのかは判断しかねる――ほど、くねくねと気色悪い動きをしながら、ぎざぎざな歯が連なる口と思わしき部位を大きく開けている。突然の光にやや怯みながらも、しっかりとメイヴェルたちを見据えていた――口の上にひとつだけついている、黒くて丸いものが目だとすれば、だが。
「メイヴェル様、下がっていてください」
 ヨシュアは化け物とメイヴェルの間に立つと、腰紐に刺していた二本の小剣を鞘から引き抜き、両手に構える。
 双方の剣とも、状況を忘れて見惚れてしまうほどに、美しい刃だった。ただの剣ではないのか、薄く色付いた光が刃を覆っている。右手の剣は白く、左手の剣は黒く輝いてた。
「ヨシュア、貴方……」
「詳しくはこれを片付けてから説明します。失礼!」
 メイヴェルの言葉をあっさりと断ち切って、ヨシュアは一歩前進し、メイヴェルと距離を開ける。
【光の王よ、ヨシュアの名において、闇を遮る強靱な楯を】
 囁くような優しい声でヨシュアが唱えると、ヨシュアとメイヴェルの間に光り輝く壁が現れる。
 突然の事に言葉を失ったメイヴェルだったが、光の壁はメイヴェルを守りこそすれ、害をなす事はないだろうと、肌で感じ取る。そっと触れてみると、人肌のように温かく優しく柔らかくありながら、出入りをけして許さない確固たるものとして、そこに存在していた。
 メイヴェルはぼんやりとしか見えなくなった、光の壁の向こうに視線を送る。
 光を纏う小剣を振り上げ、ヨシュアが床を蹴った。軽やかな動きで襲い掛かる化け物たちを避け、白いほうの剣であっさりと一匹を切り裂く。人間にとっての血にあたるものなのか、化け物はどろっとした紫色の体液を流しながら、その場に果てた。
 あれは、闇の眷族と呼ばれるものだ。
 メイヴェルは突然、そう直感した。
 月の明かりも蜜蝋の灯りもない闇に乗じて現れ、人を食らうおぞましい存在。
 では、ヨシュアは?
 メイヴェルは身軽な動きで更に一匹の魔を屠ったヨシュアを見つめた。
 月も蜜蝋もない夜の中でも、闇の眷族を恐れない存在を、メイヴェルはひとつだけ知っていた。実際に出会った事はないが、以前コーラルと共に読んだ書物のひとつに書いてあったのだ。
 万物の根元を司る王と契約し、魔法を操る<守護者>――ヨシュアは間違いなくそれなのだろう。【光の王よ】と唱えていたから、契約しているのは光の王。闇の眷族をたやすく切り刻む小剣は、<守護者>自らが魔力を込めると言う法剣だろう。
「どうして……?」
 <守護者>は闇の恐怖と戦う事ができる唯一の存在であるため、どこの街も喉から手がでるほど欲しがっている。しかし、生まれ持った才能がものを言う職業であるために絶対数が少なく、そのほとんどが高待遇で迎えられる大きな街に抱えられているのが現状だった。煩わしさを避けるため、あるいは思い入れのある地を守るために、小さな町や村に住む欲の無い者も居ると言うが、ほんのひと握りだろう。
 ヨシュアが<守護者>としてどれほどの力の持ち主か、詳しくないメイヴェルには判らないが、どの程度にせよ、<守護者>である事を隠匿して使用人として働くより、遥かに良い条件で雇ってもらえるはずである。だからこそメイヴェルは、なぜヨシュアがカドリーン家に勤めていたのか、真意を測りかねて困惑するしかなかった。
「っ……!」
「ヨシュア!」
 最後の一匹となった闇の眷族に肩を突かれ、ヨシュアが小さくうめき声を上げた。
 だが、隙は見せない。飛び掛ってきた闇の眷族に、すかさず刃を叩き込み、その動きを止めた。
「ヨシュア、怪我を……!」
「大丈夫です。ぶつかられただけで、傷にはなってませんから」
「でも」
 ヨシュアは両の小剣に付着した、魔の体液を拭い去ると鞘に収めると、ふたりの間を遮る光の壁を消し去り、メイヴェルのそばに歩み寄ってきた。動きにぎこちない所はなく、宣言通り、傷を負ってはいないようだ。
「素性を偽り使用人として屋敷に入るなどと、誰の目から見ても怪しいのは判っております。判っていて、無茶な発言をすると自分でも思います。ですが、他に手はありません」
 ヨシュアはメイヴェルに手を差し出した。
「今は俺を信じて、一緒に逃げてください」
 言ったヨシュアの瞳は驚くほど真摯で、メイヴェルは息を飲んだ。
 確かに、ヨシュアは怪しい。無条件で信頼する気にはとてもなれない。
 けれど闇の中に居たメイヴェルに光を見せてくれたのはヨシュアで、闇の眷族とおぼしき存在からメイヴェルを守ってくれたのもまたヨシュアである事は、疑いのない事実だった。
『もし蝋燭が全部消えて、闇の眷族が家ん中入り込んできても、メイヴェルに怖い思いはさせないよ。俺が、お前を守るからな!』
 ヨシュアの瞳を見上げていると、忘れられない光景のひとつが蘇る。
 兄と呼ぶ事を許してくれた少年の、幼い誓い。闇に怯えるメイヴェルの心を救ってくれた言葉。
「守ってくれるの? 私を?」
「はい」
「絶対に?」
「絶対です」
 力強く言い切られたヨシュアの返事は、もしコーラルがここに居たら言ってくれただろうと思う返事と、全く同じだった。それは、メイヴェルがためらいを捨て去るに充分な力となった。
 差し出された大きな手に、メイヴェルが自身の手を重ねると、ヨシュアは柔らかく包み込むようにその手を掴む。
「コーラル……お兄ちゃん」
 メイヴェルが呟くと、繋いだヨシュアの手に、少し力がこもったように感じた。


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