一章
1
歌にも似た小鳥の囀りに誘われたのだ、と自分自身に言い訳をしながら、メイヴェルは顔を上げる。
それは日課と言えば良いのか、それとも単なる癖と言うべきか。六年前ほど前からメイヴェルには、暇さえあれば何かと理由を付け、窓の向こうを眺めると言う習慣があった。
暇さえあれば、と言うのは少し語弊があるかもしれない。暇がなければむりやりにでも作り、何か他の作業をしている時でさえ、外を覗いているのだから。
その日もメイヴェルは、何度かちらちらと窓の外を見ていた。前の通りを歩いている人の声が聞こえただの、風の音が強まっただの、そんな些細な事を理由にして、だ。もちろん、窓の向こうに変化を期待しているからなのだが、残念な事に、視界に広がる光景に、メイヴェルが待ち望んでいるような変化は、今日も見られなかった。
手触りの良い純白の生地に刺繍を縫いつけながら、たまらずメイヴェルはため息を吐く。
遠い昔に刺繍に飽きていたメイヴェルは、立ち上がって窓辺に寄り、硝子窓にてのひらを付けて、伝わってくる冷たい感触を味わった。
憤怒か、焦燥か、悲哀か。常にメイヴェルの中にあり、時折どうしようもなく高ぶって自身を責め立てる感情の正体を、メイヴェルは掴めずにいた。ただ、人肌よりも冷たく、硬く、それでいて美しい硝子に触れていると、もてあまし気味の感情が、徐々に落ち着くような気がするのだ。
「コーラル――お兄ちゃん……」
感情に引き摺られ、ついメイヴェルは呼んでしまった。六年前、突然メイヴェルの前から姿を消した存在を。
闇の眷族に怯えながら夜を越そうとするメイヴェルに、「起きるまでずっとそばに居る」と約束したはずの少年は、翌朝メイヴェルが目覚めた時には、すでに屋敷のどこにも居なかった。
父ウォルツや母シェーラは何かを知っていそうだったが、メイヴェルに詳しく教えてはくれなかった。「少し、お勉強に行っているの」などと母は言っていたが、本当にそうなら詳細を教えてくれても良いと思う。とてもではないが信じられなかった。
メイヴェルに言えないような理由で、コーラルがカドリーン家から去ったのは、間違いないのだろう。それは一体、どんな理由なのだろうか。
あの晩、何か間違いがあって、眷族に喰われてしまった? それは確かに衝撃で、まだ幼かったメイヴェルに語れる事ではないかもしれない。
実の母親が、二年ぶりに迎えにきた? それは確かに不愉快で、まだ幼かったメイヴェルに語れる事ではないかもしれない。
だが、メイヴェルが一番悲しいのは、居なくなった事そのものではなかった。
メイヴェルは六年前、まだ九歳だった時でさえ、コーラルがいつか遠くに行ってしまうだろう覚悟ができていた。コーラルがたまたま父と同じ髪色をしていたため、あまり事情を知らない人は本当の兄妹だと思い込んでいたし、コーラルが兄と呼ぶ事を許してくれた時は本当に嬉しかったが、彼は結局、メイヴェルが七歳の時に引き取られた、他人なのだから。
けれど、約束した。
約束したのに。
「嘘吐き」
メイヴェルは義兄の姿を思い起こし、まるで本当にそこに居るかのように、慈しみと恨みを絶妙に交えた視線を投げかける。
「朝まで一緒に居るって、言ったくせに」
絶対に約束を守ってくれると信じていた。勝手に向けた信頼だと言われれば、それまでだけれど。
ため息で窓を少しだけ曇らせてから、先ほどまで腰掛けていた椅子に戻ろうとしたメイヴェルの視界の端に、カドリーン家の門の前に立つ人影がちらついた。
六年の歳月は少年の面影を変えるであろうから、今のコーラルがどのような姿をしているのか、メイヴェルには判らない。故に、多少見覚えのない姿でも期待してしまうのだが――門の前の人物の髪が焦茶色だと判ると、期待はあっさり霧散した。あれがコーラルのはずがない。
落胆のあまり動けないで居ると、やがて使用人のひとりが門に近寄る様子が目に映った。いくつか言葉を交わし、何か受け取っている。すると、メイヴェルの胸に、新たな期待が湧き上がった。
居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出す。通路を走り、階段を駆け下りた。途中すれ違った母親にはしたないと注意されたが、ゆっくり歩く気にはならなかった。
メイヴェルがちょうど玄関に辿り着いたところで、ゆっくりと扉が開く。昼間のきつい太陽光を背負って入ってきた者は、先ほど客人を相手にしていた、使用人だ。漆黒の髪と海のように深い青色の瞳が印象的な青年で、半年ほど前からカドリーン家で働いている。名は確か――ヨシュア、だっただろうか。
「どうなさいました、メイヴェル様。こんなところで。お出かけですか?」
「今、お客様がいらっしゃらなかった?」
「お客様と申しますか……手紙を届けにきた使いの者です」
ヨシュアは何通かの手紙を、メイヴェルの目の高さまで掲げた。
近すぎるくらい近付いて、一通ずつ宛先を確かめる。ほとんどは父宛のもので、一通だけヨシュア宛のものがあるだけだ。それでもと、僅かな希望に縋って差出人の名前にコーラルを探したが、やはり見つけられない。
メイヴェルは大いに落胆した。
いい加減、諦めた方がいいのだろう。コーラルが連絡してくれる事を、期待するなど。連絡できるなら、もうとっくにしてくれているだろう。できないか、したくないか、どちらかなのだ。
「お仕事の邪魔をしてごめんなさい、ヨシュア。ありがとう」
謝罪と礼の言葉を口にすると、ヨシュアは切れ長の瞳を見開いて、メイヴェルを凝視した。
新参者なだけあって歳も若い――二十くらいだろうか――青年はいつも寡黙で、与えられた仕事を黙々とこなしていると言う印象があったメイヴェルは、彼があからさまに表情を崩した事に少し驚き、大きく安堵した。今までろくに言葉を交わしていないせいで、勝手に「冷たそう」と思っていたのだが、その印象が一気に崩れていく。
「どうかしたの?」
気になって訊ねると、ヨシュアは僅かに微笑んで、乱暴に頭を掻いた。
「いえ。メイヴェル様が俺の名前を覚えていてくださっているとは、思わなかったので」
「どうして?」
「どうして、と申されましても。そう言うものだと認識していたものですから」
「失礼ね。お世話になっている人の名前を忘れるほど、恩知らずじゃないわよ? あまり顔を合わせる機会がないから、覚えるまでに少し時間がかかったけど……貴方がうちに来てからもう半年なるんだから、さすがに覚える」
メイヴェルが言いたい事を言い終えて唇を引き結ぶと、無言でヨシュアと見つめあう事になった。
沈黙が連れ込んだその均衡に耐え切れなくなったのはヨシュアの方が先で、ぷっ、と小さく吹き出すと、メイヴェルから顔を反らす。
笑ったヨシュアは普段よりもいくつか幼く見えた。
「私、何かおかしい事を言った?」
「いいえ。素晴らしい事をおっしゃいました」
メイヴェルがどれほど強く見つめようと、ヨシュアはそれ以上何の説明もしようとしなかった。
彼の言葉の真意が気になってしょうがなかったメイヴェルだが、どれほど迫ったところで、彼は答えを言わないだろうと表情から察し、そう言うものなのだとむりやり納得する事にした。彼が口にした言葉は、メイヴェルにとって嬉しいものであろうし、彼の今までよりも和らいだ表情は、嘘を言っているようには見えなかったからだ。
それに、とっつきにくいと思っていた青年が、実は気さくだったと判っただけでも、充分な収穫かもしれない。
「じゃあ私、部屋に戻るから。もしも私宛に何か連絡があったら、すぐに教えてね。今日でなくても」
「承知いたしました」
「よろしくね」
メイヴェルは小さく会釈し、駆けてきた道を戻ろうと、ヨシュアに背を向ける。
「あ、メイヴェル様」
瞬間、ヨシュアに呼び止められ、メイヴェルは再びヨシュアに向き直った。
「何?」
「今日は夜まで厚い雲が残りそうです。明後日は新月ですし――屋敷中に多くの蜜蝋を灯しますから問題はないはずですが、闇の眷族は侮りがたい存在です。お気を付けください」
「うん。ありがとう」
誰もが当たり前に口にする注意事項に、大切な人を失った六年前の夜を思い返したメイヴェルは、自分自身をごまかすため、ヨシュアに微笑みかける。そしてもてあまし気味の感情を振り切るため、小走りで来た道を戻っていった。
メイヴェルの小さな背中を目で追い続けていたヨシュアは、少女が階段の上へと完全に姿を消した事と、辺りに誰も居ない事を確かめてから、手元に視線を落とす。手紙の束から唯一自分宛のものを抜き出すと、指で宛先、差出人名、封蝋の印をなぞった。
「なんかあったのかな」
呟いて、ヨシュアは焦り気味に封を開ける。
中は、ただ空白だった。何も書いていないのか? と、送り主の意図を理解できずに首を傾げていると、親指の先が触れたところだけ、文字が浮かびあがっている事が判る。
もしかして、と、ヨシュアは紙全体をてのひらでなぞる。予想通りだった。触れたところから順次、文字が読めるようになったのだ。どうやら、元々は文字を綴った紙と同色だったインクが、ヨシュアの接触によって、黒に色を変えたらしい。
「こんな小細工してまで隠しておきたいのかねえ、お兄ちゃんは」
呟いてからすぐ、ヨシュアは「そりゃそうか」と続けた。まだ十五歳にもならない、真っ直ぐで可愛い女の子に、わざわざ怖い想いをさせたくないのは、たとえ兄でなかったとしても、普通に抱くべき感情だろうと思ったからだ。
「それにしてもアーロのやつ、また妙な小技覚えやがったな」
少なくとも半年前までは自身の力の使い道に迷っていた弟弟子が、どんな顔をしてこんな術を使ったのか、想像するだけで楽しくなったヨシュアは、小さく笑った。
それから書簡を、ろくに目を通さずに懐にしまう。手紙の贈り主が、万が一にもメイヴェルに知られたくないと思ってわざわざこんな細工をしたのならば、隠し通してやる事が礼儀だろうと思ったからだった。
中身は、部屋に戻ってから、確実にひとりになってから読もう。
Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.