序章
3
「おや。聞こえたのかい?」
ローブの人物は小さく唇を動かすだけで、声を張っている様子はなかったが、その声ははっきりとコーラルの耳に届いた。
どうやら、女性の声のようだ。だがメイヴェルや、メイヴェルの母シェーラのように、愛らしさや柔らかさを感じさせる声ではない。硬質で、冷たく、粗野にも感じるものだった。その上、年齢も判り辛い。さすがに少女のものではなさそうだが――
「おかしいねぇ。騒音騒ぎになったら面倒だから、眷族が出す音は仲間にしか聞こえないように操っていたつもりだったんだけど。うるさかったかい? こんな時間だから寝てたかな? 起こしちまって悪かったね」
「い……いや、別に、寝てはなかったから」
「眠りかけていたけど」と言う必要はなかろうと、コーラルはそこまでで押し黙った。
「しっかしお前さん、綺麗な目をしてるね」
「え……?」
「そうだね、きっと、お前さんには才能があるんだろう。そう言う目をした子は、大抵いい<守護者>になるんだ。だから音響の王は、お前さんをアタシの仲間だと思っちまったんだろうね。まったく、適当な仕事をするやつだ」
ローブの女は低い声で笑ってから、薄気味悪い微笑みを浮かべたまま、コーラルを真っ直ぐに見つめた。
「どうだい? お前さん、アタシのところに来ないかい?」
「は?」
「おうおう、その目、完全にアタシを怪しんでるねぇ。慣れてるからいいけどさ。言っておくけど、アタシは怪しくもなんともないよ。こう見えて、街のお偉いさんに雇われてる身だからねぇ。とりあえず今夜限定だけど」
「<守護者>……?」
「そうだよ。信じられないって事はないだろ? 見てなかったかい? アタシが闇の眷族を倒すとこ」
見ていた。この目で、はっきりと。
厳密には、闇の眷族が炎に焼かれるところを見ただけで、ローブの女が倒したかどうかはっきり判らないのだが、他にそれらしき人物も居ないのだから、ローブの女が<守護者>なのは、まず間違いない。
<守護者>は、世界の根元を司る王と契約し、魔法を使えるようになった者たちだ。目にした情報と口ぶりから察するに、ローブの女は炎の王や音響の王と契約しているのだろう。
「俺に、才能があるのか? <守護者>の?」
「ああ」
「俺は<守護者>に、なれるかもしれないのか?」
「きっとね。アタシはこれまで十人以上の弟子を持ったけど、みんなちゃあんと王と契約したよ。だから見る目には、自信があるんだ」
現役の<守護者>である人物にはっきりと肯定され、コーラルの心臓は普段よりも力強く鳴りはじめた。
闇の眷族は、人が作るどんな武器でも傷付ける事ができない。故に普通の人間では闇の眷族に太刀打ちできず、闇の眷族から身を守るためには、蜜蝋の火を消さないようにし、灯りの中でじっとして、夜が明けるのを待つしかない。
けれど、<守護者>なら別だ。王たちの力を借りて魔法を使えば、闇の眷族と戦う事ができる。ローブの女のように、力のない民を――たとえば、コーラルを家族のように受け入れてくれた人たちを――守る事ができるのだ。
「<守護者>か……」
話に聞く<守護者>の存在に、憧れた事がなかったと言えば嘘になる。大抵の少年たちは、物語に登場するような強き英雄に焦がれるもので、<守護者>はそれに最も近い現実だからだ。
それに、色々な街や金持ちの家に、高給で雇ってもらえると聞いた事がある。もし自分が<守護者>であったら、実の母に捨てられる事にならなかったかもしれないと、考えた事があったのだ。
でも。
「でも、一緒には、いけないよ」
「おや。どうして」
ローブの女は心底不思議そうに首を傾げた。
「今は、妹のそばに居てやりたいんだ。守ってやるって約束したから」
「妹、ねぇ……もしかして、今お前さんと同じ部屋に居るかい?」
角度的に見えるはずがなく、説明もしてもいない真実を言い当てられ、コーラルは息を飲んだ。
「どうして判るんだ? そっから見える力があるのか?」
「見えやしないよ。もしそうなら、なおさらアタシと一緒に来たほうがいいんじゃないかと思っただけさ。でも、無理強いはしないよ。この業界、人手はいつでも不足しているから、才能のある子は惜しいんだけど、一番大切な才能はやっぱり、本人のやる気だからねぇ」
じゃあね、と軽く言ったローブの女は、手を振る代わりに杖を振って、その場を立ち去ろうとした。
「待って!」
踵を返した彼女の、薄汚れたローブに包まれた背中を見た時、コーラルは無意識に引き止める言葉を口にしていた。
ローブの女は足を止めた。振り返ってもくれた。けれどほぼ無意識の状態で呼び止めてしまったコーラルは、彼女に何と言っていいか判らなかった。
「そっちに行く。この距離、話しにくいから」
とりあえず時間を稼ぐためにそう言って、コーラルは窓を閉めた。まだ火が残っている蜜蝋から、消えてしまった蜜蝋に火を移し、メイヴェルが元通り五本の蜜蝋に守られる形を整える。
窓を開けてからこちら、少しうるさくしてしたのだが、メイヴェルの睡眠を妨げる事はなかったようだ。寝汚い妹に少々呆れつつも、安堵のあまり微笑んだコーラルは、少し離れる事を心の中でメイヴェルに謝ってから、部屋を出た。
廊下を抜け、階段を抜け、玄関にたどり着くと、そこには人影があった。どうやら扉の向こうを確認するための小さな窓から、外を覗いているようだ。更に近付くと、その人物がメイヴェルの母、シェーラだと判った。彼女自身が手にした蜜蝋の灯りに、メイヴェルと同じ栗色の髪が照らされている。
「シェーラ様?」
声をかけると、シェーラは体をこわばらせてから、コーラルに振り返る。突然声をかけられて驚いたのだろうか?
「コーラル……」
「どうしたんですか、こんなところで」
シェーラは少し青白い顔に、不安げな笑みを浮かべた。
「家の門の前に、ずっと人が立っているから、少し気になったのよ。うちに何か用なのかしら。気持ち悪くて」
「あ、すみません。それ、俺のせいです」
自分が直接悪さをしたわけではないが、間接的に怯えさせた事が申し訳なく、コーラルは頭をかきながら謝った。
「あの方、コーラルの知り合いなの?」
「いえ。あの人は、今日の新月に合わせて街が雇った<守護者>みたいです。それで、俺を誘ってくれていて……」
「誘うって、どこに?」
「場所でなく、<守護者>にならないかって話です。それで、俺も興味はあるので、もう少し話を聞かせてもらおうかなって……いや、今すぐにって話じゃないんですけど。いつまでもここにお世話になりっぱなしなわけにはいかないし、将来<守護者>になれたらいいかな、とか……」
「なれるの? 貴方が? <守護者>に?」
シェーラは急に語調を強くしてコーラル問いかける。
真剣な眼差しは睨んでいるかのようで、肩を掴んでくる力も妙に強くて、コーラルはしばらく戸惑ってから、一度だけ頷いた。
「あの人は、何人もの<守護者>を育てた事があるらしくて、で、俺には多分才能があるって……」
「じゃあ貴方は、戦えるようになるのね? あの忌々しい、闇の眷族と!」
「た、多分……」
弱々しくコーラルが肯定すると、シェーラは深く息を吐き出して、崩れ落ちるように膝を着いた。肩を掴んでいた手をコーラルの手まで滑らせ、優しく包み込む。
「シェ、シェーラ様?」
「お願い、コーラル。あの人と一緒に行って。<守護者>になって、帰ってきて」
シェーラは再び手に力を込め、コーラルの手を強く握った。
「幼い貴方に酷なお願いだと判ってる。でも、もう、貴方しか頼れる人は居ないの」
「ど、どう言う事ですか?」
シェーラが何を言っているのか判らず、コーラルは聞き返す。するとシェーラは気まずそうにコーラルから目を反らしたが、逃げるつもりはないようで、すぐに答えをくれた。
「メイヴェルの首の模様に気付いている?」
コーラルは黙って頷いた。
「あれは、闇の眷族の中でも特に強い者に狙われている証なのですって」
急に心臓が冷たくなったような気がした。
声を出そうとして、けれど脳も麻痺しているのか声が出ず、見開いた目でシェーラを見つめ続ける事が、今のコーラルにできる全てだった。
「どうしてそんなものがメイヴェルについているか判らない。でも、調べたから、確かな事なの。メイヴェルは、十五歳になったら、強い強い闇の眷族に追われて、食べられてしまう。<守護者>に、守ってもわらないと。それも、強い強い、<守護者>に。でもそんな人、とても雇えない……」
太陽の光があれば、月の光があれば、蜜蝋の灯りがあれば、闇の眷族に喰われる事はない。
けれど、闇の眷族は蜜蝋の火を消す事もあるのだと、コーラルはつい先ほど体感したばかりだ。「強い闇の眷族」がどれほどのものか判らないが、きっとさっきのものよりも強いだろう。そうなったら、きっと抗えない。
闇の眷族を倒す力がなければ、メイヴェルを守れない。
六年後、メイヴェルが十五歳になるまでに、力がないと――
「じゃあ、俺、行かないと」
コーラルは、自分でも驚くほど迷いなく、力強い声で、はっきりと宣言した。
「行ってきます。今、すぐにでも。どんな事があっても、必ず<守護者>になって帰ってきます。メイヴェルが、十五歳になるまでに」
シェーラは燭台を投げ捨て、両腕でコーラルを抱きしめてくれた。「ごめんなさい」と、何度も繰り返しながら、暖かな涙でコーラルの肩を濡らした。
「泣かないでください」
「でも」
「この家の人たちには、拾ってもらった恩があるんです。行けと言われれば、どこにでも行きます。けど、それだけで行くわけじゃないです。俺だって、メイヴェルを守りたいんです。だから、謝られても、困ります」
照れ笑いを浮かべながらコーラルが言うと、シェーラは嗚咽を飲み込んで、口にする言葉を変えた。ただ一度、優しい声で、「ありがとう」と言ってくれた。
本当は、この家に住む人々から離れたくない。けれど、離れ難いと言う想いをくれた人々のためにすべき事が、離れる事だと言うのなら、躊躇はしても迷いはなかった。
「メイヴェルに謝っておいてもらえますか。朝まで一緒に居てやる、って言っちゃってたので、目が覚めたら怒るかも」
「そんな……そうね、メイヴェルを、起こしてくるわ。別れの挨拶くらい」
コーラルは慌てて首を左右に振った。
「いいです。よく寝てたし。何で突然<守護者>になりに行くのか聞かれたら、困るし。うっかり本当の事言っちゃったら、あいつ怖がるだろうから、だったら、嘘吐きって言われるほうがいいや」
泣きながらシェーラは頷いた。何度も、何度も――コーラルが、いいかげん出立しようと体を引き離すまで。
「行ってきます」
コーラルは、カドリーンの家を出る。月のない静かな夜空の下、ひとり扉をくぐる事は恐ろしかったが、何よりも大切な役目と決意は、恐怖を払拭するほどの勇気となった。
「なんだい。怖気付いたかと思ったが、ちゃんと出てきたね」
「気が変わったんだ。少しでもはやく、立派な<守護者>にならないといけなくなった。だから、今すぐ、弟子にしてください」
コーラルは深々と頭を下げた。
「ふぅん……ま、聞かなくても大体判るわな。理由は何でもいいよ。やる気と才能のある子は大歓迎だ。おいで」
「よろしくお願いします」
「ああ、よろしくね」
微笑を浮かべたローブの女は、フードを払う。そうして現れた眼差しは、穏やかかつ理知的で、コーラルに安心感を与えてくれた。
コーラルの頭を撫る手も、存外優しく、温かい。コーラルは少しだけ泣きたい気持ちになった。
「アタシにはお前さんの他にも弟子が居てね。今は、ふたりだったかな。ま、仲良くやっとくれ」
「あの……」
「なんだい?」
「貴方の」
「師匠って呼びな」
「師匠の、名前は?」
「ああ、言ってなかったね。ゾーグ、だよ」
とっさにコーラルは、男みたいな名前だなと思ったが、言葉にせずに飲み込んだ。
ゾーグはカドリーンの家に背を向け静かに歩き出す。慌ててコーラルが後を追うと、ゾーグは優しく、コーラルの手を引いてくれた。
引かれるまま歩く中、コーラルは幾度も振り返る。カドリーンの屋敷が、闇の向こうに見えなくなるその時まで。
Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.