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序章



 深い闇が街を覆う新月の夜は、いつも静かだ。普段ならば真夜中まで賑わっているはずの繁華街ですら、かすかな風の音が聞き取れるほどにしんと静まり返り、人の気配を感じる事が難しくなっている。
 二年前、コーラルがこのカドリーン家の子供として迎え入れられた晩も、同じように静かだった。身も心も冷えきったあの日の事は、できる限り思い出さないようにしているけれど、ときおり急激に蘇ってきて、心臓が凍ったような気になる――震えが止まらなくなってどうしようもなくなると、抱きしめてくれる人や、手を繋いでくれる人が居るから、あの日ほど絶望的な気持ちになる事は、もうないけれど。
「もう寝るのか? コーラル」
「おやすみなさい」
 眠るために部屋に戻ろうとしたコーラルに、揃って微笑みかけて声をかけてくれたのは、カドリーン家の主であるウォルツと、夫人であるシェーラだった。
「おやすみなさい、ウォルツ様、シェーラ様」
 優しい人たちだから、コーラルが「父さん」「母さん」と呼んだとしても、ふたりは許してくれるだろう。もしかすると、喜んでくれるかもしれない。けれど申し訳なさと後ろめたさで、今のところはどうしても、父と、母と、呼ぶ事ができないコーラルだった。
「おやすみ」
 笑みに少しだけ寂しさを足したウォルツが、大きな手でコーラルの頭を撫でる。ウォルツは、自身のものとよく似たコーラルの金茶の髪を、そうしてよく触る。親子のふりを続けるための、大切な儀式のように。
 もう一度「おやすみなさい」と言って、コーラルは二階へ上がる。階段を踏みしめながら、わずかに残る温もりをなんとなく逃したくなくて、ウォルツが撫でてくれた頭部を抑えるように触れた。
 自身の部屋に戻ろうとしたコーラルだが、思い直して、ひとつ手前の扉の前に止まる。軽くノックをして中を覗き込むと、寝台の上で毛布にくるまり丸まっていた物体が、もぞもぞと動きだした。
「お兄ちゃん?」
 忘れられないあの日、立ち尽くすコーラルを最初に見つけてくれた女の子を二年分成長させた顔が、そこに現れる。不安に怯えて涙ぐむ大きな群青の瞳と、乱れに乱れた緩く波打つ栗色の髪と、小刻みに震える唇が可愛らしくて、コーラルはつい小さく笑った。
「怯えすぎだろ」
 コーラルはメイヴェルがうずくまる寝台に歩み寄り、端に腰かける。すると毛布から飛び出してきた白い手が、コーラルの手をがっちりと掴んだ。
 手は温かいのに、小指にはまった指輪が触れた部分だけ妙に冷たくて、コーラルは震えた。
「何だ。この指輪、まだしてるのか?」
 二年前、コーラルがカドリーン家に引き取られてすぐの頃、お小遣いを貰って、ふたりで祭りに行った事がある。その時、メイヴェルが欲しい欲しいと泣き叫ぶので、買ってやったものだ。
 おかげで小遣いをほとんど使い果たし、自分が欲しいものは何ひとつ買えなかったと言う、少し苦い思い出があるのだが、子供の小遣いで買える程度の安物である事は確かで、何年も使い続けるほどの価値があるとは、コーラルには思えなかった。
「なんか、安心するんだもん。怖さが少し紛れるって言うか。でも、やっぱ怖いから、お兄ちゃん、朝まで一緒に居て」
 上目使いで見上げてくる義妹が、あまりにも真剣な瞳をしているから、コーラルも真剣な目で見つめ返し、小さな手を強く握りかえした。
 贅沢にもこの部屋には、四隅と中心に合わせて五つ、蜜蝋を灯してある。全部がいっぺんに消える事などまずないし、仮に部屋の中の灯りが途絶えてたとしても、屋敷の中には他にも沢山蝋燭が灯っている。闇の眷族が家の中に踏み入る隙間などまず見つけられず、怯える必要などないはずなのだが、それはあくまで理屈の話でしかない。メイヴェルは、ただ怖いのだ。闇の眷族と言う、人を食らう存在が。
 はじめて会った日は、夜が近付いていても平気で外に出てきていたものだが――成長とともに闇の眷族の恐ろしさを理解してきた、と言う事だろうか。
「何なら一緒に寝てやろうか?」
「うん!」
「ちょっとも迷わねーのか」
「だって、お兄ちゃんが一緒なら安心だもん!」
 そんなわけないだろ、と即座に思ったコーラルだが、浮かんだ言葉を飲み込んで、寝台に潜り込む。メイヴェルが毛布を分けてくれたので、一緒に包まった。毛布にはメイヴェルの温もりが移っていて、とても温かかった。
「もし蝋燭が全部消えて、闇の眷族が家ん中入り込んできても、メイヴェルに怖い思いはさせないよ。俺が、お前を守るから!」
「ほんと?」
「うん」
「どうやって?」
「……どうにかして!」
 無茶な事を言っている自覚はあったが、勢い付いた自身を止める事は叶わず、コーラルはきっぱりと言い切った。
 闇の眷族が、何の力もない子供にどうにかできるようなものではないだろうと判っていたが、気持ちは本物だ。二年前に出会ったばかりのコーラルを、それでも兄と慕ってくれる可愛い妹を、守ってやりたい。
 こんな自分を、見栄っ張りだと言って、メイヴェルは笑うだろうか。
 義妹の反応が恐ろしく、横目でちらりと覗き見たコーラルは、メイヴェルがコーラルを馬鹿にした様子もなく、柔らかく微笑んでいた事に、心の底から安堵した。
「絶対ね」
「ああ、絶対!」
 コーラルが揺るぎない誓いを宣言すると、メイヴェルは満面の笑みを浮かべ、枕に顔を埋めた。
「安心したら眠くなってきちゃった」
「じゃあ、おやすみ。蝋燭は俺が見ておくからな」
「無理しなくていいよ。眠くなったら寝ちゃって」
「ほっといて、蝋燭が消えちゃってもいいのか?」
 さっきまであれだけ怯えていたのに、随分無防備な事だ。
 驚いたコーラルが訊ねると、メイヴェルは首を傾け、少しだけ顔を覗かせてから頷いた。
「だって、もしも闇の眷族がやってきても、お兄ちゃんが守ってくれるんでしょ? だったら、消えても平気」
 言って、メイヴェルは目を伏せる。
「お兄ちゃんは、嘘なんか言わないもんね」
 絶対の信頼を示す言葉だけを残し、メイヴェルは目を伏せる。
 つい先ほどまでは恐怖が眠気を抑えていたようだが、今は安堵が眠気を引きずり出してきたらしい。さほど間を開けず、メイヴェルは静かな寝息を立てはじめた。
 無邪気な妹の可愛らしさに、自然と笑みがこぼれ出てくる。端から見たらさぞ気味が悪いだろう。けれど、どうせ誰も見ていないのだからと隠す事はせず、コーラルはにやつきながら、蜜蝋に注意を払うため、寝返って視界に映るものを変えようとした。
 その途中、メイヴェルの肩が毛布からはみ出している事に気が付く。これでは魔に襲われなくとも、風邪をひいてしまうかもしれないと、コーラルは毛布に手をかけた。
 毛布の端を、栗色の髪の毛に隠された首筋まで引き上げる。すると嫌でも目につくのは、細い首筋に刻まれた、赤ん坊の拳ほどの大きさの痣だった――いや、痣のようなもの、と言うべきだろうか。赤黒い色をしたそれは、生まれた時から彼女の肌に刻まれていた刻印なのだから。
 何にせよ、陶磁器のように白いメイヴェル肌に不似合いなのは確かで、コーラルは目を背けた。肩程度まで髪を伸ばせば隠せるものだし、痛みがあるわけでもないので、メイヴェル本人はあまり気にしていないようなのだが、コーラルはそれが目に入るといつも嫌な気分になるのだ。メイヴェルが傷付くかもしれないと思って黙っているが、正直言って薄気味悪い。異国のまがまがしい文字のようで、呪いの象徴のように感じてしまう。
 変わってやれればなあ、といつも思う。愛らしいメイヴェルに、醜いものは似合わない。ならば自分の体に移せればいいのにと思うのだが、できるわけもない話だった。
 ため息ひとつ吐き出して、コーラルは部屋の中心に灯る蜜蝋を眺めた。小さな火は、安定して燃え続けている。風に揺られる事もなく、コーラルに安心を与えてくれる。
 ほとんど変化のないものをじっと眺め続けていたせいだろうか。コーラルも眠くなってきた。静かすぎるせいもあるだろう。扉の向こうの、廊下を歩く使用人の足音や、けしてうるさくない隣の部屋の話し声や、きっちり締められた窓の向こうの緩やかな風の音すら聞こえてしまうほどで、それらの微かな音は、雑音と言うよりはむしろ心地よく、コーラルを穏やかな眠りに誘うのだった。
 だが、コーラルは結局眠りに落ちなかった。ひたりひたりと、引きずっているかのように重く、それでいて飛んでいるかのように軽い、耳障りな音が聞こえてきたからだった。
 コーラルはそっと身を起こし、寝台を這い出した。耳を澄まし、音がどこから聞こえてくるのか確かめようとした。隣の部屋――ではない。廊下――でもない。では、窓の向こうか。コーラルは窓に歩み寄り、耳を付けた。気味の悪い音が、少し強まったような気がした。
 コーラルは迷った末、部屋の隅に置いてあった燭台のひとつを手元に置いた。それから、勢いよく雨戸を開けた。
 月がなく、無数の星が輝く黒い空の下、それは居た。
 最初は、赤錆がこびりついた鉄くずのように黒い、ごつごつした固まりだと思った。しかしその固まりが、突然もれだした蜜蝋の灯りを浴びて、酷い音を出した。一瞬後、それが音ではなく悲鳴だと、固まりだと思っていたものは生き物――おそらく闇の眷族と呼ばれるものだと気付くと、コーラルはその場に座り込んでいた。恐ろしさのあまり、悲鳴も上げられなかった。
 闇の眷族は、窓を離れた。瞬時に光から遠ざかったのでよく判らないが、黒い羽のようなものを広げ、飛んでいるようだった。星灯りの下でぼんやりと輪郭だけが見え、はっきりしないぶん余計に、コーラルは恐ろしく感じていた。
 恐怖だけに支配されずにすんだのは、後ろにメイヴェルが居るからだった。コーラルは怯えるよりも先にやらねばならない事がある。メイヴェルを守る事、だ。
 コーラルは燭台をより強く握りしめ、窓から少し距離を置いた。大丈夫、大丈夫だ。この灯りさえあれば、闇の眷族はこっちに近寄れない。近寄ってこなければ、あいつはメイヴェルに危害を加えられないはずだ――
 自身が無力である事を、コーラルは知っていた。眷族を倒す事ができるのは<守護者>と呼ばれる者たちだけで、コーラルには戦う力などない。
 けれど、約束は必ず守る。メイヴェルを、守ってみせる。
 二年前、メイヴェルが見つけてくれたから、今のコーラルがある。それも守りたいと思う理由のひとつだ。けれど今コーラルが、メイヴェルと守りたいと思うのは、彼女が大切な家族で、その中でも一番小さく弱い、妹だからだった。
『まだ早かったみたいだなぁ』
 低い声が響いた。窓の向こうでうなる声。それは、コーラルにもやっと届くほどの、掠れた声だった。
『でももう、いいんじゃねえかなあ……』
 何が早くて、何がもういいのか。その判断を、なぜ自分の部屋を覗きながら語るのか。
 内容ばかりが気になったコーラルは、なぜ闇の眷族の言葉を自分が理解できるのかについて、疑問に思う余裕がなかった。コーラルの耳に届いている、闇の眷族が発する音は、自分たちが使っている言語と明らかに違っていたと言うのに。
 ふいに、風が強くなった。
 開け放したままの窓から風が入ってきて、蝋燭の炎が揺れた。コーラルはあわてて背に燭台をかばい、少しずつ窓に近付き、雨戸を閉めようとした。
 だが、コーラルが行動を終えるよりも、風が更に強まるほうがはやい。まず、コーラルが手にする燭台の火が消えた。もうひとつ、窓に近い燭台の火も。続いて、部屋の中心にあったものも――
 駄目だ。一刻も早く、この部屋から逃げよう。メイヴェルを連れて。
 コーラルはもはや頼りにならない燭台を投げ捨て、寝台に駆け寄った。
 突然風がやんだのと、窓の外が明るくなったのは、その時だった。
 コーラルは窓のほうに振り返った。
 闇の眷族が居たはずの場所に、大きな炎が生まれていた。はじめは、闇の眷族が炎に姿を変えたのかと思った。しかし違う。炎の中から、救いを求めて延びる手のようなものは、先ほどコーラルが見たものと同じ、錆の浮いた鉄のような質感をしていた。
 燃えている。闇の眷族が。
 コーラルは窓から身を乗り出して、何が起こっているかを確認する。ほどなくして炎に包まれた闇の眷族は、どすりと音を立て、家の前の道に落ちたのだが、そこには見知らぬ人影があった。
 長い、本人の身長よりも高い杖を手に、ゆったりとしたローブを身に纏っている人だ。深く被ったフードと暗さのせいで、顔は見えない。体つきもローブに隠されていてよく判らない。判るのは身長くらいだが、小柄な男か大柄な女かと言ったくらいで、決め手にかける。
 ローブの人物は無言で、炎が徐々に小さくなっていく様子を眺めていたが、ふと顔を上げた。
 フードに隠されているはずの目が、自身の目と合った気がして、コーラルは本能的に身を竦ませた。


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Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.