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序章



 くいっ、と、後ろから服の裾を引かれ、「彼」はわずかにのけぞった。
 のけぞった勢いを止められず、「彼」は座りこんでしまう。赤々とした夕陽の眩しさが目に痛かったからか、ずっと待たされていたせいで体力がすっかりなくなっていたせいか、足が疲れきっていたせいか――とにかく、立ち続ける事が困難であったから、小さな力が加わるだけで崩れ落ちてしまったのだ。
 うっすら降り積もる雪の上に座ると、尻や足が冷たかった。じっとしていると、痛みを感じるほどにだ。けれどもう、立ち上がろうとは思えなかった。体が言う事が効かないし、気力も湧いてこない。このまま凍えてしまうのだろうと、「彼」は半ば凍結した意識で考えていた。
「ここでなにしてるの?」
 高い、たどたどしい声が、すぐ近くから聞こえた。
「彼」がゆっくりと顔を上げると、視界に小さな女の子の姿が映る。小さい、と言っても、「彼」自身とさほど年齢は変わらないだろう。ひとつかふたつ幼いくらいだ。
 ぱっちりとした大きな瞳には、興味以外の何の思惑も秘められていないようだった。眩しいくらいに、無邪気な笑顔。軽く苛立つほどだ。
「まっているんだ」
 女の子を突っぱねる事や追い払う事を、やろうと思えばできただろう。けれど「彼」はそうしなかった。自分が座りこんでいる場所が、屋敷と呼べるほどではないとは言えこの商業都市バレルにおいて大きほうと言える家の門の前で、門を挟んだ向こうがわに立つ女の子がその家の子である事は、明らかだったからだ。
 そう、追い払われるべきは、本当は自分のほうなのだ。
「だれを?」
 女の子はしゃがみこみ、ひざを抱える。首をかしげる姿は、心に余裕があれば愛らしいと思えたかもしれない。
「かーちゃんを」
「おかあさん?」
「うん」
「いつくるの?」
 女の子が率直な疑問をぶつけてくるので、「彼」は押し黙った。
 無視しようと思ったわけではない。答えられなかったのだ。答えは、「彼」にも判らないし、判ったとしても知りたくなかったのだ。
「ここでちょっと待っていてね」と言って母親が「彼」をここに置いて立ち去ったのは、久方ぶりにたらふく昼食を食べさせてもらってすぐの事だった。夕陽なんて、少しも姿を見せていなかった。「ちょっと」で片付けられる時間は、はるかに過ぎ去っている。
 捨てられたのかもしれないと疑いはじめたのはいつだろう。しかしその疑惑を受け入れる事なんてできるわけもなく、母親の言う通り、いい子にして待ち続けてきた。
 けれど、押し寄せる不安に潰されないよう必死に立ち続けようにも、もう限界だ。体力的にも、気力的にも。
 数ヶ月前より母子ふたりきりで生活するようになってから、母親が少しずつおかしくなっていった事には気付いていた。以前はとても優しくて、いつでも笑顔を見せてくれる人だったのだが、いつしか暗い顔ばかり見せるようになった。ろくに食べ物がなかったので「腹が減った」と正直に訴えた時などは、後に痣が残るほどの力で殴られた。昼も夜も仕事を探すと言って「彼」を置いて家を出て行く母が、日に日にやつれていっている事に気付いた時は、自分の言葉が母を傷付けたのかもしれないと反省したけれど――だから「彼」は、天気の悪い夜が好きだった。雲が月を覆い隠し、人を食う闇の眷族が自由に活動できるそんな夜だけは、母親はけして家を出ず、たった一本の蜜蝋の灯りの中で、寄り添って眠ってくれたからだ。身も心も、どれほど温かかった事か。
 今思えば、おかしな話だった。そんな風になってしまった母親が、食卓にたくさんの料理を並べて、「彼」と向き合って座ってくれていたなんて。しかも、とても優しい笑顔で、優しい声だった。お腹いっぱいになれる事が嬉しくて、ふたりきりになる前の大好きな母に戻ってくれた事が嬉しくて、昼間の「彼」はおかしい事にちっとも気付かなかったけれど。
 今日は新月だ。夜になれば天気に関係なく、闇の眷族たちが暴れまわる。母親は、そんな危険な闇夜の下に、「彼」をひとり投げ出そうとしたのではないだろうか? あの楽しかった食事時間は、生前の最後の思い出に、と――
「もう、こないかも、しれな……」
「メイヴェル!」
 諦めると同時に「彼」は予想を口にしたが、別の鋭い声にかき消された。
 女の子の肩の向こうに、女性が姿を現した。一瞬にして親子関係を想像できる程度に女の子と似ている面影は、今にも落ちようとしている夕陽に照らされて、色濃く焦りを浮かべている。
「おかあさん」
「早くおうちに入りなさい! 今日は新月だから、家を出ては駄目、と言ったでしょう?」
「でも……」
 門の前から動こうとしない娘に苛立った様子で、女性は駆け寄ってくる。そして「彼」の存在に気がつくと、ややつり上げ気味だった目を見開き、丸くした。
 過剰に凝視されている事に気付いていた「彼」だが、理由を探ろうとはしなかった。ただ、女性の手の中にある、やや鈍い輝きを放つ銀の燭台と、そこに灯る蜜蝋の灯りを見つめた。暖かそうなともしびは「彼」にとって、もう二度と手に入らないかもしれない安定と安全の象徴で、眩しくて、羨ましかったのだ。
 母親が「彼」をここに置き去りにする前、母親は言っていた。「こんなところに住めたらよかったね」「そうしたら、新月の夜を過ごすのも簡単なのにね」と。
 母親も羨ましかったのだろうか。この家で暮らす、家族の事が。
「どうしたの?」
 女性が女の子に訊ねると、女の子は可愛らしく小首を傾げた。
「このこ、さっきからずっとここにたってたの。だから、なにしてるのってきいたの。おかあさんをまってるって」
「お母さんはどうしたの?」
 女の子の説明を聞き終えて少し表情を歪めた女性は、今度は「彼」に訊ねた。
「まってろって、いわれたけど……たぶん、もう」
 それ以上は、声が震えて言えなかった。
 じわりと涙が滲み出てきて、けれどどうしてか、それをこぼしてはいけない気がして、母子に背を向けた「彼」は、深い藍色と橙色が溶けあう空を見上げてこらえた。熱を持つ鼻や頬を、空気が冷やしてくれるのを待った。
 しばらくの沈黙の後、鈍い金属音が、「彼」の耳に届く。キイィ、と、擦りあうような、ひきずっているかのような、鈍い音。
 振り返ると、門が開いていた。左手に燭台を持った女性は、娘を優しく撫でていた右手を、「彼」に差し出した。
「入って。温かい食べ物と、それから部屋を用意するから」
「彼」は目を見張った。
「今夜は新月だから、陽が落ちてもそこに居たら、闇の眷族に食べられてしまうでしょう?」
「でも、ここで、かーちゃん、またないと」
 女性はわずかに逡巡した。「待っていてももう貴方のお母さんは来ないわよ」とはさすがに言えず、別の言葉を探したのだろう。
「家の中で待っていればいいじゃない。窓からここが見える部屋もあるわよ」
「でも……でも、もしかしたら、かーちゃんは、もう……」
「お母様が迎えに来るまで」
 女性は「彼」の言葉を遮るかのように、少し強めに短く言い切った。
「お母様が迎えに来るまでの間、うちに居ていいのよ」
 慈愛あふれる柔らかな笑みに惹かれるように、「彼」は手を伸ばす。
 触れた白い手は驚くほど温かい。熱に縋るように強く握りしめると、こらえていたはずの涙が次々に零れ落ちてきて、頬を素早く駆け下りていく。
 ずと、この温もりが欲しかった。本当は、実の母親に与えてほしかったものだけど――だがそれはもう、望んではいけないものなのだろうと「彼」は理解してしまっていて、手に入らないものの代わりを、目の前の女性に求めてしまった。
「ねぇ、その代わり」
 女性は腰を落とし、「彼」と目線の高さを合わせる。優しい笑みに変化はないが、細めた目が、わずかに潤んでいるように見えた。
「貴方のお母様が迎えにくる日まで、『コーラル』でいて」
 それは「彼」の名ではない。意味が理解できず、「彼」はしばし硬直した。
「いいでしょう? コーラル」
 自身のものではない名で呼ばれる違和感に、「彼」の思考は行き場を失った。ただ、戸惑いの中を漂った。やがて自身に残されている道が、女性に従うか、凍え死ぬか、闇の眷族に食われるか、しか残ってない事を思い出すと、本能的な生への渇望に導かれ、黙って肯いた。
 コーラル。それが、自分の名。
 母親が迎えに来るまでの――きっと一生の、自分の名。
「彼」は、八年間名乗り続けた名を、母親への未練と共にこの場に捨てるしかなかった。それはまだ幼く多くを持たない「彼」――コーラルにとって、全てを捨てるとほぼ同じで、恐ろしい事だった。
 けれど、抱きとめてくれる手の温もりと、たどたどしく繋いでくる手の温もりは、その恐怖を払拭するほどに魅力的で、新たな人生を歩むための一歩を踏む出す勇気は、自然と湧き上がってきた。


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Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.