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終章 新たな世界


 昨日の昼過ぎから降りはじめた豪雨が突然やんでから、一晩明けた今に至るまで、快晴が続いている。空に輝く太陽を遮るものは何ひとつなく、明るさは目に痛いほどだった。
 しかし、今のユーシスの目に映る太陽の眩しさは、また違った明るさだ。
 太陽そのものは何も変わっていないように感じる。ならば変わったのは大気か、あるいはユーシス自身だろう。どちらにせよ、原因はひとつしか考えられなかった。
 何も情報が無い今は、まだ希望でしかないはずの予想。しかしユーシスにとっては、揺らぐことのない確信だった。
 窓の向こうにある太陽を見つめながら、ユーシスは手を組む。目を伏せると、無心で祈り続けた。祈りの対象は神ではない。いや、神なのだろうか? 今は亡き神が、後継者として定めた者なのだから。
「ユーシス?」
 三回ほど軽く扉を叩く音がしたかと思うと、扉の向こうから名前を呼ぶ声がしたので、ユーシスは絡みあった指を解きながら振り返る。「どうぞ」と応えると、扉が開き、従姉妹が姿を現した。
 隠そうとしても隠しきれない、泣き腫らした赤い目が印象的だった。彼女も昨日、カイの死を知ったのだ。多くのザールの民と同様に悲しみに暮れた彼女は、ぞんぶんに泣く事によって、少しは癒されたのだろうか?
「今すぐ出かけられますか?」
 ナタリヤの突然の問いに、ユーシスは戸惑った。
 昨日のユーシスは、まだ熱を持つ体を雨に濡らしたせいで余計に体調を悪化させ、高熱のあまり倒れ込むように眠りについたのだ。それを知っているナタリヤが最初に紡いだ問いとしては、少々乱暴で、違和感がある。
 ユーシスは思わず首を傾げた。
「貴方にお客様が来ています」
 誰であるかを訊ねる前に、ナタリヤは扉を大きく開いて、客人を部屋に招き入れた。
 ユーシスやナタリヤが持つものとは違う、優しい金色が、窓から入る光を浴びて淡く輝く。それはユーシスが待ちわびている友が持つものと同じ色だったが、残念ながら、友のものではなかった。
「起きてたのね。なら、ちょうどいいわ」
 やはり淡く輝く空色の瞳を細めて微笑んだリタは、ユーシスの額に手を伸ばす。まだ下がりきっていない熱に気付くと、困惑を表情に出した。
「ちょっと心配だけど……少しくらい無理できる?」
 口調こそ質問の形を取っていたが、語気や視線の強さは強制とほとんど変わらない。ユーシスは肯くしかなかった。
「そう。じゃあ行きましょう」
「ど、どこに」
「決まっているでしょう。アストが戻ってくる所によ」
 ユーシスは顔を上げ、空色の瞳と真っ直ぐに見つめあった。
「アストを迎えに行くの。一番初めにアストを迎える役目に相応しいのは、貴方しか居ないって事くらい、貴方自身が一番良く判っているでしょう? 安心しなさい、途中で倒れたり道に迷ったりしないように、私が一緒に行くから。二番目に迎えるのは私の役目だって、勝手に決めているしね」
 強く言い切られたリタの指示は、ユーシスが抱く願いに良く似ている。逆らう必要性を感じなかったユーシスは、急いで寝台を降り、立ち上がり、リタの隣に並んだ――途端、突然体が硬直した。
 理由は判っていた。望みと違う場所に潜んでいた感情が、自身の体の自由を奪ったのだ。
「どうしたの?」
 いぶかしんだリタが訊きながらユーシスを見るので、ユーシスはぎこちなくリタを見つめ返した。
「今更かもしれませんけど、良いんでしょうか」
「何がよ」
「僕が、一番に、なんて。いや、その前に、僕はここを出てもいいんでしょうか。アストは皆に歓迎されるべき人で、僕は」
「『皆に忌み嫌われる魔物の子』だとでも言うつもり?」
 リタはふてぶてしく腕を組み、胸を反り、ユーシスに向ける視線に冷たさと厳しさを加える。
 視点の高さはほぼ変わらないと言うのに、遥かに見下されているような気がして、ユーシスの体は縮こまった。
「地中で、地上で、大きな変化が起こった事に、貴方だって気付いているでしょう? じゃあ、判るはずよ。この世界にはもう、神の子も魔物の子も居ないんだって。貴方たちは、ただのアストと、ただのユーシスなの。それ以上でもそれ以下でもないのよ」
 凛とした声が産み出した言葉は、疑う余地もないままに、ユーシスの中に容易く浸透していく。ユーシス自身の願望そのものであったからかもしれない。
 いいのか、僕は、歩き出してしまっても。
 未だ歩き出さずにいるユーシスの肩に、柔らかなものが触れる。突然の事に驚いたユーシスは、即座に自身の肩を見下ろした。そこにはユーシスが寒い時にいつも羽織っていた上着が乗っていて、温もりはユーシスの肩を後押ししてくれているようだった。
 上着をかけてくれたのはナタリヤだ。見上げると、少しの意地悪を交えた、優しい顔をしている。
「貴女も行く?」
 リタがナタリヤに問うと、ナタリヤは首を振った。
「私にはその資格がないと思います」
「そうかしら」
「そうなんです。ですから、アスト様が帰ってくる場所でお待ちしております。父や、聖騎士の皆さんと共に」
 ナタリヤが穏やかに言い切ると、リタはこれ以上ないほど優しく微笑んだ。
「そうね。それも素敵よね」
「ここに待機する必要も、もうなさそうですし」
 言ってナタリヤは、ユーシスの背中を押す。
 リタは、ユーシスの腕を引いて歩きはじめる。
 ふたりの力を借りて、ユーシスは歩き出していた。熱に責められ続けた体は、普段ならば重く感じると言うのに、不思議と軽かった。
 通路の先にある、外に繋がる扉が、ユーシスの目の前に現れる。それを開いたリタは、ユーシスの手を放し、ひとりで扉の向こうへ行ってしまった。
 立ち止まったユーシスは、このまま置いていかれるのだろうかと不安を感じたが、リタは扉をくぐった所で足を止め、振り返る。長い金の髪を外の風に揺らしながら、無言でユーシスを待っていてくれた。
 後に続こうと思うユーシスだったが、足は床に縫い付けられたまま、少しも動かなかった。
 情けなく、もどかしい。ユーシスは自身の足を見下ろしながら、固く拳を握りしめると、意識的に深呼吸を繰り返した。
 十度目に息を吸った時だっただろうか。息を止め、意を決し、外への一歩を踏み出したのは。
 一度でもこの屋敷を訪ねて来た者ならば、誰もが経験する当たり前の一歩。しかし、ユーシスにとっては、大きな意味を持つ一歩だった。ユーシスはこれまで、自分の意志で屋敷の外に出た事は、一度として無かったのだから。
 ユーシスはゆっくりと目を開き、周りの景色を捉える。
 それは窓越しに、時には窓から身を乗り出し、何度も見た事がある光景のはずだった。だが、とてもそうとは思えない。まったく違うものにしか見えないのだ。全てが色鮮やかで、新鮮で、眩しくて――そう、大きい。
 世界は、本当に広いのだ。
 今まで知識として知っていた当たり前の事実を、生まれて初めて、心から理解できたような気がした。
「これが、アストの生きている世界なんですね」
 静かな感動を伝える言葉はとてもではないが見つからない。仕方なくユーシスは、清々しい空気を飲み込みながら、素直な感想を述べる。
 すると、リタは小さく声を上げて笑いながら言った。
「これから貴方が生きる世界よ」
 優しい声は柔らかな風に溶け、ユーシスの髪を撫でた。

 リタが手綱を操る馬の背に乗り、ふたりは洞穴へと向かう。
 ユーシスにとっては全てが知らない光景で、不安が無いと言えば嘘だった。同じ道を共に進んでくれるリタや、道の先に居るであろうアストの存在がなければ、とっくにくじけてしまっていたかもしれない。
 森を抜け、広い平野に辿り着いたあたりで、リタは進行速度を緩める。ゆっくりと馬を進ませ、地中へと向かう道のはじまりにごく近いところで止めた。
 先に馬から降りたリタの手を借り、ユーシスも地上の人となる。急に視点が低くなるのは不思議な気分だった。そして、何年か前、はじめて馬に乗った時の感動を熱く語っていたアストを思い出した。ユーシス自身は当時のアストほど楽しまなかったが、当時のアストが妙に興奮していた理由が理解できた事が嬉しかった。
 ユーシスは洞穴の入り口に近付き、中を覗き込む。
 太陽は今も明るく地上を照らしているのだが、差し込む角度的に、洞穴の中まであまり光が届かない。そのため、先はほとんど見えないのだが、ユーシスは必死に目を凝らし、何か動くものの気配を――アストの影を――探した。
 何も見つけられないまま、長い時間が過ぎた。ユーシスたちが洞穴に到着した時の太陽は、空の一番高い所にあったのだが、今は緩やかに下降しはじめ、西の空に落ちようとしている。
 温かみのある光が、地上全てを橙色に染め上げようとしていた。
 高い木に囲まれた屋敷でのみ生活していたこれまでのユーシスでは、けして見る事のできなかったはずの、貴重な光景だ。しかし、振り返る事なく暗闇だけを見つめ続けているユーシスは、その美しさに気付かなかった。
 夕陽が落ちきる直前、ユーシスは闇の向こうに、淡い空色の輝きを見つけた。
 思わず身を乗り出したユーシスは、洞穴の中に転がり落ちそうになったが、咄嗟にリタが支えてくれたおかげで事なきを得た。「ありがとうございます」と礼を言うよりも早く、リタは声に出さずに笑うと、ユーシスのそばを離れて洞穴に背を向けた。
 ユーシスはこちらを見ようとしないリタに会釈をしてから、再び洞穴の中に目を向ける。
 一定の間を空けて繰り返し鳴り続ける、固い土を踏みしめる足音は、重く響き、痛々しいほどに強い疲労を伝えてくる。
 その足音が突然消えた。歩みを止めたのだろう。
 足音の主の姿はまだ暗闇の中にあり、空色の輝きが手元や輪郭をぼんやりと照らすのみだったので、ユーシスの目でははっきりと捉えられない。だが、疲れていてもなお頼もしい足音が誰のものか、ユーシスには判っていた。聞き間違えるわけもなかった。
 再び足音が鳴りはじめる。今度は、先ほどよりもずっと早い。走っているのだ。くたびれているくせに――
 淡い金の髪が現れた。地上を守る空と同じ色をした、大きな瞳も。瞳は、大きな驚愕と、大きな達成感と、大きな喜びが交わった、複雑な煌めきを秘めていた。
「ユーシス、お前、ここまで来たのか……?」
 ユーシスの元まで辿り着いたアストは、疲れているせいか上手く勢いを止めきれず、足を縺れさせて転んだ。
 体のあちこちを土で汚し、小さく起こった土煙に咳き込む様子は、地上を救ったばかりの救世主にはとても見えないほど間が抜けている。笑いそうになったユーシスだが、笑っては可哀想な気がしたので、必死に堪えながら片膝を着き、友と目線の高さを合わせた。
「おかえり、アスト」
 そして言った。最初に言うべき言葉を。
 アストははじめ、強烈な戸惑いを見せていたが、それを徐々に緩和させると、満面の笑みを浮かべて言った。
「ただいま」


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