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五章 神の剣




 枯れかけた短い草とところどころに木が生えているだけの平野に、アストはひとり立つ。
 晴れ渡る空と弱々しい緑の香りがあるだけの場所は、ときおり風の音が聞こえる以外は、どこまでも静かだった。アスト以外の人間、動物、魔物に至るまで、全ての生命がここには存在していないせいだろう――かつてここで起こった争いが、夢や幻だったかのように。
 魔獣に最も近い場所でもこうなのだ。全ての魔物たちは、もはや地上から消えている。剣の力を借りて放った力に確信を抱いてから、アストは歩みを進めた。いつかこの場所にも、人や動物たちが溢れる日が来るのだろうかと、遠い未来の事を考えながら、閉ざされた洞穴へ目を向ける。
 この奥深くに封印されしものを滅する。それが、父や、聖騎士の誰かや、ザールの人々、時に大神殿から訪れた者たちに、飽きるほど聞かされ続けた、救世主の役割だった。今現在魔物であるものたちが、全て光によって果てようとも、魔獣が残っている限り、新たな魔物は産まれ続けるだろう。何より、エイドルードの封印が完全に消滅し、魔獣自体が解放されてしまえば、魔物などおらずとも、容易く地上は蹂躙される。アストはそれを止めなければならないのだ。
 緊張している事を自覚していたアストだが、無理に解そうとはせず、そのまま洞穴を塞ぐ扉の前に立った。四年前、リタや母――当時はまだ母だと知らなかったが――と力を合わせて完成させた封印は、まだ力強い存在感を示していた。
 アストは神の剣の柄に手をかけた。
 金属が擦れる音が響くと共に、力ある剣が現れる。アストが意志を持って扱わない限り、ただの軽い剣でしかないはずだが、抑えきれない神聖な力が、空気に溶けてあたりに広がり、魔獣が放つ闇の力を浄化していくように感じた。
 アストは右手に持った剣を正面で構え、左手を刃の上に翳す。空色の双眸で扉を見つめ、言葉を産み出すために息を吸った。
 何も知らないはずのアストに、剣は教えてくれる。今アストは何をするべきなのか、どうしなければならないのか――それは正しくは、今は亡き神が残した教えだったのだろう。しかしアストは、両親やリタの支えなのだと、勝手に解釈した。
『封印よ、退け』
 神聖語で短く命じると、扉を覆い支えていた力が霧散する。空気を震わせる、軋むような鈍い音を立てながら、ゆっくりと扉が開きはじめた。
 無言で扉が開ききるのを待っていたアストの手の中で、神の剣の輝きが増す。
 溢れる力を感じたアストは、扉ではなく洞穴の中を見つめる事によって、陽の光が届かない場所に居る魔物は、まだ消えていないのだと知った。
 そう言えば、扉の封印を完成させた折、父が言っていたか。扉の封印をした時、洞穴の中に魔物を置き去りにしたのだと。並の魔物よりもはるかに手ごわい、強い力を持つ魔物を。
 肌で感じ取れるほどに強い魔の気が、アストの所まで漂ってきていた。
 光の剣しか持たない頃のアストならば、その気配に魔物の力を感じ取り、怯えていたかもしれない。しかし、魔物の力の強さに意味はないのだと理解しているアストは、堂々と立ち、落ち着いた眼差しで魔物を見つめるだけだった。
 どれほどの魔物であろうとも、今のアストの歩みを止める事はできない。すでに魔物は、ただの扉と化した封印よりも意味のない障害でしかなかった。
 剣を振るう必要もなかった。魔物は、剣が放つ光をひと目見るだけで怯え、縮こまった。アストが歩みを進めて魔物に近付こうものなら、狂乱し、汚らしい涎を溢しながら、悲鳴じみた大きな唸り声を出した。光が洞穴内に到達すると、苦しみ悶えながら地に伏し、そのまま動かなくなった。
 アストは進むべき道を塞いだ魔物の遺骸の前に立ち尽くす。力尽くでどけようとも、乗り越えようとも考えなかった。そんな必要は無いのだと、アストは判っていた。やはり、剣が教えてくれるのだ。
 魔物の遺骸に変化が現れたのはすぐだった。色が徐々に変わっていく。禍々しい黒が薄まり、灰色へと。やがて全身が灰色に染まると、大きな音を立ててひびが入り、砕け、灰よりも細かな粉と化した。
 粉は崩れ去り、舞い散り、時には空気の流れに乗った。光を反射する粉は、自ら輝いているようにも見え、飛び去る様は幻想的で美しかった。少しだけ心が和むような気がしたアストは、全てが飛び去って視界から消えるのを見守る。
 風の流れがなくなり輝きが落ち着くと、アストは神の剣が放つ光を跳ね返す別の物体がまだある事に気が付いた。
 黒く、あるいは茶色く、ごく一部に鋼の色が見える、細長い物体。それは魔物と共に洞穴の中で眠り、手入れされる事なく錆びるだけ錆びた剣だった。
 切れ味を失っている事はひと目で判り、使いものにならないだろう事は明らかだった――そもそもアストはすでに、人の手によって作られた剣など必要としていない――が、それでもアストは錆びた剣に歩み寄り、拾い上げる。
「父さん……」
 それは父の剣だった。
 錆や汚れによる変色によって、わずかに面影を見出せるのみだが、見間違えるはずもない。父はアストが物心付いた時にはすでにこの剣を愛用していた。戦いの中で手放し失う日まで、何年もの間。ゆえにアストにとってこの剣は、父の力の象徴なのだ。
「父さんもここで戦ったんだよな。地上の民を守るために」
 多くの地上の民にとって、数年前にこの場で起こった小さな戦いと、より深き場所でこの後起こる戦いは、意味がまったく違う戦いなのだろう。
 だがアストは同じものだと思っていた。そう思う事で、かつて父であった剣を手にする以上に、父の存在を感じられる気がしたのだ。
 アストは少し離れたところに落ちている、同じように錆び、刃が大きく欠けた短剣の元に歩み寄る。それもやはり父が愛用していたものだとひと目で理解したアストは、手にしていた錆びた長剣と並べて置いた。
「俺は、俺が戦うところに行かないと」
 アストは名残惜しむように、何度か錆びた剣に振り返りながら、洞穴の奥へと歩みを進めた。
 暗い道だった。どんな明かりで照らそうとも、けして照らしきれない淀みがある。歩む者を精神的に圧迫し、飲み込み、喰らい尽くそうとする魔獣の意志で満ちている。
 その道をアストが易々と歩けるのは、アストの意志が魔獣を凌駕しているからではない。アストを守ろうとする力の集合体が、アストのそばに存在しているからだった。
 緩やかに下る長い道を、どこまでも、どこまでも、潜っていった。魔獣ではなく、大いなる自然に飲み込まれていくような感覚が、たびたびアストを襲った。そのたびにアストは、剣の柄を強く握り、両親やリタの温もりを求めた。あるいは、地上でアストを待っているだろう、ユーシスの事を思い出した。そうして、沈みゆく心を支えた。
 やがて道は下る事をやめ、徐々に広がりはじめる。
 ザールの町ごと入ってしまいそうなほど開けた場所へ到着したのは、どれほど歩き続けた後だっただろうか。思いの外短い時間だったような気も、何日も何日も歩き続けたような気もする。気にはなったが、答えを知る必要はないのだと、アストは判っていた。果てしない時を不動のまま過ごしたこの場所において、時間の概念などはあまり意味を持たないだろうから。
 アストは一度足を止め、両足を揃え、深呼吸を数回繰り返してから、広間に足を踏み入れる。
 他者を圧倒しようとする力が急激に増した。これまで歩いてきた道の比ではない。アストは対抗するため、剣を高く掲げ、力を解放しなければならなかった。
 剣が放つ光が大きくなり、同時に光度も増した。地底に太陽が生まれたようだった。それは広間全てを照らし出したが、ただひとつを除くと、これまで歩いてきた道と同様、苔むした岩肌や湿った土、散らばった石を、アストに見せるだけだった。
 ただひとつだけが、大きく異なっていた。その違いこそ、アストが目指していたものであり、地中に潜った目的そのものだった。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.