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二章 封印




「これは今日からお前が持つんだ。大事にするんだぞ」
 父がアストに差し出したものは、金色の繊細な細工が施され、透き通るような空色の宝石が輝く、汚れなき闇色の鞘だった。
 過去にアストが見たどんな鞘、いや、どんな物よりも美しいそれには、剣が納まっていない。鞘だけ渡されても、剣を習いはじめたばかりのアストには軽い嫌味としか思えないのだが、その割には立派過ぎる上に、父の顔が真剣だったので、何かしらの意味があるのだろうと心を構えた。
「何なの、これ」
「お前のものだ。今までは俺が預っていたけどな」
「なんで、俺のなの?」
「そう言う風に決まっていたんだ。お前が生まれてくる前から」
 父は曖昧な言い方をしたが、自分が何者であるのかを理解しているアストは、大切なものである事を悟る。おとなしく手を伸ばし、受け取った。
 地面から計ってアストの腰ほどの長さがある割に、重さをまったく感じないほど軽いそれは、冬の空気のように冷たくアストの手を攻めたが、拒絶されている気はしなかった。生まれる前から自分のものだったとの父の言をすんなり受け入れられるほど、しっくり手に馴染む。
 唐突に、光が弾けた。
 強烈な光は刺すように痛いはずであったが、違った。けして眩しいとは感じず、平然と目を開けていられる。
 ありえない状態に慌てたアストが縋るように父を見上げると、父は目を細めて微笑んだ――目を細めたのは、眩しいからではなさそうだ。
「これは、何?」
 アストの手の中にあるものは、先ほどまでは確かに、美しいだけのただの鞘だった。しかし今は違う。剣の形をした淡い光が、鞘に納まっていたのだ。
 恐る恐る手を伸ばし、光の剣の柄に手をかける。
 すり抜ける事を覚悟していたアストは、やや温もりが宿る柄をしっかりと握れた事実に、声も出ないほど驚いた。慌てて鞘を取り落としかけるが、地面に着く前に父が掴み、アストに返してくれる。
「これはエイドルードの遺産。エイドルードがお前に託し、お前だけが振るう事を許された、光の剣だ。気を付けて扱うんだぞ」
 父がアストの肩を少し強めに叩くので、アストも少し強めに肯いた。
「うん。大事にする」
「大事にするのもそうだが、それだけじゃなくて……」
「うん。ザールの人たちがそんな事をするとは思わないけど、もしもって事もあるし、これ、すごく綺麗だし、高そうだし、盗まれたりしないようにする」
 誰にも奪わせないとの決意を込め、アストの手が強い力で鞘を握り締めると、父は朗らかに笑った。
「その点は気を使わなくて大丈夫だ。たとえザールの全ての民が泥棒でも、これを盗めるやつはひとりも居ないから」
「なんで?」
「剣がお前だけのものだってのはさっき言った通りだが、鞘も特別なもので、エイドルードの血を引く者のみが触れる事を許されている。そうでない者が触れれば、エイドルードの罰が下るんだ。だからお前が気を付けるべきなのは、誰かがこの鞘に誤って触れないように、って事だな」
 アストは視線を父に向けたまま意識を鞘に集中した。指先から伝わる冷たさが、アストを内側から恐怖へと陥れていき、額に悪い汗を浮かべながら、喉を鳴らした。
 同時に、心の中で感謝した。触れるだけで人を傷付けられる力を恐ろしいと思えるようになるまで、この剣を、鞘を、預ってくれていた父に。今も充分幼いと言えるが、もっと幼い頃のアストならば、鞘に秘められた力を悪用して愚かな行いをしたかもしれないし、そうでなかったとしても、不注意で多くの者を傷付けていたに違いない。
「父さん以外の人に触らせちゃだめって事だね。判った」
 強く肯いたアストが言うと、父は言い辛そうに口を開いた。
「いや、もうひとり、大丈夫な人が居るんだけどな」
「え?」
 疑問を抱いている事を表す短い声を上げてすぐに、アストはひとりの女性を思い出した。母に似た面差しを持ちながら、母とは全く違う印象を持つ女性を。
「リタさんの事か」
「ああ。まあ彼女は、基本的には王都の大神殿に居る人だから、考えなくてもいいんだが」
 父はわざとらしく咳払いを挟み、話題を変えた。
「最近、魔物が以前よりもザールに近付いてきている事は知っているだろう?」
 父の言葉に、アストは気を張り、小さく身構える。町外れの森で見た魔物の事を思い出したからだった。
「もちろん。俺、魔物見ちゃったし」
「それでな、魔物たちをこのまま放っておくのは怖いから、魔物がこれ以上近付いてこないよう、今できる対策をしてみようって話になったんだ。そのためには、お前と、その剣の力が必要なんだが――協力してくれるか?」
 父の申し出は、アストにとって願ってもない事だった。アストはずっと、救世主と呼ばれて飼い殺される日々を窮屈に感じ、皆の役に立つ事を望んでいたからだ。
 だが、魔物の異常さや恐ろしさの記憶が蘇ると、体が勝手に縮こまってしまう。結果、協力する意志を示すために肯くまで、いくらか時間を浪費してしまった。
 父の手が申し訳なさそうにアストの頭を撫でる。アストの方が申し訳ない気持ちになり、ごまかすように新たな言葉を紡ぎ出す。
「そ、それに成功したら、魔物は出なくなるのかな?」
「出なくなる事はさすがにないな」
「全部が、じゃなくてもいいんだ。今よりも外側に追い出せるようになるかな? その、たとえば、森まで来なくなる、とか」
 父はアストが言わんとしている事に気付いたようで、からかうように微笑み、アストの頭を撫でる手つきをいくらか乱暴にした。
「聞いたぞ。ハリスを巻き込んでユーシスを助けに行ったんだってな。お前、いつの間にユーシスと仲良くなったんだ」
「べ、別に、そんなに仲良しじゃないよ。会ったばっかりだし。あいつ、時々むかつく事言うし。ちゃんと謝ってくれたけどさ」
「そうかそうか」
 浮かべた笑みをそのままにアストの頭を軽く叩く父の態度が、馬鹿にされているようで悔しかったアストは、大げさに手を振り回して父の手を払いのける。
「お前が知りたがっているのが、ユーシスの屋敷の安全って事なら、まあ大丈夫だろう。やってみなければはっきりと判らないが、あの屋敷は今の時点でほぼ限界点にあるからな。あそこが危険なままなら、やる意味がなかったって話になりそうだ」
 アストは安堵して息を吐いた。「ユーシスが助からないならやらない」などと言うつもりはなかったが、ユーシスも助けられるならなお嬉しいと思ったのだ。
 本当は、ユーシスとザールの民の間にある確執を何とかし、彼が屋敷を離れて城に来てくれれば一番良いと思っているが、それが一朝一夕で叶うと思えるほど、アストは楽観的ではない。
「そうだ、父さん。ユーシスとかリタさんから聞いたよ。ユーシスが産まれた時に祝福したのが父さんだとか、そのせいで色々大変だったとか」
 父は僅かにためらってから肯いた。
「大変だったと言えば大変だったかもな。暗に『考えなし』みたいな言われ方をしたし……俺だって一応考えて、悩んだんだんだけどなぁ。祝福なんて受けなくても、子供はちゃんと育つわけだし」
「そうなの?」
「ああ、間違いない。お前の目の前に証拠が居るぞ。俺は産まれた時に祝福を受けていないはずだから」
「嘘だぁ」
 神の血族である父の誕生を祝わない者が居るとは考えられず、アストは目を大きく見開いて、父を凝視した。
「嘘じゃない。俺を育ててくれた人はエイドルードを嫌っていたからな。神官のところに行って産まれた子供に祝福を与えてもらうなんて発想、全く無かっただろう」
 神の子である父を育てた人物が神を嫌っているなどと、つまらない笑い話だと思いながら、アストは首を傾げる。
「父さんは、それで良かったの?」
 父は嘘偽りのない微笑みで肯いた。
「彼は俺に、愛情や日々の糧を惜しみなく与えてくれた。俺はこうして大人になっている。充分じゃないか」
「うーん……」
 大きな手が再びアストの頭に触れた。
 温もりは間違いなく愛情の証で、これならば確かに、よく知らない神官に与えられる祝辞よりも大切なもののような気がした。
「無理に判ろうとしなくてもいいさ。ここは俺が育った街と違って、産まれた子供が祝福を受けるのが当たり前の場所なんだから。だからこそ俺も、別に必要ないと思っていながらも、ひとりだけ祝福を受けられないのが許せなかったんだ。神に仕える者――いや、いい歳をした大の大人が、差別を助長するような事をするなんて、頭がおかしいんじゃないかってな」
「うん、ありがとう、父さん」
 感謝の言葉は自然と口から飛び出していた。
 父が与えた祝福は、薄暗い森の中で寂しく生きるユーシスを、人々の悪意から守ってくれたのだろう。魔物に怯えユーシスを受け入れられない者たちは、神の救いを求めるあまり、神の御子である父の意志に逆らえないのだから。
 ユーシスは守られたくなかったと、祝福など必要なかったと言っていたけれど、それでも、アストは嬉しかった。父がユーシスを守ってくれた事、ユーシスがこれまで生きていてくれた事、同じ寂しさを知る者として通じ合えた事が。


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