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序章 誕生


 父と、母と、自分と。家族三人、大陸最大の都市である王都セルナーンで過ごす日々に終焉が訪れたのは、本当に突然の事だった。
 聖騎士団に所属し、順調に出世を重ねていた父は、神の御子の護衛隊長と言う名誉ある地位について安泰していた。母は大人しいながらもしっかりと家庭を守り、夫を支え、娘であるナタリヤに惜しみない愛情を注いだ。ナタリヤは明るく健やか、かつ利発に育ち、多くの友人を持っていた。
 傍から見れば理想的とも言える家族の中で、特別な変化を望む者は誰ひとりとして居なかった。家庭を外から見守る近所の住人も、この幸福な家族が突然消えてなくなるなどと、考えもしなかっただろう。
 終わりのはじまりは、「短くて数日、長くてもひと月程度だろう」と言って遠征に出た父から届いた、一通の手紙だった。手紙は長く、沢山の事が書いてあったようだが、当時七歳になったばかりのナタリヤに理解できたのは、父の甥、つまりはナタリヤにとって従兄弟にあたる人物に、二度と会えないと言う事だけだった。
 とても悲しい事だった。ナタリヤが従兄弟と接する機会は、年に一度、家族三人で父の故郷に帰る時だけだったが、その際に従兄弟はとても優しく頼もしく接してくれたので、ナタリヤは彼を実の兄のように慕っていたのだ。
 ナタリヤは母の服の裾を強く掴み、大粒の涙をこぼしながら従兄弟の死を悼んだ。終いには、大口を上げて天井を仰ぎ、大声を上げて泣き叫んだ。
 いつもならばナタリヤを抱きしめて慰めただろう母は、手紙に目を落としたまま、ただ立ち尽くしていた。母はナタリヤとは違い、長い手紙が意味する事を全て理解したがゆえに、呆然としてしまったのだろう。
 母が立ち直ったのは、ナタリヤが泣きやんだ頃だった。ナタリヤの前に膝を着き、視線を同じ高さにすると、肩に温かな手を置いた。
「ナタリヤ、私たちは、もうすぐ引っ越さなければならないわ」
「どうして」
「お父様は聖騎士を辞めて、違うお仕事に就かなければならなくなったの」
「どうして? せいきし、かっこいいのに」
 聖騎士である父が、ナタリヤには自慢だった。まだ幼いナタリヤは、将来の夢が数多くあったが、その中でも最も熱く語るのは、父と同じ聖騎士になり、女性初の聖騎士団長になる事なのだ。
「そうね。もう見れなくなるのは残念。だけど、新しいお仕事をするお父様も、きっとかっこいいわ。だって、お父様にしかできない事をするんだもの」
 母は自分が悪いわけでもないだろうに、幾度も幾度もナタリヤに謝った。生まれ育った地を離れるのは、ナタリヤが七年間で築き上げた友情の輪を崩してしまう事であるからだ。そしておそらくは、ナタリヤが語ってきた夢の全てが、幻と化す事を哀れんでもいたのだろう。
 ひと月ほどして父が戻ってくると、数日もしないうちに、ナタリヤは王都を離れる事となった。多くの友達との別れを惜しみ、思う存分涙して乗り込んだ馬車の中で、父と母が優しく抱き締めてくれたのが救いだった。
 新たな生活の場は、かつて従兄弟が暮らしていた城だった。王都で生活していたナタリヤにとって、ザールとの名を持つ城や町はみすぼらしいものだったが、城で暮らせるとなると話は別だ。王都で暮らしていた頃の家は、友人たちの家に比べれば広い程度だったが、ザール城はその何十倍もの大きさなのだから。
「ここが父様と、母様と、お前の家になるんだ、ナタリヤ」
 すごい、すごいとしきりに騒ぐナタリヤに、父は微笑んだが、心から笑っているようには見えなかった。「嬉しくないの?」とナタリヤが訊ねると、父はまた微笑んで、「そうだね、嬉しいね」と、曖昧に答えるのだった。
 気にする事をやめて、ナタリヤは城の中を駆け巡った。数え切れないほど部屋が沢山あり、人が沢山居た。大人たち、特に両親と同じくらいか年上の人々が、こぞって自分に頭を下げる事が少し心地良く、得意になっていた。
 十数人に挨拶された後、ナタリヤはひとりの青年とぶつかった。実際はまだ少年と言える年頃だったが、幼いナタリヤには大人にしか見えなかった。
「あ、ごめん」
 どちらかと言えば駆け回っていたナタリヤに非があるのだが、青年は謝罪の言葉を口にする。しかし、笑いながらと言う態度が、得意になっているナタリヤは気に入らなかった。
「なによ、そのいいかた。わたしはナタリヤさまよ!」
 ナタリヤが胸を反らして言うと、青年は一瞬呆けた後、小さく吹き出し、肩を震わせた。
「そうでしたか。それは申し訳ありませんでした、ナタリヤ様」
 青年が言い直すと、ナタリヤは満足して肯いた。まだ笑っているのは少し気にかかったが、大人たちが恭しく接してくる満足感の前に、多少の事は気にならなかった。
「ナタリヤ!」
 背後から響く父の声が、少し慌てていた。どうしたんだろう、と振り返ったナタリヤは、突然駆け寄ってきた父に頭を掴まれ、力ずくで頭を下げさせられた。
 得意になっていたナタリヤにとって、許しがたい屈辱だった。「なによ、父様」と言いながら腕を振り上げると、父はもう片方の手でナタリヤの体を抑えつけた。
「申し訳ありません、カイ様。私の娘が、無礼をしたようで……」
「ああ、やっぱりルスターさんの娘さんだったんですね。面差しが少し似てるな、とは思ったんですよ。可愛いですね」
「いえ。甘やかして育てたもので、少々生意気がすぎるようです」
 この町で、この城で、一番偉いはずの父が頭を下げている意味が、ナタリヤには判らなかった。「もっと堂々としててよ」と言いたかったが、父の手はナタリヤの口をしっかりと塞いでおり、言葉にする事はできなかった。
「子供だし、元気でいいじゃないですか。お城に来たばかりで浮かれてるせいってのもあるんでしょうし? あ、気にしないで大丈夫ですよ。彼女――ナタリヤちゃん? 特に何もしてませんから。それにね、ルスターさん。もう俺に礼儀を払う必要はないと思うんですよ。ルスターさんはザールの主で、俺は居候になるわけですから」
「何をおっしゃいます。そもそもこのザールは、祖先が大神殿より賜ったものなのです。その大神殿より、カイ様シェリア様の穏やかな生活に支障ないよう、精一杯尽くすようにと、指示を受けております」
 カイと呼ばれた青年は苦笑した。
「それじゃあ、しょうがないんでしょうね。残念ですけど」
「ねえ、このひと、だれ?」
 油断した父の手を逃れ、青年を指差しながらナタリヤが言うと、父は慌てた様子でナタリヤを見下ろした。いつも優雅な風体の父が慌てるのは、珍しい事だった。
「ナタリヤ! 何て口を利くんだ。この方は……」
「いいですよ、ルスターさん」
 青年はひとしきり笑った後、ナタリヤの前にしゃがみこみ、ナタリヤの目の前に手を差し出した。
「俺も、王都からこっちに移ってきたばかりで、まだろくに知り合いが居ないんだ。仲良くしてくれるか?」
 ナタリヤは戸惑ったが、青年の人好きのする笑みにあっさりと警戒心がほぐされ、肯いた。
「べつにいいけど」
「そうか。じゃあ、俺たちは今日から友達だな」
 青年は強引にナタリヤの手を取ると、握手にしては大げさなほど手を振り回した。
「俺はカイ。どうやら、天上の神エイドルードの子供らしい」
 まるで明日の天気を語るかのように軽い口調でされた告白は、幼い子供であるナタリヤでさえ理解できる重い事実であった。
 カイ――そうだ、神の御子カイ。父が聖騎士だった頃に守っていた相手ではないか!
 ナタリヤは口を大きく開けたまま呆然とした。するとカイはいたずらっぽく笑い、ナタリヤの頭を思い切り撫で回してから、立ち去っていった。
 まだ温もりが残っていそうな頭頂部に自身の手を置きながら、カイの背中を見送っていたナタリヤは、カイの姿が視界から消えた頃、ようやく正気を取り戻す。
「すごい」
 呟くと、胸の奥にわだかまっていた興奮が緊張の解れと共に放たれ、ナタリヤは父に振り返る。
「すごいよ、とうさま。わたし、カイさまとともだちになっちゃった」
 父は困惑と歓喜と動揺をない交ぜにした複雑な笑顔をどこともつかない虚空へと向けていたが、やがてそれをナタリヤに向けた。
「とても光栄な事だ。一生の誇りにし、寛大なるカイ様への感謝の気持ちを忘れないようにしなさい。それから、カイ様に失礼のないように」
「だいじょうぶだよ、ともだちだもん!」
 ナタリヤが満面の笑みで言い切ると、父はため息と共に肩を落とした。

 それからナタリヤは、毎日のようにカイの家へと足を運んだ。友人は全て王都に置いてきた上に、城の中では友人の作りようがないため、九つ年上とは言っても、カイはナタリヤにとってもっとも歳の近い友人であったのだ。
 父はカイに城内で暮らす事をすすめたが、カイは城の中で暮らそうとしなかった。「何か意味があるのですね?」との父の問いに、「あるつもりだけど、ないかもしれないなあ」と曖昧な答えを残して、カイは町はずれの小さな家に住みついた。小さいと言ってもナタリヤの感覚であり、ザールの町に住む一般の者たちと比較すれば大きい方なのだと、数日通ううちに知る事となった。急だったが、それでもできる限り立派な家をカイのために用意したのだろう。
 ナタリヤが訪ねると、カイはいつも笑顔で受け入れてくれた。小さな家にナタリヤを迎え入れ、沢山の話をした。多くは、彼が王都に移住するよりも前、海辺の街トラベッタで過ごした日々の事で、海どころか王都セルナーンとザール以外を知らないナタリヤにとって、新鮮で楽しい話ばかりだった。
 カイの家に住んでいたのは、カイだけではなかった。いつも家の隅の椅子には、眩い黄金の髪と無限の広がりを感じさせる空色の瞳を持つ少女が腰掛けていた。とても綺麗な少女で、これまで美人だと思ってきた母や叔母のレイシェルが、霞んで見えるほどだった。
「あのひとはだれ?」とナタリヤが訊ねると、カイは照れ臭そうに微笑んでから、「俺の奥さんだよ。シェリアって言うんだ」と答えた。ナタリヤは声が出ないほど驚いて、何度も何度もカイと少女の顔を見比べた。
 似合わないふたりだ、と言うのが、ナタリヤの本音だった。こんなにも綺麗な少女にカイでは不釣合い、と言う意味ではなかった。いつも優しく、朗らかに笑っているカイに、人形のように愛想の無い少女では不釣合いだ、と思ったのだ。
 だがカイは、シェリアの事をとても大切にしていた。常に笑顔で語りかけ、日々腹を膨らませていくシェリアに寄り添い、精神的にも肉体的にも献身的に支えていた。シェリアも口調や態度こそ冷たかったが、どうやらカイを頼っているらしいと、長く時を共にするうちに理解したナタリヤは、初期に抱いていた違和感を徐々に忘れ、これもひとつの夫婦の形なのだろうと受け入れられるようになっていた。
 ふたりが――そう、シェリアもカイと同じだった――神の子である事は、町の者には秘密にしていた。「どうして?」とナタリヤが訊ねると、カイは寂しそうに微笑みながら言った。
「俺が神の子だと知った人たちのうち、ナタリヤ以外は、みんな緊張して、普通に接してくれなくなったからな」
「でも、とうさまとか、おしろではたらいているひとたちはしっているんだから、すぐばれちゃうよ?」
「それはそうなんだけどな。それでも、秘密にできる限りは秘密にしておきたいんだ。たとえ短い時間でも――普通を装って、生きてみたいんだよ。我侭だって判っているけれど」
 幼いナタリヤには理解できない話だったが、それがカイたちが城で暮らさない理由なのだろうと言う事は、何となく理解した。
 運が良かったのか、彼らの正体が町に広まる事はなかった。やがて、カイの人あたりの良さが手伝って、可愛らしい若夫婦は近所の評判になった。手を取りあって生きる仲の良い夫婦なのだと、最も近くにいたナタリヤでさえ信じていたのだから、近所の者たちも疑わなかっただろう。
 運命の日が、長雨が続く鬱陶しい日々の終焉と共に訪れるその日まで。
「ごめんな、ナタリヤ。明日だけは絶対にうちに来ないと、約束してくれないか」
「どうして?」
「そろそろ、近所の人たちに俺たちの正体がばれてしまいそうなんだ。だから、ルスターさんの言葉に甘えて、城の方に引っ越そうと思っている。その準備があるから、ナタリヤと遊ぶ時間がなさそうなんだ。明後日からならまた遊べるから、明日だけは我慢してくれないか?」
「うーん、わかった。明日だけなんだよね」
「ああ」
「じゃあ、約束」
 だが、翌朝目覚めたナタリヤは、前日にカイと固い約束を交わした事など、すっかり忘れ去っていた。いつも通り、食事と簡単な勉強の時間を終えると、体が勝手にカイの家を訪ねてしまったのだ。
「カイ様? シェリア様?」
 カイの家の前には先客が居た。その人物がハリスと呼ばれているのを、ナタリヤは知っていた。カイの隣の家に住居を構える彼は、周囲の人間には公言していないが聖騎士で、カイとシェリアの護衛役だ。何も知らない近所の住民は、カイかシェリアの父親だと思っていただろう。
「失礼します」
 返事がない事をいぶかしんだハリスは、扉の前で考え込んだ末に、取っ手に手をかけて扉を開けた。
 直後、部屋の中を覗いたハリスが、まるで戦慄したかのように目を見開いた時、様子がおかしいと判っていながらも、ナタリヤは湧き上がる好奇心を抑えきれなくなっていた。
 ハリスが家の中に入っていくと、ナタリヤは家に近寄り、開け放たれたままの扉から部屋の中を覗き込む。
 部屋の入り口近くに立ち尽くすカイが見えた。彼の眼差しには、強く深い闇が宿っていた。ナタリヤの知る、いつも朗らかなカイが内包するには、相応しくないものだった。
 恐ろしさに足が竦んだナタリヤは、声も出せず、その場から一歩も動けなくなる。
 唯一自由な眼球を動かすと、カイとハリスの視線の先にはシェリアが居る事が判った。近所に住む女性がもう臨月だね、と言っており、その言葉の意味をナタリヤは知らなかったが、もうすぐ子供が生まれる事だ、とカイが教えてくれた。「うれしいね。わたし、ほんとうのおとうとやいもうとみたいにかわいがる」とナタリヤが言うと、「そうしてくれると嬉しいよ」とカイは答えたものだ。
 大きな腹を抱えた少女は、寝台に横になり、いつもならば美しく弧を描いているはずの眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべていた。あの人も表情を変えられるのだと、変なところで感心したナタリヤは、ハリスが家を飛び出そうと振り返った事に気がついて、後ろめたさをごまかせるような隠れ場所を探した。
 しかしハリスは家から出てこなかった。カイがハリスの腕を掴み、引き止めたのだ。
「カイ様、お放しください。人を呼ばねばなりません。おそらくシェリア様はこれから、ご出産を」
「いいんだ」
 カイの声は静かだった。場にそぐわない落ち着いた声は、まるでシェリアのようだとナタリヤは思った。
「良いはずがありません。誰かを呼ばなければ、私たちには何も……」
「誰も、何もしなくていいんだ」
「カイ様?」
 強い疑問を込めた声でハリスが名を呼ぶと、カイは空ろな瞳をハリスに向けた。
「俺は選んだ。選定の儀で。あの晩、全ては定められたんだ。何も変わらない。俺たちや、俺たちではない誰かが、シェリアに何をしてやろうとも、運命は変わらない」
 ハリスはもう一度カイの名を呼んだが、その声にはシェリアの悲鳴が重なった。おそらく、そばに居たカイですら、呼ばれた事に気付かなかっただろう。
 空気に溶けてしまいそうなほど細い声でしかしゃべらなかったシェリアが、空気を引き裂くほど強く叫んでいる。それほどの苦痛が彼女の身を攻めているのだと思うと、ナタリヤの小さな体に震えが走った。
「お前が悪いんだ」
 カイは表情は変えない。声音も変えない。
 だと言うのになぜ、泣いているように見えるのだろう。
「お前が悪いんだ、お前がこれを望んだんだ、お前が、シェリアを」
 カイの喉が鳴る。何かを飲み込んだようだ。息だったのか、唾液だったのか、言葉だったのか、ナタリヤには判らなかったが。
「違う。俺が悪いんだ。俺が、シェリアを、選んだんだ……」
 いっそう強い悲鳴が家の中を支配する。
 シェリア様、とハリスは叫んだ。その声は彼女自身の声に遮られ、シェリアには届かなかっただろうが、そばに居たカイには届いたようで、ハリスを捕らえる手から僅かに力が抜けた。
 隙を見逃さず、カイの手を振り解いたハリスは、呻き騒ぐシェリアの元へ駆け寄ろうと床を蹴る。
 赤い液体がハリスの頬を打った。それは頬骨から滑り落ち、ゆっくりと伝わると、唇の端を掠めた。足を止めたハリスは、確かめるように頬に手をやったが、しかし指にふれたものを視認する事を躊躇っていた。
 その間も、シェリアの悲鳴は止まなかった。そしてハリスの頬に触れたものが、ハリスの全身にふりかかり、カイを、少女が横たわる寝台を、そばの壁を、天井までも汚していった。
 なに。なんなの、これは。
 あかい。あかい、すべてが――
 紅い世界を照らし出す輝きが、シェリアの腹の上に見えた。長い、まるで刃のような形をした光。
 いや、まるで、ではない。それはまさしく刃だった。シェリアの腹の上にあるのではなく、シェリアの腹の中から突き出す、鋭い刃だった。
 少女は産みの苦しみで叫んでいたのではない。胎内から切り裂かれる苦しみに、悲鳴を上げていたのだろう。
「シェリアさ……」
 シェリアの悲鳴が途切れた頃、新たな悲鳴が上がった。それが他の誰でもない、自分の悲鳴である事に気付いた時、ナタリヤはその場に膝を着いていた。
 なんなの、これ。
 噛み合う事もできなくなった歯がけたたましい音を立てる。全身が震えているのだと自覚したナタリヤは、己の肩を抱いた。経験した事のない、むせ返るような血の香りの中で、こみ上げてくるものに耐え切れず、嘔吐する。
 明らかに異常な光景だった。母となるべき少女はこと切れ、美しい顔を歪ませたまま、力無く寝台に横たわっている。その少女の切り裂かれた腹から、光る剣を手にした赤子が姿を現している。そして、妻を心より慈しんでいたはずのカイは、無残な妻の姿を平然と見下ろしていた。
 妻の体が切り裂かれながら、自身も血まみれになりながら、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。
 まるで、そう、はじめから知っていたかのように――
「ごめんな」
 ナタリヤの存在に気付いているのかいないのか、カイは振り返る事なく、唇を振るわせながら呟いた。
「ごめんな、シェリア。ごめん、俺は」
 カイの膝が力を失い、血まみれの床の上に崩れ落ちる。
 同時に産声が上がった。母の血に塗れた子が、懸命に生を訴えるその声は、輝かしくめでたい事でありながら、悲しく辛く、何よりもおぞましいものにナタリヤは感じた。
 シェリアの体が、熱い光となって辺りを照らし出す。
 鮮烈な光は刺すように痛く眩しく、ナタリヤは目を伏せた。体中から力が失われ、上体も地面に倒れ込む。
 弾ける音がした。何が弾けているのか判らなかったが、同時に光が収束している事をナタリヤは理解した。
 意識を手放しかけながら、最後の力を振り絞り、薄く目を開く。
 光は赤子が握る光の剣を包み込むと、やがて抜き身の刃を治める鞘となって、実態を現した。黒い、闇よりも暗く、だが美しく輝く鞘は、金の細工で縁取られ、空色の宝石が輝いている。まるで、たった今失われた少女の化身のようだった。
 渇いた音を響かせて、剣が床に転がり落ちる。
 いつの間にか寝台に歩み寄っていたカイが、剣を拾い上げた。生前のシェリアを労わるように優しい手付きで鞘を撫でると、泣き喚く赤子の傍らに置き、代わりに不器用な手付きで赤子を抱き上げた。
「アスト」
 カイは呼んだ。自身の子、偉大なる天上の神が遺した救世主の名前を。
 悲しくも優しいはずの響きは、薄れゆくナタリヤの意識の中に、恐ろしい響きとなって強く焼きついた。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.