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終章 女神リリアナ


 城に匹敵する大きさである神殿の最奥に位置する部屋の扉は大きく、体を鍛えている男とは言えひとりで開くには重いはずだった。
 しかし不思議と、羽根のように軽く感じた。
 おそらく気分の問題なのだろう。いつもならば蝶番が立てる鈍い音は不快に感じる事が多いと言うのに、今は、心地よい音楽に聞こえたのだから。
 押し開けた扉の向こうは、鮮やかな色彩に溢れる広い部屋だった。四方の壁と天井には壁画が広がっており、常若の緑広がる大地と、眩い青い空と、輝かしい太陽を伴う天上の神エイドルードが描かれている。
 魔獣を地中深くに封印し、大陸に恵みをもたらした神を称える絵だ。絵心がないエアにも、今にも迫り来るようでいて、果てしない広大さを伝えてくる。よほど高名な画家によって描かれたのだろう。
 部屋の奥には祭壇があった。祭壇の中心には、短くなった蝋燭に火が灯された銀の燭台が置かれている。エイドルードの居る空を象徴する水色の宝石や、この神殿がある砂漠を象徴する黄色い宝石がはめ込まれた、豪勢なものだ。
 そして祭壇の前には、両膝を着いて熱心に祈る女性がひとり。
 エアにとって呪わしい光景であるはずのそれは、美しい光景でもあった。祈りを捧げる女性も合わせて、一枚の絵であるかのように。
 本能的にその美を破壊する事に戸惑ったエアは、部屋の中に入る事も、部屋の主に声をかける事もできずに、無言で立ち尽くしていた。
「メレディア、どうでした? 侵入者は捕まりましたか?」
 発する声は、五年の歳月が僅かな深みをもたらしていたものの、エアの記憶に残る声とほぼ変わらなかった。
 懐かしさに感動がこみあげる。あらゆる感情が混じり合っていたが、一番は間違いなく歓喜だった。
「メレディア……?」
 女性は――砂漠の女神リリアナは、ゆっくりと立ち上がってから振り返る。そして両の瞳にエアを映すと、身を強張らせた。
 呼吸すら忘れたかのように微動だにせず、真っ直ぐにエアを見上げてくる。まるで彼女の周りだけ時間が止まったかのように。
「リリアナ」
 エアは全ての想いを込めて名を呼んだ。五年間、そばに居ない事を知りながら、何度も何度も呼び続けた名を。
 呼ばれた事に驚いて瞬きをした女性は、エアの思い出の中に居る少女時代のリリアナと、少し違っていた。
 五年もの間、祈り続けると言う役割を果たしてきたため、神の使徒らしい神々しさが内から滲み出ているせいかもしれない。五年の歳月が、彼女に大人の雰囲気をもたらしたのもあるだろう。
 だがそれよりもエアの目に付いたのは、砂漠の神殿で暮らしながらも白く透き通った肌や、あかぎれやひびわれを知らないすべらかな手などだった。
 上質な香油で丁寧に手入れされているだろう髪が、つややかに肩から滑り落ちていく。ささやかに光沢のある絹の服や、額・首・腕・指先に飾られた宝石たちが、蝋燭の灯りを照り返す。
 高貴な人間のみに与えられるそれらは、エアと彼女の住む世界が違うのだと見せ付けてくるようだった。
「……エア?」
 逃げ帰りたい衝動を掃うリリアナの呼び声。
 その唇に、その声に。名を紡いでもらう事にどれほど飢えていたかを自覚する。
 誘われるように、エアは一歩を踏み出した。
「本当に、エアなの? どうして」
「リリアナ」
「――エア!」
 軽い足音が床を蹴った。
 神のために祈る事を義務付けられた女は、神に振り返る事もなく、一目散にエアに駆け寄ってくる。涙を頬に伝わせ、しかしそれは悲しみによるものではない事を表情で伝えながら、エアの胸に飛び込んできた。
 触れる温もりが、鼻先に触れる甘い香りが、エアの中で燻っていた不安や迷いを霧散させていく。
 リリアナも、エアを求めてくれていたのだ。エイドルードの妻として与えられた誇りや贅沢は、彼女の感情を揺らがせる事はできなかった。神に祈り、そうして役目を果たしながら、彼女の心は今日までエアを呼び続けてくれた。
 これほど喜ばしい事は、他にない。
 エアはリリアナの頬に触れた。優しい手つきで彼女の涙を拭ってやるが、後から後から溢れ出るものを拭いきる事はできない。小さく息を吐くと、リリアナの背に手を回して強く抱き締めた。
 リリアナは嗚咽を堪えようとはしなかった。エアにしがみつき、肩を震わせながら、子供のように泣きじゃくるだけだ。
「忘れられていると思っていたのに」
「忘れようと思った事もある。忘れた方がいいのかと迷った事も」
 けれど忘れられなかった。忘れられなかったのだ。
 自分自身が誇らしかった。迷っても、多くの者を切り捨てても、傷付けても、彼女を忘れ去らずに良かったと。
 ここに来て良かったのだと、今ならば心から思える。
「帰りたかったわ。ずっと、帰りたかった。ここは寂しいの。冷たくて、静かで――私はまるで囚人のようだった。私を妻に選びながら、エイドルードは一度として声を聞かせてくれなかった。私、どれほど貴方に会いたかったか。すべて夢なら良かったって毎日思っていたわ。目が覚めたら、花嫁衣裳の続きを縫うの。あとは最後の仕上げだけだったのよ。そして貴方の奥さんになって……やだ、もう。何を言っているか、判らない」
「何でもいい。声が聞きたい」
「ずるいわ。私だって」
「俺は、後でゆっくり話す。色々あったんだ。ここに来るまで」
 リリアナは疑問を色濃く浮かべた瞳でエアを見つめた。
「後でって、いつ?」
「いつでも」
「そのうち皆戻ってきてしまう。そうしたら、貴方は……」
「リリアナ」
 エアは一呼吸吐いてから続けた。
「俺はお前に会いに来たんじゃない。迎えに来たんだ」
 リリアナの瞳の中にあった疑問はそのままに、不安や恐怖と言った感情が瞬時に混じりあった。疑いの眼差しでエアを見つめていたかと思うと、逃れるように目を反らす。
 恐れるのも迷うのも当然だった。エアとて、ここに辿り着くまでに何度も迷ったのだから。寂しい、帰りたいと強く思いながらも、五年近く役目を果たし続けたリリアナが、あっさりと女神の役目を放棄できるはずがない。迷わず放棄できるような人間ならば、はじめから女神になどならなかっただろう。
 それでも、いや、だからこそ、選んで欲しい。エイドルードではなくエアを。国の平穏ではなく、自分自身の望みを。
「大丈夫だから。もう、お前が全てを背負う必要はないんだ」
 エアは想いを込め、抱き締める腕に力を込める。そうする事で、甘い香りに逸る鼓動をリリアナに伝えた。
 リリアナの混迷の深さを示す、長い長い沈黙。
 酷な事を強いている自覚はある。だからこそ急かしも説得もせず、エアは愛しい娘の選択を待ち続けた。
「エア」
 リリアナはエアの頬に手を添え、エアの視線をリリアナに導く。
 潤んだ瞳が見せるひたむきな眼差しに惹かれ、エアはリリアナの可憐な唇にゆっくりとくちづけを落とした。
 ただ触れ合うよりも深い熱が溶け合い、願いと祈りが熱と共に混じりあう。
 離れると同時に、リリアナの手が優しくエアの頬を撫でた。涙を拭うような手つきで――いや、拭うような、ではない。彼女は真実、エアの両目から零れた感情を、優しく受け止めてくれたのだ。
「連れて行って。私を」
 待ち望んでいた答えは、愛くるしい笑顔と共にあった。
 リリアナの瞳を覗き込むと、強い望みによって迷いを奥底に隠した、新たな決意の色が見える。その色は視線を通してエアに伝染し、勇気を奮い立たせてくれた。
 エアは優しくリリアナの手を取り、その甲にくちづけをしてから微笑みかけた。
「共に、生きよう」
「もう二度と貴方から離れない。たとえ、神の命令だろうとも」
 ふたりは強く誓い合う。五年前、結ばれるはずだったふたりを引き裂いた、天上の神の御前で。
「行こう――」
 繋いだ手をそのままに、エアはゆっくりと歩き出す。
 重い足音に、軽い足音が重なった。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.