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二章 森の神殿へ




 一昨日一日中振り続いた雨が未だ残っているのか、それともこの地方が元よりみずみずしいのか。
 幌付き馬車の荷台に腰を下ろしたエアは、自身が乗る馬車が渇きを知らない柔らかな土に残していく轍を見送りながら、静かにため息を漏らしていた。
 エアは轍が嫌いだった。終わりが見えないほど長く続く轍は、リリアナが奪われた日の事を嫌でも思い起こさせたからだ。
 しかし、リリアナを取り戻せるかもしれないと判った今では、眺めていても以前ほど辛くはない。自分たちが進んで来た道の長さ、帰るための道の長さを思い知らされ、億劫になっているだけだ。
 長い道のりだった。エアたちが王都セルナーンを発って、すでにひと月余りが過ぎている。旅は順調で、目的地にほど近い所まで来ているが、まだ片道。帰りも同じだけの時間がかかるのだ。それを思うと、ため息は自然と漏れていた――むろん、自身の目的やリリアナの事を思えば、この任務を投げ出す気も嘆く気も起こらないのだが。
 通り過ぎる景色の変わり映えの無さに辟易したエアは、静かに目を伏せた。
 視覚を閉じると、優しく身を包む風の流れや、噎せ返るような草の香り、車輪が回る音が、より強く感じられる。それら全てが単調で、目を閉じたところで退屈から救われる訳ではないのだと思い知ったエアは、ゆっくりと目を開けた。と、ほぼ同時に、片側の車輪が土の柔らかさに取られて余分に沈んだ。
 馬車が僅かに傾き、崩れかけた体勢を保とうと腕を張ったエアの背後では、積んだ荷物同士がぶつかる音がした。それから、女神たちに届ける予定の物資が無事か確認する部下の声。梱包してある荷物がこの程度の衝撃で痛むなどとエアには到底思えず、一時は「無駄な事はよせ」と止めようかとも考えたのだが、万が一の事もあるので見守る事にした。
 とは言え、荷物がひとつふたつ壊れたところで、大した問題ではない。中身は香油や香水、宝石類と言った、女神の身を飾るものがほとんどで、生活必需品と言えるものは新しい服や食器と言った、ごく僅かなものだけなのだ。その服とて、女神のために織られた上質の絹に、色鮮やかな絹糸で刺繍を施されたと言う高級品であり、生きていくために最低限必要なもの、と言うわけではなさそうだ。
 森の神殿や砂漠の神殿は、神の許しのない者を跳ね除けるため、人の領域を超えた過酷な自然の中にある。故にそこで祈る女神や、女神に仕える者たちの生活環境は苛酷なのだろうと、エアは勝手に想像していた。だからこそ重要な任務で、リリアナの奪還に必要か否かを抜かしても、誇らしいかもしれないと思っていたのだ。
 しかし、実際のところは全く違うらしい。森、砂漠の両神殿は、「天を頂とする」と伝えられるほどの高い壁に囲われているのだが、苛酷な環境にあるのは壁の外側までで、壁の内側は長閑で快適なのだそうだ。自然災害は皆無の上、神から妻へと贈られた豊かな自然の恵みがあるため、数十人程度ならば問題なく自給自足ができる。森はもちろん、砂漠の神殿でも、飲み水に困る事はない。
 だからエアたちが運ぶのは、森では作れないか、作るのに大きな手間がかかるもの、あるいは大都市でしかつくられない高級な嗜好品と言った類なのである。
 明らかに失敗したところで人命に関わるような仕事ではない。どうりで、自分のように多少腕が立つだけの新人に任せるわけだ。
 エアの胸に湧いた誇りは何処かに消え去ったが、部下たちにとってはそうではないようだった。国の安寧のために生きる女神のために働ける尊い任務だと、必要以上に張り切っているほどだ。
 その女神が元は田舎娘――森の女神はどうだかエアは知らないが――で、田舎の農夫と結婚するはずだったと知れば、彼らは驚くのだろうか。それとも失望するのだろうか。
「エア隊長。ディミナ山がもうこんなに近いですよ」
 名を呼ばれ、エアは振り返る。背の高い木々の向こうに、雲にも届きそうなディミナ山が聳えていた。
 大陸一と言われている高山が視界に入るようになったのは何日も前の事だが、いつの間にここまで迫っていたのか。後方ばかりを見ているのも問題だなと反省したエアは、しかし長い旅の苦労が実った喜びを膨らませる事を優先し、唇に小さく笑みを作る。
「ようやくだな」
「はい。もうすぐ、任務の折り返し地点ですね」
「みんな、慣れない長旅は疲れただろう。この調子ならば夕刻前にはディミナ山の麓の宿場町に着くはずだから、体をよく休めてくれ。明日の昼前には発つ事になるから、ゆっくり……とは言えないがな」
「はい」
 心なしか普段よりも力強い返事に肯いて応えると、エアは再び遥か高みのディミナ山を見上げた。
「森の女神ライラ様はどのような方なのでしょうね」
 突然言い出したのは、話好きのルスターだった。蜂蜜色の髪が風に揺れ、好奇心に輝く瞳を演出している。
 隊長であるエアが新人である事が考慮されたのか、それとも大して難しくない任務だからか、エアが引き連れている部下はエアとさほど年の変わらない者ばかりだった。それでもエアにとっては先輩ばかりなので、部下として使うのは少々気が引けるのだが、同期で年下であるルスターならば少しは気が楽だ。
 もっとも気が引けているのはエアだけで、使われる方はあまり気にしていないようだった。農民出の後輩に使われるのは矜持が傷付きやしないかと思うのだが、武術大会の優勝者と言う肩書きは、ここでも力を発揮しているらしい。彼らは全員尊敬の眼差しをエアにそそいでいる。
「気品に満ち溢れた、お美しい方だと聞いているが」
「確か、王都セルナーンの出身のはずです」
 エアの言葉に続けたのは、一番古株の青年ジオールだ。
 古株とは言ってもまだ入団五年目で、エアより二つ年上なだけだ。彼はさる高名な貴族の息子だと噂で聞いているが、本人が出自について触れられる事を拒否している事から、嫡子ではないだろうと想像するのは容易かった。
 少々浅黒い肌や短い黒髪、少々太めでつり上がった眉が、真面目で頑固そうな印象を与え、実際その通りの性格と言う、実に判りやすい男である。
「私が入団してはじめての女神の選出でしたから、よく覚えております。王都セルナーンのライラ様とギィ村のリリアナ様を探せと、全団員に指示がありました。もっともライラ様は次の日には大神殿へ召されておりましたから、捜索の必要はなかったのですが」
「ああ、そう言えば……」
 御者台に座る青年、ハリスが呟くように言った。後ろでひとつに縛られた少し長めの髪が、風に揺れている。
 入団四年目の彼はエアと同い年で、言動に特に難があるわけでは無いのだが、穏やかな空気を纏った青年だ。鞍や鐙や鞭と言った馬術関連の道具を扱って大きくなった商家の息子であるからか、馬を操るのが一行の中で群を抜いて上手く、御者台に座らされる回数が一番多いのが彼だった。
「噂に聞いた事がありますよ。ライラ様は聖騎士団員の家族で、だから見つかるのが早かったのだと」
「家族?」
「ええ。その聖騎士団員が誰なのか、姉君だったのか妹君だったのかは判りませんが。まあ噂ですから、真実ではないのかもしれませんね」
 そうだな、と軽く返しながらも、エアはハリスが聞いた噂はほぼ真実だろうと確信を持っていた。そうでもなければ、危険な取引をエアに持ちかけてはこないだろう。
 しかも、砂漠の神殿に派遣される程度に信頼が置かれている人物。大神殿から砂漠の神殿への距離は、森の神殿への距離とほぼ同じとエアは聞いており、これほど長く王都を離れる事から考えるに、少なくとも当時はさほど要職には就いて居なかっただろうと予想ができた。体力的な事を考慮すれば、歳もそれほど上ではないはずだ。
 それでいて、森の神殿へ派遣された経験がない者。つまり、武術大会で優勝した経験がない人物。
「家族が女神に……それは、誇らしいのでしょうか。それとも、辛いのでしょうか」
 積み上げた荷物に背中を預け、膝を抱えながらルスターは言う。
 真剣に悩むその表情に邪気はない。エアの背景を知っているわけでも、疑っているわけでもないのだろう。だが、エアの胸が痛みを訴えるきっかけとなり、エアがルスターを恨む原因となりえた。
「辛いと思う。何よりも近しい存在が手の届かない存在になってしまう事が、悲しくないわけがない」
「自分も同じです」
 ハリスにジオールが続く。
 ふたりが紡いだのはエアの想いを代弁する言葉であったが、不思議とエアの心は軽くはならなかった。おそらく、彼らの言葉には実感がこもっていないからだろう。
「国を支える存在が自分の家族であると言う事実に、誇りはあるでしょうが……」
「きっと、な」
 エアが肯定する言葉をこぼすと、三人は満足そうに微笑んだ。
 もちろん嘘だった。エアの中に誇りなど欠片もない。リリアナを失った空虚と、リリアナを奪われた呪いばかりが、エアの中で息衝いている。
 だが、真実を吐露せず自然に振舞うには、嘘を吐くのが一番楽だった。
 エアがやろうとしている事が気付かれては制止されてしまう。だから、誰にも気付かれてはならないのだ。
 自分の目的も、願望も。


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