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「なーんて、冗談だよ」などと言いながら、イ・イルは笑ってくれるだろう。そう俺は思っていた。
 そうしたら、「俺は真剣なんだ。くだらない事を言うな」と言って、軽く殴ってやって……終わらせようと思った。
 しかし、現実はそれほど甘くはなく、未だイ・イルの表情は暗いままだ。それも含めてたちの悪い冗談なのではないかと信じたかった俺は、そばに居るル・スラや、少し離れたところに居るリ・マーを見上げたが、ふたりが見せる色はイ・イルが見せるものとほとんど同じで、何の救いにもならなかった。
 俺はもう一度、草に埋もれる人物の、綺麗な顔を見下ろした。
 この人が創造主なのだとイ・イルは言う。
 信じたくない。だが、疑う余地はないのだと、俺は考えはじめていた。初見で、ル・スラたちと違う生き物だろうと確信に近いものを抱いたのは、他ならぬ俺自身なのだ。そして、創造主の島に存在する、ル・スラたちと違う生き物など、創造主しか居ないだろうと思うのだ。
「どうして……」
 創造主。俺たちが生きる世界を創った存在。
 だから俺は、疑いもせずにここに来た。世界をはじめた創造主は、きっと世界を終わらせる事すらできる存在で、だから、世界を変える事だって簡単にできるだろうと信じて。
 だが、実際は、どうだ。
 ここに横たわったまま、動く事すらしないなら――創造主は、きっと、何ひとつ、できやしない。
 俺は、一体、何をしにここに来たのだろう。
「創造主が君たちを創った時、君たちはただの人形でしかなかった。意志も感情も持たない、ただ、動くだけの」
 俺の隣で、俺と同じようにうなだれるイ・イルは、ぽつり、ぽつりと、語りはじめた。きっとこの島の外の人間は、誰ひとり知らないだろう話。遠い昔の、古い物語を。
「創造主はそれが気に入らなかった。自分と同じような生き物を創りたかったからね。思い通りにいかなくて、ずいぶん腹が立っていたみたいで――そんなある日、創造主は、材料が足りないんじゃないかと思いついた。自分の心を切り取って人を創ってみたらどうなるんだろうと、考えたわけさ。そして、すぐに実験をした」
 ざわり。強い風が草を撫で、大きな音が立つ。
 同時にイ・イルの紅い髪が激しく揺れた。くすぶっていた火が燃え上がったように見え、飲み込まれそうな恐怖を感じた。
「その方法で最初に生まれたのが僕さ。僕は多分、成功事例だったんだと思う。でもそれ以上に創造主にとって嬉しかったのは、僕が生まれた事で、海の向こうの人形たちが、ただの人形でなくなった事だ。僕の材料になったのは、それまで創造主の心の中で一番強く働いていた部分だったんだけど、その心が、人形たちの中に生まれたんだ」
 赤い瞳が、静かに輝きながら、貫くような鋭さで俺を見つめた。
 穏やかな表情で、微笑んでいるようにも見えるのに、どんな形相よりも恐ろしく感じてしまうのはどうしてだろう?
「創造主は、次々と僕の仲間を創り出した。僕の仲間が増えるたびに、海の向こうの人形たちの心は豊かになっていった。リ・マーが生まれた時、創造主はとうとう、人形たちを人間たちと呼ぶようになった。リ・マーはね、創造主の言葉で、『優しさ』を意味する。彼女が生まれた時、君の祖先たちは、思いやりの心を得たんだよ」
 俺はリ・マーに振り返る。あいかわらず俺に怯えた様子を見せていたが、澄んだ翠の瞳を背ける様子はなかった。
 その瞳を見ているうち、ふいに、三番目だのと言っていた、イ・イルの声を思い出す。
 俺自身はとてもそうは思えないが、多分、彼女の名が意味するものが、俺の心を占めるものの中で三番目に強いと、イ・イルは言っていたのだろう。
 本当に三番目が優しさ――故郷に残した家族や、失った家族に向けた――なのだとしたら、二番目は。おそらく、イ・イルは。強く、熱い色を持つ、イ・イルは。
 俺は拳を握り締め、できる限り冷静になり、自分の心に振り返る。
「じゃあ、イ・イル。お前の名は、『怒り』か?」
「ご名答」
 俺はイ・イルを見ようとしなかったが、空気の変化でなんとなく、イ・イルが軽く笑ったように感じた。
 イ・イルはおもむろに立ち上がる。膝に付着した土や草切れを掃いのけると、高い空を仰いだ。風によって雲が流されていった、曇りなき青を。
「君が何かに対して怒りを抱くのは、遠い昔に僕が生まれたからなんだよ」
 俺は自分自身の胸を抑えた。
 イ・イルの声が、ひどく心地よく響いた。耳の奥でいつまでもこだまし、とげとげしく荒れる心を静めてくれる気がした。
 彼は「怒り」の象徴なのだから、落ち着くのはとてもおかしい事なのかもしれない。だがそれが、紛れもない事実だった。
「リ・マーの後も、創造主は、僕の仲間をどんどん創ったよ。そして、僕らの知らないところで、どんどんおかしくなっていってたみたい。あたりまえだよね。自分の心を、どんどん切り捨てているんだから」
「それで、二度と目覚めなくなったのか」
「僕は最悪の状態になる直前に、創造主の異常に気付いたから、止めようとしたんだけどね。最後に残った心だけは、自分の中に残しておいてくれって。でも、創造主は僕の声なんて聞かなかった。人間たちを完成させたいって。最後に残った心だけを抱えて生きるのは、辛いって、そう言ってね、最後にル・スラを創って、眠ってしまった」
 ふわりと、風が吹く。
 俺の少し後ろに立っている、ル・スラの髪が風に揺られて、俺の狭い視界に飛び込んできた。深い深い海の色が。暗く、切ない色が。
 俺は手を伸ばし、蒼い髪に触れる。そして糸を辿るように更に手を伸ばし、ル・スラの手に触れた。
 小さくて柔らかな手のひらから伝わってくるのは、泣きたくなるほど愛しくて鋭い、温もり。
 ああ、でも、そうだな。俺が今、泣きたいと思うのも、きっと。
「お前が俺をここまで連れてきたんだな、ル・スラ」
 こんな世界を、変えなければいけないと思った。
 変えられないならば、無くなってしまえばいいと願った。
 それは、俺の心が痛みを訴えて泣き叫ぶから思うわけで、俺の心が痛むのは――ル・スラが居るからで。
 悔しいが、眠りについてしまった創造主の気持ちが、少しだけ判る気がした。
 この苦しみだけを抱えて生きる事に、俺は耐えられない。創造主も、そう思ったのだろう。
「ル・スラ。お前は、この島で生きて、楽しいのか?」
 無邪気な笑顔で、蒼い髪の少女は頷く。
「そうか」
 俺は両手で、ル・スラの手を包み込んだ。
「だが、海の向こうには、悲しい事ばかりだ。理不尽に奪われて、傷付いて、心が折れてしまいそうなほど苦しんでいるのは、俺だけじゃない。皆もだ」
 ル・スラは笑顔のまま、可愛らしく首を傾げる。深い瞳の中には、強い好奇心が宿り、俺の心の中を覗き込もうとしているように見えた。
 俺は、できる限り優しく笑って、見透かされないよう心を曇らせる。それから、下手な事を口走らないよう、ル・スラの手の甲に、ゆっくりと唇を落とした。
 俺を突き動かす、強い強い感情が、雫となって頬を伝う。
 この島に訪れた俺の傷を癒し、助けてくれたのは、ル・スラだった。そしてル・スラは、俺の心もいくらか癒してくれたのだろう。気ままな行動や、温もりによって。
 それなのに俺はまだ一度も、「ありがとう」と、言っていない。それどころか――
 俺は静かに息を吸い、静かに息を吐いた。それをいくらか繰り返してから、動いた。
「消えてくれ。ル・スラ」
 海の向こうから持ち込む事ができた唯一の小さな短剣。
 俺はそれを腰から素早く引き抜くと、ル・スラの首の中心に、強く叩きこんだ。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.