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 果実を全て食べ終えた頃には、俺の体の傷は全て癒えていた。積もりに積もった疲労も回復しており、体が軽く感じるほどだ。そのおかげか、気力も充実していた。
 俺は立ち上がり、めいっぱい体を伸ばす。
 俺の後を追うように、ル・スラも立ち上がった。悪く言えば締りのない気の抜けた笑顔、良く言えば見るものの心を和ませる笑顔を浮かべて、俺を見上げてくる。
 風が吹くと、長い髪が俺の腕に絡んでしまいそうだった。ああ、なるほど。この髪の長さも、妙だと思った名前も、今ならば納得できる。彼女は、俺の常識が通じない場所の住人なのだだから。
「お前は創造主を知っているか?」
 俺が訊ねるとル・スラは、大きな蒼い瞳を更に大きく見開いた。それから、小さく頷いた。
 知っているのか。なおさら都合がいい。
「じゃあ、創造主のところ……」
 ル・スラは、ふいに俺の腕を掴んだ。細い指に強い力を込めて。そうして俺の言葉を遮ると、俺の手を引き、歩き出した。
 創造主の居るところまで連れていってくれるのだろうか?
 俺の言葉は彼女に通じるようなのだが、彼女はけして言葉をしゃべってくれなかった。意志の疎通ができているようなのに、一方通行でしかない事実は、少し不安だ。
 しかし、多少の不安に惑わされて、ル・スラの手を払う事はできなかった。彼女は俺にとって、創造主へ繋がる唯一の足がかりなのだから、信用するしかない――それは、さほど難しい事ではなかった。彼女には、恩がある。彼女は俺の体を気遣って、傷を癒す実や飲み物を持ってきてくれたのだから。
 俺はおとなしく、ル・スラの導きに従って歩いた。靴を失った足の裏に柔らかな感触を得ながら、長く続く砂浜を抜ける。波の音が遠ざかる事に安堵する自分に気付いて、波に飲まれて溺れ死にかけた事実に思った以上に傷付いているのだと、今更ながらに自覚した。
 砂浜を越えた先には、小さな森が迫る。みずみずしく、力強く伸びる草木は、風に揺られているだけだと言うのに、自らの意志で動いているように見えた。そのせいか、侵入者を拒んでいるようにも見えて、俺は一瞬足を止めた。
 だがル・スラは迷わず突入し、草木を分けて突き進む。彼女にそうされると、俺も従うしかなかった。
 森の終わりに近付くと、ル・スラの歩みが速くなった。歩くを通り越して、小走りと言って良い速度で、まるではしゃぐように進む。俺は彼女と共に森を抜け――目の前に現れた一面の白に、愕然とした。
「おいおい……」
 ここは創造主の島だ。俺の常識ではありえない事が、すでにいくつも起こっている。だから俺はもう、「ありえない」と言う理由で驚かないようにしようと心に決めていたのだが……その誓いはどこへ行ってしまったのか、俺はあまりのありえなさに動揺していた。
 森を抜けたところに広がる白は、雪だった。いや、雪ではないかもしれない。雪に似た別の何かだろうか? とにかく、見た目は雪そっくりで、手で触れてみても、足で踏みつけてみても、やはり雪そっくりの感触だった。
 だが、冷たくないのだ。俺は薄着の上、あちこち破れた服を着ているし、裸足なのだが、それでも寒いとは思わない、ここちよい気温の中にあると言うのに、雪は溶け出す様子を見せなかった。
「なんだこれは」と俺が問いかける前に、ル・スラは雪の中に飛び出して行った。誰ひとりとして踏み入った事のない、汚れなく積もる白に点々と足跡を刻みながら、走り回る。かと思うと、唐突に雪の中に倒れ込んだ。
「ル・スラ!」
 俺が呼ぶと、ル・スラは元気よく手を上げた。転んだのではなく、自ら雪に抱かれる事を選んだのかもしれない。
 ル・スラはすぐに上体を起こした。そして俺に向かって、両手で大きく手を振る。
 無邪気なその様子と、白い雪まみれの蒼い髪が滑稽で、俺は思わず微笑み――微笑んだ自分に驚いて、慌てて表情を引き締めた。
 穏やかに笑っている暇など、ない。
 俺は雪を踏み分けて、ル・スラへと近付く。
 俺が近付いている事に気付いたル・スラは、雪玉をつくり、俺に投げつけて遊びはじめた。大抵は俺に掠める事もなく、雪の中に突入して混ざったが、いくつかは俺の体や顔に当たった。だがやはり冷たさはなく、軽い衝撃を覚えるだけだった。
 ル・スラのそばに辿りつくと、俺は彼女の腕を掴んだ。何も言わずにそうしたので、彼女は驚いたようだった。立たせようと、俺が彼女の腕を引き上げようとすると、何度も首を振り、拒絶した。
「悪いが、俺はお前の遊びに付き合う余裕はないんだ」
 俺が冷たく言い放っても、ル・スラの態度は変わらなかった。しまいには俺の腕を振り払い、もう一度雪の上に寝転んだのだ。
 あまり彼女の事を知っているわけではないが、こうなっては梃子でも動かないだろうと本能的に感じ取った俺は、深くため息を吐く。いや、実際には、梃子など使わなくとも無理に引きずる事はできるだろうが、俺の目的地へ案内してもらう事が重要なのだ。彼女の機嫌を大幅に損ねるやり方は賢くない。
 俺は、ル・スラの隣に腰を下ろす。もう一度、諦めを交えたため息を吐いてから、冷たくない雪に倒れ込み、上半身も埋めた。
 するとル・スラは、再び楽しそうに笑った。俺の行動に、満足と言うか、納得したようだ。
 真上を見る。高く、遠くで、空色が輝いている。その中で、白い雲が風に流れ、華麗な色の羽を持つ鳥が飛び回っていた。
 音はほとんどない。時折聞こえるのは、鳥の鳴き声と風の音。それから、ル・スラの笑い声。
 のどかだった。僅かにでも気を抜けば、眠りに落ちてしまいそうなほど穏やかな時間だった。
「ル・スラ! そんなところで何をしているんだい?」
 いつの間にか目を閉じていた俺だが、いくらか離れたところから届く声を耳に入れると、即座に目を開けた。そして起き上がり、声がした方に振り返った。
 雪の向こうに、少年が立っていた。目が覚めるほどの朱い髪と瞳が、まるで炎のように熱い。
 彼が持つ色は、この島でいくらかものめずらしい物を見てきた今、もはや驚くに値するほどのものではなかったのだが、やはりありえないほどに鮮やかだった。間違いなくル・スラと同じ人種だろうと、俺はひとりで勝手に納得する。
「……あれ?」
 少年は俺の存在に驚いたようだった。ル・スラに向けただろう笑みを強張らせ、見開いた両目で俺を見下ろす。
「君、誰? この島の生き物じゃないよね?」
 少年の問いかけに、俺は正直に頷いた。
「海を渡ってここまで来た」
「海? へぇ!」
 俺の返事に、更に驚いたそぶりを見せてから、少年は笑う。
「凄いな。この島がここにできてから、すごく長い時間が経っているけど、多分初めてだよ。外の人が自力でここまで来たのは。意志が強かったのか運が良かったのか知らないけど……うん、とにかく凄い」
 言って少年は、俺に手を差し出した。
 握手を求めているのだろうか? そう言った文化には、大きな違いはないのだろうか? 俺は恐る恐る手を出し、少年の手に触れる。
 すると少年は、俺の手を強く握り締めた。握り締めたまましばらくは、微動だにしなかった。
 握手とは少し意味合いが違うように感じる。ならばどう言うつもりだろうと、俺が疑いはじめた頃、少年は俺の手を大きく振り回し、そして手放した。
「ル・スラは君に懐いてるみたいだね」
 未だ雪の中ではしゃぎまわっているル・スラを見下ろしながら、少年は言った。
 懐かれている……のだろうか。色々良くしてもらっているし、嫌われているとは思わないが、俺が振り回されているだけのような気がする。
「うん、でも、判るな。ル・スラが君を大好きで、君のそばが心地よいと思う気持ち」
「……俺は判らん」
「そうだろうね。でも、気にするほどの事じゃないよ」
 少年は満面の笑みで言った。
 そう言われると、余計に気になってしまうものだが――少年の笑顔は鉄壁で、崩れそうになかった。
「お前は、ル・スラの仲間だな?」
 短く問うと、少年は首を傾げ、短く考え込んでから頷く。
「大きな意味でなら、多分一緒。でも、細かく言えば全く違うよ。僕も君を好きだと思うし、君のそばが心地よいとも思うけど、ル・スラほどじゃないからなぁ」
 彼の容姿や言動は、俺より幼い。しかし、「きっと見た目通りの年齢ではないのだろう」と思わせるだけの、確固たる穏やかな強さが、彼の表情には宿っていた。とりわけ、真っ直ぐ見つめてくるようでいながら、どこか遠くを眺めているようにも見える、情熱の色をした瞳に。
 もちろん、普通の場所で彼に出会っていたら、そんなものを感じ取れなかったか、感じ取ったところで気の迷いだと流しただろうが、ありえないものばかりが溢れかえるこの島では、見逃せないものだった。
 しかし俺としても、何となく逆らえないまま、ただ見上げている状態は気に入らない。雪を掃いながら立ち上がり、少年を見下ろす。ささやかな反抗だった。
「僕はイ・イルだよ」
 少年――イ・イルは、ル・スラの隣にうつ伏せに倒れ込み、雪に自分の跡を残す。
「ここの人間は皆そうなのか?」
「何が?」
「妙な名前だ」
「名前? ああ、名前、ね」
 イ・イルは雪の中で目を伏せてから、くすくすと声を出して笑う。
「そうだね。君には聞き慣れない音かもしれない。これは、創造主だけの言葉の響きだから」


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.