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 固く閉じていた俺の意識の覚醒を促したものは、緩やかな波の音と、頬に触れるくすぐったさだった。
「うっ……」
 小さな呻き声をもらしながら、俺はゆっくりと目を開ける。
 その瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、闇に溶けてしまいそうな暗い蒼。まるで、夜の海のような深いうねり。大いなる自然の恐ろしさと優しさを感じさせる、尊い色。
 嫌な色だ。俺はまずそう思った。だが、同時に思う。綺麗な色だとも。
「お前、誰だ」
 俺は俺の顔を覗き込む少女に問いかけた。
 ふたつの大きな瞳が、動揺に揺らいだ。すると、地面につきそう――立った状態で、だ。俺の横に膝を着いている今は、完全についている――なほどに長い髪も、一緒に揺れた。
「ル・スラ」
 少女はそれだけ言って、また口を閉じる。
 俺の言葉を理解してそう口にしたのならば、ル・スラと言うのは、彼女の名前なのだろう。
 俺は真っ先に、変な名前だと思った。だが、すぐに考え直した。彼女の妙な部分は、名前に限った事ではないからだ。こんなにも髪を長く伸ばす女――に限らず、男もだ――も、蒼い髪の持ち主も、俺はこれまでに、ひとりとして見たことがない。
「ル・スラ、か」
 俺は確かめるように復唱すると、顔に纏わりついてくる彼女の髪をはらいのけ、体を起こした。
 手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近くに、広大な海が広がっている。
 太陽の光を浴びて明るく輝く青色を目にすることで、俺はようやく、自分がどう言う状況に置かれているのかを、理解できた気がした。単純に、はっきりと目が覚める事で、頭が冴えてきたからかもしれない。
 俺は海を越えて、ここにやって来た。だが、大きな波に船ごと飲み込まれてしまったのだ。目指していた島を、ようやく目視できるほどに近付いたあたりで。
 思い出すと同時に、全身がずきずきと痛みを訴えはじめる。体中のあちこちにある擦り傷や切り傷に、海水がしみているのだ。特に大きな傷ができている肩や腰の痛みは、かなりのものだった。
「いってぇな……」
 誰に訴えるでもないひとりごとを吐き捨てると、傍らで、小さな影が動いた。ル・スラだ。
 彼女は急に立ち上がった。そして、俺に見向きもせず、何も言わず、どこかへ走り去っていった。
 突然の出会ったかと思えば、あっさりした別れだった。まあ、仕方ないだろう。俺の目に彼女が妙なものとして映ったように、彼女の目にも俺は妙なものとして映ったはずだ。興味本位で観察をはじめたが、飽きたか、あるいは身の危険を感じ、離れていった、と言うところではないだろうか。
 俺は高い空を見上げ、長い息を吐いた。そうする事で、少し痛みが緩和される気がした。
 そうして多少なりとも気分を落ち着けてから、自分の体を見下ろし、周囲を見回す。船に積んでいた荷物は当然、担いでいた荷物も、船の欠片すら、見当たらなかった。
 どうやら俺は、持ってきたもののほとんどを、すでに失っているようだ。仕方のない事かもしれない。大海の脅威を身をもって知った今、五体……いや、命が残っただけでも、奇跡なのだと思える。
 深呼吸しながら、腰に差してある短剣を抜いた。どうやらこれが、俺に残された唯一のものらしい。
 寂しいものだと思い、ため息を吐いてみたが、すぐに思いなおした。今俺が居る大地が、俺が目指していた場所――目の前にあった島から離れ、別の島に流れ着いた可能性は低いだろう――ならば、これが残っているだけでも、目的を達成するに充分かもしれない。
 陽の光にかざし、刃の輝きを確認してから、服の裾を使って刃先についた水分を拭いとり、鞘に戻す。服はまだ生乾きなので、拭いてもあまり意味はないのかもしれないが、気休めだ。
 さて、これからどうするか。俺はまず、考える事にした。怪我のせいもあって、体力はあまり残っていない。とりあえず歩き回ろうとは考えられなかった。
 ル・スラを引き止めるべきだっただろうか。
 言葉が通じているかどうか怪しいものだったが、もし本当に通じていたならば、彼女から色々情報を得られたかもしれない。身軽な格好をしていたから、きっとこの近辺の住人のはずで、ならば少なくとも俺よりはこの辺りの事情に詳しいはずだ。意志の疎通が無理でも、身振り手振りでなんとか、傷を処置するための薬や包帯が借りられれば、助かるのだが……。
「今更、遅いか」
 もう彼女は目の届く場所に居ない。そして俺には、追いかけるだけの体力はない。あったとしても、今更追いつきはしないだろう。
 さて、どうするか。
 俺はあらためて、はじめから考え直そうとした――瞬間、遠くから鳴る、柔らかな砂をぱたぱたと踏みつける音を、耳にとめた。
 誰かが、砂浜の上を走っている。俺に、近付いてきている。
 まさか。
 俺は慌てて振り返る。すると、やはりそこにはル・スラが居た。風に揺れる蒼い髪を広げながら、走っていた。
 俺のそばに辿りつくと、しゃがみこみ、俺の顔を覗き込む。そして、右手に持っていた器を俺に差し出した。
 中には透明な液体が入っている。俺は疑い半分で受け取り、とりあえず匂いを嗅いでみた。特に変な匂いはしない。今度は、少しだけ舌につけてみる。やはり、変な味はしない。どうやら、普通の水のようだ。
 長く気を失っていたからか、海水を大量に飲んだせいか、原因は不明だが、とりあえず喉が渇いていたので、飲み水の存在はありがたかった。俺は一気に飲み干し、空になった器をル・スラに返す。
 満足そうにうなずいたル・スラは、今度は左手に持っているふたつの実のうちひとつを、俺に差し出した。拳程度の大きさの、赤紫色の実だ。
 反射的に受け取った俺は、とりあえず匂いを嗅いでみた。甘い、それでいてすがすがしい香りがする。果物の一種だろうか? 俺が暮らしていた辺りでは見た事がないものだが。
 ル・スラは俺の隣に腰を下ろし、手元に残っている実にかじりついた。しゃきしゃきと、いい音がしている。甘い香りが、いっそう際立つ。好物なのだろうか。彼女は満面の笑顔を浮かべながら食べていた。
 半分ほど食べてから、ル・スラは俺の手の中にある実をじっと見下ろした。俺にくれておいて、やっぱりもうひとつ食べたくなったのだろうか? 戸惑いながら俺が実をル・スラに差し出すと、彼女は首を振った。そして、まるで俺に見本を見せるかのように、ゆっくりと実をかじった。
 食べ方が判らないから食べないと思われているらしい。心外だ。さほど腹が減ってない状態だから、得体のしれないものを食うのに抵抗があるだけだ。
 俺は小さくため息を吐いてから、実にかじりついた。ル・スラが平気そうにしているのだ。俺が食っても平気だろう。
 香りから期待した通りの爽やかな甘みが、口の中に広がった。美味い。柔らかすぎない歯ごたえも、俺ごのみだ。
「美味いな」
 素直な感想を口にすると、ル・スラは俺を見上げて、にっこりと笑った。
 美味いだけじゃない。こころなしか、疲れが癒えていくような気がする。それに、傷の痛みも柔らかくなっていっている気がする。
 しゃくりと音を立てながら、二口目をかじった俺は、実を持っている右手をぼんやりと見下ろした。特に意味があってそうしたわけじゃない。視線を高くに保つのは疲れるので、俯いていただけだ。
 そのおかげで、とんでもない異常に気付く事ができた。
 数え切れないほど刻まれていた小さな擦り傷や切り傷が、ほとんど消えてしまっている。感じる傷の痛みが和らいでいるのは、気のせいではなかったのだ。
 俺は自分の全身をくまなく見回した。やや深く傷付いていた部分も、ほとんどふさがりかけている。一番深かった肩や腰の傷はまだはっきり残っていたが、それでも、さっきよりはずっとましだ。
「どうして……?」
 俺は理由を求めてル・スラを見下ろしたが、彼女は相変わらず満面の笑みを浮かべたまま、最後のひとくちとなった果実を口の中に放り込んだ。
 もしかすると、それが答えなのかもしれなかった。苛立ちかけた自分を抑え、俺は三度実にかじりつく。ちょうどいい歯ごたえと甘すぎないすっきりとした後味はやはり美味く、そして俺は、傷が瞬時に癒えていく様子を目の当たりにしたのだった。
 食えば傷が治る果実。それは今の俺にとってありがたいものだが、存在自体がありえなくて気持ち悪かった。こんな便利な食い物、見た事も聞いた事もない。
 だが、その気持ち悪さこそが、希望なのかもしれない。かじりかけの果実を見下ろしながら、俺はそう考えはじめていた。
 こんなにもありえないものが、平然と存在する場所。多分――いや、きっとそうだ。
 ここは、創造主の島。
 俺が海を越えて目指してきた場所だ。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.