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 金曜日は午前中しか授業を取っていないから、バイトをめいっぱい入れてある。
 昼から夕方五時までがコンビニで、そこから移動して少し休んで、六時からは居酒屋に。酔っぱらいの相手は正直面倒――特に金曜日は明日が休みだからとたがをはずしぎみの人が多いから――な事も多いけど、コンビニよりもずっと時給がいいんだから、それはしょうがないと思ってる。嫌じゃないわけじゃないけど、我慢できると言うか。
 けど、今日は最悪だった。
 ありもしないむちゃくちゃな注文した上に断ったら逆ギレしてきた女性も、女の子なら誰でもいいって勢いで絡んできたおじさんも、膝の上に吐いてきたチャラ男でさえも、こいつと比べればぜんぜん嫌じゃない、いいお客さんだった。
「驚いた? 野ばらがバイトで新歓コンパ出れないって言ってたからさー、せめて顔見せだけでもできるようにって、この店でやる事にしたの」
 私は同じサークルの友人である桜の気遣いに、「ありがとう」って言うべきだったんだろうか。もしそうだとしても、とても言う気にはならなかった。
 だって、桜のうしろに立つ、背の高い男は。
「この子ね、雨宮大地くん。スゴいんだよー。植物の事とか詳しいの」
 桜はうしろに立つ男の名前を教えてくれた。
 けど、そんなもの必要なかった。
 私はその男の、顔も、名前も、知っていたから。記憶にある姿とは、ずいぶん変わってしまっているけれど、おもかげははっきりと残っている。
「久しぶり、野ばら」
 雨宮大地は能天気な――一般的にはさわやかとか言うのかもしれない――笑顔で、ひらひら手を振る。
「ん? 野ばらと知り合いなの?」
「イトコなんです。子供の頃は、よく遊んでもらって」
「へー! そうなんだ。すごいねー!」
 何がすごいのか。
 と言うか、人の昔の話を勝手にしゃべるな。
 顔も見たくない相手だったから、ささやかな事でもいちいちイライラする。同じ大学の同じサークルの子たちが楽しくお酒を飲んでいる時に、どうして私はこんな不快な想いをしなければいけないのか(しかも働きながら)と、やつあたりしたい気分だった。
「アンタ、なんでこんなところに居るの」
「何でって、野ばらと同じ――」
「親しげに呼ばないでくれる?」
「――園芸サークルに入って、先輩たちに歓迎されている、から?」
「私は歓迎しないし」
 本来なら笑顔でお客さんに手渡しするはずのおしぼりを、大地の顔面に投げつける。そして、
「未成年に出すお酒はありません。とっととお帰りください」
 きっぱり言い切ると、仲間たちがにぎやかに楽しんでいる席をあとにする。
「未成年とか」「去年までの自分はどうした」なんて、笑っている声が聞こえたけど、とにかく離れたかったから、聞こえないふりをした。

 ああ、最悪だ。
 本当に最悪だ。
 さっさと気分を変えたくて、家に帰ったらすぐに台所に向かって、お湯を沸かした。
 入れたのは、アーティチョークのハーブティー。爽やかな香りと優しい色合いが、すっと気分を変えてくれる。ほろ苦い味わいが舌の上を通りすぎた頃には、いくらか気持ちが治まっていた。
 そうなると、急に夜の静けさが気になってくる。さっきまでうるさい店に居たせいかもしれない。
 なんて、ひとりでお店での事を思い出すと、またアイツの事でいらいらしてしまいそうだ。
 こう言う時は、おばあちゃんに話を聞いてもらうに限る。と、思いついて、私はハーブテイーを入れたカップを片手に移動した。
 おばあちゃんはすごい人だ。結婚して子供を産んでも、ずっと働き続けてた。今はそんなに珍しくない事かもしれないけど、おばあちゃんの時代ではけっこう大変な事だったと思う。
 五十そこそこで旦那を亡くしてからも、誰の援助を受けるでもなく、自分の生活とこの家を守り続けて、それどころか私の事も育ててくれて――そんな立派なおばあちゃんなら、私のしょうもない苛立ちと、簡単にほぐしてくれるような気がした。
「ただいま、おばあちゃん」
 広い家の一番北のはじにある部屋にたどりついて、足を踏み入れると同時に、私はおばあちゃんに声をかける。
 写真の中だけにしかない、静かな笑顔に。
「今日ね、バイト先に大地が来たんだよ」
 口にするのも嫌な名前。だけど、おばあちゃんの前でなら、素直に呼べた。私はアイツの事嫌いだけど、おばあちゃんにとっては、同じ孫だし。
「チビで泣き虫だったのに、いつの間にか伸びてたよ。まー、そうだよね。最後に会ってから八年だし、男の子なんだし、伸びるよね。でも生意気。大地のくせに私を見下ろすなんてさ」
 ひと息でしゃべって、息をついてから、だいぶ冷めたハーブティーをぐいっと飲み干した。
 何でだろう。さっきよりもずっと苦い気がする。
「しかも、平気で笑いかけてくるの。昔みたいになれなれしく呼んできたりして」
 のんきそうな、幸せそうな笑顔だった。
 私はたぶん、あんな風には笑えない。何の問題もない普通の家に生まれて、普通に両親に愛される。そんな、普通と言う恵まれた生き方をしてきた人にしか、できない笑顔。
 記憶にも残らない頃に亡くなった父と、再婚するために私を弟夫婦に押しつけて逃げた母は、私に充分な愛情を与えてはくれなかったから――だから私は、あんな風に笑えない。
 だからって、笑顔そのものに腹が立つわけじゃない。そんなの、周りのだいたいの子がそうだから。なのにアイツにだけこんなに腹が立つのは、アイツの家族が、私をより普通から遠ざけたから、だと思う。
 雨宮のおじさんも、おばさんも、両親ではなかった。でも、両親のように思ってた。大地だって、弟だと思ってた。本当の家族じゃなくても、家族みたいになれるって。あの頃の私は、普通の女の子みたいに笑えていたと思う。
 でも家族と思っていたのは私だけだった。あの人たち、本当の家族にとって、私は邪魔者だった。
 その証拠に、私は今、ひとりでここに居る。
「私、はやく、おばあちゃんみたいになるね」
 安定した仕事について、自分の生活を自分で守れる人になりたい。周りの、大人たちの都合で振り回されるなんて、もう嫌だ。
 ひとりで生きていける人に、なりたい。

 ATMから吐き出された預金通帳を見ると、残高が、振り込まれているはずのバイト料より多くなっていて、少し驚いた。
 ああ、でも、そうだ。今月も、もうそんな時期か。
 毎月二十六日。たぶん、雨宮の叔父さんの給料日の翌日に、一定の額が振り込まれている。去年おばあちゃんが亡くなってから、ずっとこうだ。
 別にいらないのに。
 何のために私が、今の大学を選んだのか。特待生になれば学費が免除されるからだ。ろくにサークル活動も遊びもせず、勉強とバイトにあけくれているのは、学費を浮かせるためと、生活費を稼ぐためだ。
「誰が、貴方たちなんかの」
 力など、借りるものか。
 まだ学生の身で、本当の意味では自立できていないんだって事は判ってるけど、これは、いつか理想の大人になるための第一歩。
 でも、このお金、どうやって返そう。会いたいとは思えない相手だから、現金を持って直接訪ねるのも嫌だし、向こうの口座番号なんて知るわけもないし――電話をかけるか、大地を捕まえて聞けばいいのかもしれないけど、言葉を交わすだけでも何となく嫌だ。
 どうせ大学を卒業するまでの、あと二年弱の事だから、最後にまとめて返せばいいかな……。
「野ばら、こんなとこでどうしたん?」
 預金通帳を睨みながら考え込んでいた私は、桜が近付いてきている事に気付いてなくて、突然肩を叩かれてびっくりする。慌てて通帳をしまってから、桜に振り返った。
「別に、特には」
「ふうん。そう言えばさ、野ばら、最近あんまり温室来てないよね?」
「あ、うん。ちょっとバイトが忙しくて」
「だと思ってたけどさ。今度時間作って、ちょっと顔出しなよ。すごい事になってっから」
「何が?」
「それは見てのお楽しみ」
 桜の意味ありげな笑みが気になるのが半分、嫌な予感が半分。
 すぐにでも温室に向かいたかったけれど、あいにく今日もバイトが入ってる。寄り道している暇なんかなかった。

 桜の意味ありげな口ぶりが気になって、バイト中でもそればっかり考えていて、これじゃ家に帰っても勉強が手に着かないかもしれないと思った。
 だから家に帰ってすぐ、パソコンの電源を入れた。ブックマークの中にサークルのサイトがあるのを思い出したから。
 最後に見たのは去年の学祭の後だったかな。ほとんど更新されないから、滅多に見に行かないのだけど、もしかしたら更新されていて、何か判るかなって思って。
 予想通り、サイトは更新されていた。見た事のない写真がたくさんあった。みずみずしく鮮やかな緑が、こぼれるほどに咲き乱れる花が、土にまみれながら楽しそうにしている仲間たちの姿が。
 園芸サークルに所属してから二年間、見た事のないものばかり。
 私が知ってるみんなは、気が向いた時、好きな場所に好きなように種やらなんやらを植えたり、そうして適当に育てた植物を眺めるなんて名目で、温室でだらだらお茶を飲んでいたり、って感じだった。
 でも新しい写真の中のみんなは、すごく生き生きしていて――少し、もやもやした。もやもやと言うか、いらいらと言うか。
 それは、ほとんどの写真のどこかに、見たくもないやつの笑顔が写っているせいかもしれなかった。

 まったくバイトを入れていない日に、久々に温室に行ってみる。
 中に入りはしない。近付くのも何となく嫌で、遠巻きに、ガラス越しの風景をぼんやりと見ていた。
 ガラスの向こうはもう、私が通っていた頃の温室とは違っていて、近付けるわけがなかった。壁を感じる、と言うのはこの事だ。ガラス一枚ではすまない、近付けない何かが、確実にそこにあった。
 帰ろう、と思った。誰も居ない、静かな家に。
 もうあそこは、私が行っていいところじゃない。
「また、居場所、なくなっちゃったな」
 温室に背を向けて歩きだして、呟いて、ため息を吐く。
 頬を撫でる春の風は、温かいもののはずなのに、身を切るほど冷たいものに感じた。


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Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.