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終章


「何、話してたのかなー?」
 ふたりきりの話を終え、部下たちの元へと走るルシアンの背中を見送った頃、そっとエイラに近付いてきたのは、予想通りヨシュアだった。
 話を聞かれないように距離を置いてみたけれど、話した事までは隠せない。この男は確実に興味を抱くだろう、そしてその興味を隠さずぶつけてくるだろう、と、はじめから予測できていた。
 だから、どうやって返すかも、決めていた。
「君には関係のない話だよ」
 ルシアンの想いとエイラの想いとが、重ならなかった。それだけの話。
 だから嘘ではない。嘘ではないのだが、何かを隠しているような罪悪感が、エイラの胸の内に生まれたのだった。
「へぇ」
 心を読まれてしまったのだろうか。はじめから判っていたのだろうか。その時ヨシュアが見せた微笑みは、ひどく曖昧なものだったけれど、安堵が混じっているように見えた。
 別にヨシュアを安心させたいわけではないけれど――おかげで自分自身の心が妙に落ち着いた気がした。だから、いつもならば苛立っていただろう状況でも、叩かないで許してやった。
「そっちは大変だったんだろう」
「ん? まぁね」
「痛かったかい?」
 ごまかすように話題を変えたエイラは、そっと手を伸ばし、ヨシュアの右腕に触れる。刃によって引き裂かれた袖から見える、傷ひとつない肌に。
「そりゃ、血が出たくらいだし、少しはね。でも大丈夫だよ。メイヴェルちゃんが治してくれたから」
「そうか」
「って、どう言う風の吹き回し? エイラが俺の事心配してくれるって、そうそうありえないんだけど」
「慰めて欲しいって言ったのは君だろう。慰めてやる気はないけど、少しくらい心配してやってもいいかと思ったんだ」
「心配して損したよ」とため息混じりに呟いたエイラは、少しだけ視線を上げる。
 そうして目に映ったのは、ヨシュアの右肩。
 エイラは腕に触れていた指を少しだけ上に滑らせ、そこに触れてみた。
 エイラがとった行動の意味に、ヨシュアは気付いていないようだった。気付かれないようにしようと、エイラ自身も考えていた。けれど、いざそうしてしまうと、もう耐えられない。
 強く肩を掴んだ。それでも、やはり抑えるのは無理だった。エイラは自身の手の上に額を置き、ヨシュアにもたれる格好になる。
「泣きたい気分にでもなった?」
 何も言っていないのに、気付かれた。悔しかったので、返事はしない。
「あんな条件のいい男ふっちゃうからだよ」
「馬鹿な事を言うな」
 即座に、力強く否定した。
 泣きたくなっていた事は本当だから、否定したのは理由だけ。そんな事、けして教えてやらないけれど。
 エイラは唇を噛む。痛みで、こみ上がってくるものを堪えるために。けれど唇だけでは足りなくて、拳を握り、自身の爪を手のひらに食い込ませる。そうしてようやく、気持ちが少し落ち着いた。ゆっくりと語りはじめる事ができた。
「あの村でさ」
「ん?」
 話を促すヨシュアの相づちは、腹が立つほど優しかった。
「君、言っただろう。私が、あの、家のそばにある大木に、コーラルのための花を手向けるのをやめてしまったって」
「うん。言ったね」
「君の言う通りだよ。私はそれをやめてしまった。でもやめたのは、コーラルを忘れたからではないんだ」
 手が震えそうになる。ヨシュアの肩を掴む手が。これではヨシュアに気付かれてしまうと、エイラはゆっくり深呼吸をした。自然と高ぶる気持ちを抑えるために。
 抑えられるはずなんて、ないと判っていても。
「ごめん、ヨシュア」
 謝罪の言葉を口にすると、ヨシュアが小さく声を上げて笑った。
「どうしたんだよ突然。珍しいにもほどがある」
 もしかしたら、エイラの尋常ではない決意に、彼は気付いていたのかもしれない。気付いていて、冗談でごまかそうとしているのかもしれない。
 だとしても、許さない。けして逃がしはしない。
 決めたのだ、エイラは。ルシアンの想いを無碍にした時に。真っ直ぐに伝えてくれた人の想いを殺しておきながら、自分の想いを閉じこめるなんて、失礼な事だと思ったのだ。
「ヨシュア、私は、本当は、気付いているんだ。気付いてしまったから、やめたんだよ。あの木を、コーラルの墓標代わりに使う事を」
「エイラ? どうした……」
「コーラルは、本当の意味で死んだわけではないんだろう?」
 ヨシュアが息を飲んだ。
 おそらく本人は音を殺したつもりなのだろう。それでも伝わってしまうほどの距離に、今のふたりは居るのだ――居るように、エイラのほうから仕向けたのだ。
 ヨシュアは何も言わなかった。けれど、わずかに強ばった体が、隠しきれない動揺を伝えてくる。何も答えてくれない事こそが、肯定を意味しているのだと。
 そうか。
 やはり、そうなのか。
 気付いた時は、いや今でも、違うと信じたい心があった。コーラルにとってエイラは何でもなかったのだと、認める事になる気がして。
 だから、ヨシュアが否定すると言うのなら、それを信じたふりをして、本当に忘れてしまってもいいかと思っていた。
 でも、もう、無理だ。
 無理なのだ。
「君だけが、コーラルの特別だったんだろうね」
 呟きながらエイラは、己の手から額を離した、再びヨシュアを見上げようとする。
 けれど、できなかった。ヨシュアが今どんな表情をしているのか、確かめる事が恐ろしすぎて。
「ごめん、エイラ」
 肩に置いたままにしていたエイラの手に、ヨシュアの手が重なる。優しく、心を労るように、包み込むように。
「俺がエイラを、コーラルに縛りつけていたんだね。七年もの、長い間」
「そうだ」と言ってやったら、ヨシュアは傷つくだろうか。それとも喜ぶのだろうか。
 確かめてみる勇気は、どうしても湧いてこなかった。
「でも、忘れてしまっていいんだよ」
 ヨシュアは自らの肩からエイラの手を引きはがす。言葉とはうらはらの、少し乱暴な仕草で。
「馬鹿な事を言うな」と、いつものように叱りつけてやりたかった。けれど、できない――ヨシュアの声の響きが、あまりにも寂しいものであったから、だろうか。
「そうだね、忘れる事にするよ」
 だから言ってやった。叱る代わりに。もっと辛いだろうけれど、本音をぶつけてやった。
「もし君が、コーラルの事を忘れられたら、ね」
 でも、そんな日は来ないだろう。一生、来るはずがないのだ。
 ヨシュアの視界に入らないよう俯いたまま、エイラは小さく笑う。
 どうして笑えたのだろう。ありえない仮定を語る自身が滑稽だったからなのか、あるいは双眸からこぼれ落ちてきそうなものを堪えるためだったのか――理由は、エイラ自身にも判らなかった。


 ため込んでいたもの、吐き出したいと願ったものを、全てヨシュアにぶつけて気が済んだのだろうか。ふいにエイラはヨシュアのそばから離れる。座り込んだままのアーロに明るく声をかけ、「そろそろ移動しましょう」と、眠っている師の体をゆすぶる。
 そんなエイラの様子を、細めた目で見つめながらヨシュアは、そっと己の右肩に手を置いた。まだ、わずかにだが、エイラの温もりが残る場所に。
「そんなわけが、ないだろ」
 呟きながら、右肩に触れる左手に力を込める。爪を立て、皮膚を食い破らん勢いで。そうして、消してしまいたかった。エイラが残した爪痕を、上書きしてしまいたかった。
「コーラルが大切にしていたのは、特別なのは、君だけだ」
 目を伏せると、エイラの姿が闇に消える。
 代わりに浮かび上がるのは、少年の姿だ。緩く波打つ栗色の髪が静かに揺れ、虚ろな群青の双眸に射抜かれる。息もできないほどの痛みが、胸の奥を揺さぶる。
「いつだって、君だけだったよ、エイラ」
 けれどその声は、エイラには届かなかった。
 けして、届けやしなかった。


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