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五章 守り人の地


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 少女と同僚の足音が階段の下へ飲み込まれていくと、場を包む空気が完全なる静寂と化した。遠くからは兵士や聖騎士たちが魔物と戦う喧騒が聞こえてくるが、人形のようでありながら強い存在感を持つシェリアの前に、多少の音など無いも同然だ。
 ハリスは片膝を立てた。僅かに動く度に体が軋み、全身の筋肉が悲鳴を上げるが、倒れ込むわけにはいかない。膝と床に着いた手を支えにし、普段の何倍も重く感じる自身の体を持ち上げた。膝から手を放し、背筋を伸ばして立ち上がれるようになるまでに必要な時間は、驚くほど長かった。
「ハリス」
 少女の声が、冷たく名を呼ぶ。声はか細いものだが、けして拒否できない力を秘めており、ハリスは一歩踏み出す事ができなくなった。
「座りなさい」
 少女の命に従う事は簡単だった。気力によって奮い立てた力を少し抜けば、簡単に床に崩れ落ちる事ができる。
 しかしハリスはそうはせず、力強く立ち上がったまま返した。
「どうか、戦いに赴く事をお許しください。エイドルードが愛した人をひとりでも多く守るために、この命を使う事をお許しください」
「聞こえなかったのならばもう一度言います。座りなさい、ハリス」
 ハリスの言葉が届かなかったのか。それとも、逆らう事はありえないと言う信頼からか。何事もなかったように同じ命を繰り返すシェリアに逆らえず、ハリスは再び跪き、弱りきった体で力を込めた拳を床に着き、シェリアに向けて頭を下げた。
 自分が何をしてしまったのか、ハリスははっきりと覚えている。闇に意志を飲み込まれ、禍々しい力に身体を利用されていたが、完全に意識が無かったわけでも、記憶を失くしたわけでもなかったのだ。
 剣を神の御子や仲間に向け、傷付けた。ジオールなどは、御子の偉大なる力が無ければ、助からなかった可能性もある。シェリアの呼びかけによって、ハリスの意志が闇の力に勝る時も僅かにあったが、基本的には完全に抑えこまれ、恐ろしい事をしてしまった。
 許されない、許されてはならない事をした。その自覚はある。今すぐにでも罰せられるのは当然だ。
 だが、どうせ、散らす命だと言うならば、せめてひとりでも多くを助けて散りたかった。戦いの中で名誉ある死を望もうと思っての事ではない。エイドルードの名の元にある戦いならば、ひとりでも多くの命を救う事が、エイドルードの栄光をより輝かしいものにするのだと信じていたからだ。
「わたくしは、知らない事が多すぎるようです。リタや、カイ様と共にあると、その事実が良く判ります」
 細めた目で真下を見下ろすハリスの視界に入るものは少ないが、シェリアが彼女自身の膝の上に重ねていた手は目に映った。
 細く白い手は、行き場を探すように持ち上がり、ゆっくりとハリスに向けて伸ばされる。
「わたくしが神殿の中で生きた十五年間、誰も教えてくれなかった事です。必要ないと思ったからこそ、誰もわたくしに教えなかったのでしょう。それで良かったのだと思います。わたくし自身、今でも、必要なものだとは思えませんから」
 ハリスが身に着ける鎧の肩あてに触れる直前に、シェリアの手が止まった。
「わたくしは正しいと、誰もが言います。けれど、リタもカイ様も、そう言いながら、わたくしを蔑みます。わたくしには、リタやカイ様の考え方も、語る言葉の意味も、理解できない事ばかり。気にする必要はないのです。間違っているのはリタやカイ様の方。けれど、わたくしは、気付いてしまったのです。わたくしにも間違っている部分があるのだと」
 小さな唇が神聖語を紡ぎはじめる。天上の神に祈り、光を呼ぶ言葉。白いてのひらの先に、偉大なる癒しの力が生まれ、溢れだし、ハリスの全身に広がった。
 軋むような痛みが消えていく。ハリスは驚愕のあまり言葉を忘れ、口を中途半端に開いたまま顔を上げ、シェリアを見つめた。
 変わらない眼差し。変わらない表情。だが、確かに違っている。三年前からシェリアの傍にいるハリスにとっては、「ありえない」と断言できるほどに。
「お止めくださいシェリア様。私は、只の人です。神の偉大なる恩恵を、特別にいただける者ではないのです。いいえ、それどころか、私は罪に堕ちました。只の人ですらないのです。どうか――」
 静止を願い出たところで、もう遅かった。十五年以上も神殿におり、相応の教育を受けてきたシェリアは、力の使い方も的確だ。リタがジオールの傷を癒すよりも遥かに早く、ハリスの傷を癒していた。
 白い指が遠ざかり、再び膝の上に重ねられる。
 揺るぎない美しさと揺るぎない純白の中、鮮やかな赤の汚れを僅かに見つけ、ハリスは歯を食いしばって、心に走る苦痛に耐えた。それはハリスがリタに切りかかり、シェリアに刃を向けた、確かな証であったから。
 偉大なる力によって癒される前の体を支配していたものよりも重い痛みに軋む胸に、ハリスは無意識に片手を置いていた。
「わたくしは三年前、はじめて貴方と対面したその日に、二度とわたくしに触れないよう、命を下しました。正しい事だと疑っていませんでした。それは、わたくしの、正しくない考えから生まれた命令であったと言うのに」
「いいえ。いいえ、シェリア様」
 伝えたい想いをどう言葉にして良いか判らず、ハリスは強く首を振った。
「否定する必要はありません。事実なのです。わたくしは過ちを正さなければなりません。真に正しい道を選び直し、進まなければなりません。ですから、過ちから生まれたものを正さなければならなかったのです。それは、闇に飲まれた貴方です、ハリス」
 空色の瞳が、苦痛に歪む視界の中で輝いた。
「ハリス。貴方の役目は」
「シェリア様をお守りする事、エイドルードの意志に従う事です」
「その通りです。わたくしを守りなさい。二度と同じ過ちを犯さぬようにしなさい。わたくしに剣を向けながら死ぬ事を許しません。死ぬならば、わたくしを守って死になさい」
 ハリスはいっそう頭を低くし、目を伏せた。生まれた小さな暗闇の中で、しかしシェリアの言葉は光となって、ハリスの目の前を照らし続けた。
「勿体ないお言葉です」
「わたくしの言葉を、理解しましたか」
「はい」
「ならば良いのです。貴方は、貴方の役目を果たしなさい。わたくしに害成すものは、他の者が始末するでしょう。ならば、貴方が成す事はひとつです」
「はい」
 ハリスは肯き、立ち上がった。ふたりきりの世界の中心に、遠くから届く喧騒が、突き破るように響き渡った。
 見渡すと、暗闇の中にいくつもの篝火が見える。赤い光に照らされた、戦う者たちの背中を見つけ、ハリスは拳を握り締めた。
「偉大なるエイドルードの名を汚さぬよう、偉大なるエイドルードが愛したものを、守ります」
 シェリアは言葉でも態度でも応えず、静かに立ち上がった。だが、ハリスは判っている。疑問を投げかけるでも助言をするでもないならば、納得し、認めてくれているのだと。
「念のため、シェリア様は城内に避難を」
「判っています」
「では、行ってまいります」
 ハリスは背を向けるシェリアに対して一礼し、毅然とした態度で歩き出した。
 途中、拾い上げた自身の剣は同僚の血に塗れていたが、血を拭うと同時に心の痛みも押し隠し、迷いの無い目を先に向けた。


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