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四章 追想




 扉を叩いてもすぐに返事はない。ルスターは首を傾げながら扉の前に立ち尽くして時を待ったが、部屋の中からは物音ひとつ聞こえなかった。
 カイが大神殿の門を潜ったと言う報告は受けておらず、リタと共に建物の中に入った後出て行った所を見た者も居ない。先ほどリタの部屋を訪ねたジオールもカイを見ていないと言っていたから、カイは部屋に戻っているのだろうと、ルスターは予想していた。しかし、結果はこれだ。
 再び扉を叩き、やはり返事がない事を確かめると、ルスターは意を決して扉を開けた。礼儀を欠いた行為だと判ってはいたが、主の所在を常に知っておく事も、ルスターの任務のひとつなのだ。
「失礼いたします」
 陽が傾きはじめたせいか、薄暗くなりはじめた部屋は静かで、緩やかな風に揺らされるものたちを除けば動くものはなかった。やはりここには居ないのだと納得しかけたルスターは、部屋を出る前に視線を一巡させる中で、捜し求めていたものを見つけた。
 人間ひとり横になっても充分に余裕がある大きさのソファの上で、カイは目を伏せていた。ほぼ音の無い呼吸はルスターのものよりも緩やかで、彼が眠りに落ちている事を伝えてくる。
 陽が沈んでいない時分であるため、ルスターは一瞬驚き呆けたが、すぐに理解した。トラベッタからセルナーンまでの旅で蓄積した肉体的疲労と、運命に翻弄される事で蓄積した精神的疲労。合わされば倒れ込む事すら難しくないもののはずだ。
 できるかぎり足音を立てないよう寝台に歩みより、毛布を手に取ったルスターは、未だ侵入者に気付かず眠り続けるカイに近付いた。開け放たれた窓から入り込む空気はやがて冷たくなり、このまま眠っていては体調を崩す可能性がある。かと言って彼の苦労を思えば起こす気になどなれず、毛布をかけてやる事がルスターにしてやれる精一杯だった。
 ルスターが異変に気付いたのは、毛布を少年の肩まで引き上げた瞬間だった。
 先ほどまでは穏やかだった寝息が、苦しそうに乱れている。見ている方まで息苦しくなる様相に、彼が何らかの悪夢に苛まれているならば現実に引き戻すべきかと、ルスターはカイの肩に触れた。
 意識の覚醒を促すために軽く揺さぶると同時に、突然伸びた少年の右手が、ルスターの腕を掴んだ。それは加減を知らない子供のように力強く、服越しでなければ少年の爪がルスターの肉に食い込んでいただろう。
「ジー……」
 夢と現実を彷徨っていた瞳がはっきりとルスターを捉えると、腕を掴む力が急速に弱まった。力無く開かれた唇は引き締められ、紡ぎかけた声を遮ったが、少年が何を言おうとしたか、誰の名を呼ぼうとしたか、判らないほどにルスターは愚鈍ではない。
 全身全霊の力を込めて、引き止めたい存在だったのだ。少年にとって、かの人は。
「お目覚めですか」
 ルスターが微笑みかけると、カイは慌てて上体を起こそうとした。それを制するため、ルスターはカイの両目を覆うように、そっと手を乗せる。
「随分お疲れのようですから、どうぞこのままお休みください。それとも、寝台に移動されますか?」
「いや、別に、疲れているわけでも、眠いわけでもないんです。色々考えていたら、考えるのが面倒くさくなって、つい」
「逃げたって後々自分が追い込まれるだけなんですけどね」と、カイは口元に笑みを浮かべながら言った。
 すでに充分以上に追い込まれている少年が無意識の中で求めた人物は、ルスターにとっても思い出深い存在であったが、失われた事実を知ったその時でさえ、今ほど悲しいとは思わなかった。
 なぜ、今、かの人は、この少年のそばに居ないのだろう。今の少年にとって一番必要な存在であるはずの男が、多くの悩みを抱える少年を支える事無く、むしろ悩みのひとつとして存在するのは、どうしてなのだろう。
「ルスターさん。少し、甘えてもいいですか」
「もちろんです」
 カイの瞳に映らないと判っていながら、ルスターは力強く肯いた。
「忙しいのに、すみません」
「大丈夫ですよ」
「不愉快な想いをさせると思います。すみません」
 ルスターが手をどかすと、カイは自身の腕を引き上げ、目元を覆い隠した。
 もの言いたげな唇は細かに震え、幾度も言葉を選び直しているように見える。それがルスターに対する気遣いであると言うならば、どこが甘えているのだと、叱りつけてやりたい気分だった。
「漠然と理解はしてるんです。ジークが俺のためにしてくれた事のほとんどが罪なんだって。それによって傷付いた人が沢山居て、ルスターさんもその内のひとりなんだって。だけど、今はただ、ジークを知っている人と、ジークの話をしたくて」
 神の娘の力を持ってしても、失われた人を蘇らせる事はできない。それでも、どうしても蘇らせたいのならば、思い出を蘇らせるしかないのだ。
 思い出を共有する者が集まって語り合えば、今まで知らずに居た故人を知れば、より強く蘇るかもしれない――少年はそれを期待している。おそらくは、ルスター自身も。
「そうだ。ルスターさんは、知っていますかね。ジークの頬に残っていた、古い傷の事」
 カイはゆっくりと手を動かし、自身の頬に触れた。
 労わるように頬を撫でる様子に、記憶の奥に沈んだ何かが揺さぶられた気がしたルスターは、無言でカイの次の言葉を待った。
「ジークはあまり鏡を見ませんでした。まあ、見る必要が無かったと言うのもあったんでしょうけど、見る事を恐れているように、俺には思えたんです。何かの拍子に頬の古傷に触れると、深く思い悩む事があったから……だから、その傷に何か、苦い思い出があって、見たくなかったんだろうなって、勝手に思ってました」
「頬の……傷」
 ルスターは己の中で反芻するために呟き、カイに倣うようにして己の頬を指先で撫でた。
「それなのに俺は、ジークは誰よりも強くて、誰よりも頼もしくて、俺みたいに悩まない人なんだって信じてました。黙って、真っ直ぐに俺の前に立って、正しい道を示してくれるんじゃないかって、いつも思ってた。けど――ジークだって悩む事はあったし、ジークだって辛いと思う事はあったんですよね、きっと。そんな風に考えた事のなかった自分が間抜けだなって、今になって思います」
 目元を覆っていたカイの腕が、ゆっくりと滑り落ちる。
 天井を見上げるカイの眼差しは、迷いながらも不思議と真っ直ぐで、ルスターは少年の視線の先を追った。
 特別なものは何もない、無機質な天井。だがカイは、そこに父と慕った男の面影を探しているのかもしれない。
「ジークだって、自分ではどうしようもない感情や、忘れられない思い出と、戦う事があったんですよね。それが何だったのか、俺は知りたい」
 カイは再び頬に触れ、ありもしない傷をなぞった。
 少年の語る傷の存在をルスターは知らなかった。第十八小隊長エア・リーンの頬には、そのようなものは無かったからだ。
 しかし、その傷が、いつ、どのような者の手によって付けられたものか、想像するは容易かった。カイがその傷に関する問いをルスターに投げかける以上、カイが物心付く以前からあったものである事は間違いなく、ルスターが知らないという事は、エア・リーンが大神殿を出た後に刻まれたものであるのだから、期間はずいぶん限られる。
 そして、忘れられない思い出と共に残り続けているのと言うならば、ルスターの中に心当たりはひとつしかなかった。よく蘇らせる事ができたと、自分の記憶力を称えてやりたいほどの古い記憶。涙しながら聞いた、低い声――
「ジーク殿の傷は、トラベッタへの逃亡中、追っ手との戦いの折に付いたものだと思います」
 穏やかだが揺るぎない力を込めた声で紡ぐと、カイは身を強張らせた。「ジークがカイのために犯した罪」に関わる件だと言う事を、瞬時に理解したのだろう。
 カイは迷いを見せたが、すぐに振り切ると、上体を起こした。
「聞かせてください。ジークの罪の重さは、母や俺に注がれた愛情の重さだって事くらい、判ってます。だからこそ、余計に知りたい」
 ルスターは静かに肯いて口を開いた。
「ご安心ください、と言って良いかは判りませんが……ジーク殿は、悪人ぶる所がありながらも、悪人になりきれない方でした。それ故に、余計に傷付いた者もおりますが――あれほどの腕を持つ方が剣を振るったと言うのに、追っ手であった聖騎士団の者は、誰ひとりとして命を落とす事は無かったのです」
 命を奪わなければ何をしても良いわけでは無い。彼はやはり罪深い人だったと、ルスターは思う。
 だが、彼に傷を負わされた者たちはみな、何らかの形でやり直す事ができ、その事実はルスターと、そしておそらくはカイの心に、ある種の安堵をもたらした。
「どれほどの数の聖騎士がジーク殿に斬られたか、もう思い出せませんが、最も深手を負って帰ってきた者の事は覚えています。私のよく知る先輩でしたから。肩を貫かれ多量の出血に倒れた彼は、生死の境をさ迷い、目覚めた後も長い療養の期間を必要としました。傷が癒え、起き上がれるようになってからも、利き腕は自由に動かなかった」
 剣を手にする者にとって、生命を断ち切られる事と何ら代わりない。カイもそれを理解したのか、苦しそうに喉を鳴らして息を飲んだ。
 ルスターは目を細める。まるで昨日の事のように生々しく蘇る十五年前の日々を、受け止めるために。
 真っ先に思い出したものは、体中に包帯を巻いて寝台に横たわる青年の姿だ。見舞いに訪ねると眠っている事が多く、微動だにしないその寝姿にどきりとして、慌てて駆け寄った。僅かな胸の上下を確認し、微かな寝息が耳に届くと、胸を撫で下ろしたものだ。
 そして最も印象的な記憶は、長い月日の後、愛剣を手にした青年の、震える腕を見下ろす深い瞳に宿る絶望と渇き。
 彼の手にはろくに握力が残っておらず、ルスターが軽く剣を弾くだけで、あっさり剣を取り落とした。何度も、何度も――カイの捜索隊に参加する前の彼に、ルスターは一度として勝った事は無かったと言うのに、あの時はいくらでも勝利する事ができた。
 苦く、喜びなどどこにもない勝利。当然酔う事などできなかったルスターは、青年が自由に動かない腕を叩き付け、ルスターの目から逃れるように顔を反らした時、静かに泣いた。けして涙をこぼす事が無いだろう彼に聞こえないよう、嗚咽を噛み殺して。
 そう、彼は嘆かなかった。そして、足を止める事もしなかった。ルスターの涙が乾くよりも早く立ち上がり、剣を左手に持ち替え、格下のルスターに頭を下げたのだ。剣の鍛錬に付き合ってほしいと。
 何に感謝すれば良かったのだろう。剣を捨てようとしなかった青年になのか、深い傷を負わせながらもなお青年に剣を握らせる存在になのか。判らなかったルスターは、腕を使って乱暴に涙を拭うと、空を仰ぎ、エイドルードに感謝の祈りを捧げたのだ。
「私ならば、聖騎士を辞めていたと思います。けれど、彼は諦めませんでした。右手に剣を持てないならば、左手で――まるで自らを痛めつけるかのように訓練を繰り返し、一年もしないうちに剣の腕を取り戻しました。今では聖騎士団の中でも有数の剣の使い手として、聖騎士を続けております」
「その人は」
 誰なのですか、とカイが問いを口にする前に、ルスターは続けた。
「もし彼が事故で利き腕の自由を失ったならば……いえ、他の誰かの手によってだとしても、そこで諦めていたのではないでしょうか。彼を奮い立たせたものは、裏切った事を恥じ続けた己へ悔恨と、罪悪を抱き続けた心に芽生えた真実の敬愛を裏切り、謝罪ひとつ口にせず剣を振り下ろした、エア・リーンへの憎悪だったのだろうと、私は思います」
 覚えている。寝台に横たわった彼は、不自由な右手をゆっくりと動かして自身の頬を撫で、言ったのだ。「たった一太刀だが、浴びせる事はできた」と。
 どこに切りつけたかを、彼は言わなかった。だがあの時、緩慢な動きで頬に触れた事に、意味がないとは考えにくい。カイが語るエア・リーンの古傷と同じものを示しているのではないだろうか。
「ジーク殿の頬に傷を残した者は、おそらくその先輩です。ですからジーク殿にとってその傷は、自身に向けられた憎悪や罪の象徴となったのではないでしょうか。そしてカイ様と幸福な日々を送りながら、良心を痛めていた」
「ルスターさん?」
 突如名前を呼ばれ、ルスターはうろたえた。
「は、はい、何か?」
「いや……ルスターさんが微笑っているから、不思議だなと思って。今の話に笑うところなんて無かったと思うんですが」
「ええ、そう、そうなのですが」
 ルスターは拳を己の唇に押し当てる形で、口元を覆い隠した。確かにカイの言う通り、口は笑みを模っていた。
 楽しいわけではない。ならば、嬉しいのだ。エア・リーンが、捨て去ったものを忘れず、苦しんでいた事実が。ルスター自身の事は忘れてくれてもよかったが、剣を左手に持ち変えざるを得なかった男の事だけは、覚えていて欲しかったから。
 これでようやく救われるかもしれない。誰よりも一番深い傷を負った人が。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.