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三章 神の娘




 ジークは扉を開けていた。警戒心を全て捨てたわけではなかったが、記憶の奥底に眠る何かが、開けなければならないと語りかけてきたからだ。
 扉の向こうに立っていた人物は、ジークの姿を見ると、元より穏やかな容姿を微笑む事で更に優しく変えて、小さく会釈をする。
 変わっていないな、とジークは思った。最後に顔を合わせてから十七年の時が流れていると言うのに、記憶の中にある青年が持つ雰囲気と、目の前の男が持つ雰囲気は、まったくと言って良いほど同じものだった。若かりし日に前面に出ていた陽気な人懐っこさがやや影を潜め、大人しい印象を受けるが、過ぎ去った年齢を鑑みれば、変化と言えない程度のものだ。
 少なくともこの男に関しては、変わりがない事は喜ぶべき事象だろう。ジークは無意識に笑みを浮かべ、男を受け入れた。
「変わらないな、ハリス」
 名を呼ぶと、男――ハリスはいっそう笑みを優しくして応えた。
「貴方は変わりましたね、エア隊長。何と言いますか……以前よりずいぶん野性的に見えます」
「傷だらけだからか」
「それもあるのでしょうが、以前のように優等生ぶっていないからでしょう。こちらの貴方の方がより素に近いのでしょうね」
「否定はしない」
「ハリス?」
 静かな、けれど凛とした声に名を呼ばれ、ハリスは穏やかな空気を緊張させ、振り返った。しかし変わらぬ柔らかな眼差しを、近くに停められた馬車から降りてきた少女に注ぐ。
 雪のように白い肌と、背の中ほどまで伸ばした金髪の淡さが儚い、可憐で美しい少女だった。長い睫に縁取られた大きな瞳は、一切の感情を宿らせずにハリスを見上げており、ゆえに人形のように見える。
 ハリスは胸に手を置き、深々と優雅に頭を下げた。
 少女は表情ひとつ変えず、ハリスの動向を見守っている。
「いかがなされました、シェリア様」
「貴方は本当におかしな方だと思ったのです。どうしてこの罪深き男を隊長と呼ぶのです? 隊長と呼ばれるべきは、貴方でしょうに」
 ジークはシェリアと呼ばれた娘を見下ろした。顔に残る傷も手伝って、初対面の女子供ならばほぼ確実にジークの眼光に怯えるものなのだが、少女の様子に変わりはない。宝石のような瞳にも、完璧と言えるほどに整った顔にも、感情はまったく映っていなかった。
 どうやら、嫌味を言おうとしたわけでも、ジークを蔑もうとしたわけでもなさそうだ。少女はまったく主観を交えず、ただハリスを「隊長」と、ジークを「罪深き男」と捉えて、率直に浮かんできた疑問を口にしただけなのだろう。
 妙な娘だ、とジークは思った。細い首に手を回せば簡単にくびり殺せるだろうか弱さでありながら、気味が悪く恐ろしさすら感じる。
 どう言う事か問いただそうと、ジークは視線をハリスに向けたが、ハリスはジークに振り返ろうとしなかった。
「申し訳ございません、シェリア様。つい昔の癖が出てしまったようです。私は以前、この方が率いる隊に所属していた事がありましたもので」
「カイ様はどちらにいらっしゃるのです?」
 ハリスの謝罪も、弁明も、すでにシェリアの興味からは失われていた。少女は辺りを見回しながら、新たな疑問を可憐な唇からこぼす。
「どうやら、今はこちらにはいらっしゃらないようです。ですからシェリア様は、領主の館にお戻りください。長旅の疲れを癒された方がよろしいでしょう」
「そうですか。仕方がありません」
「私は少々用事がありますので、こちらに残ります。もしもカイ様が現れましたらすぐに連絡をいたします」
 ハリスはシェリアを先導し、馬車の中まで案内すると、馬車を引いてきた男たちに短く指示をした。ジークには聞こえなかったが、おそらく領主の館に戻れだのといった内容だろう。
 二頭立ての馬車が走りだし、少しずつ遠ざかっていくと、ハリスは再びジークの前に戻ってきた。
「何だ、あの娘は」
「家に入れていただけませんか、エア隊長。話をしましょう。昔の事も、今の事も」
 穏やかでありながら揺るぎない力を秘めた眼差しに、ジークは抗えなかった。家の中に入るように態度で促すと、「ありがとうございます」と簡素な礼を言い、ハリスは家の中に入ってくる。
 進めるまでもなく、ハリスは勝手に椅子に座った。普段ジークが座っている椅子だ。仕方なくジークは、普段カイが座っている椅子に腰を下ろす。今は主が居ないのだから、椅子も許してくれることだろう。
「何か飲み物は出ませんか?」
「……水しかないぞ」
「それで構いません。喉が渇いているので、何でも良いから喉を通したいのです」
「大人しくなったと思えば、ふてぶてしいところも変わっていないのか、お前は」
 笑ってごまかそうとするハリスを横目に、ジークは重い腰を上げ、水を汲んだ杯をハリスの前に置いた。
 ハリスは水を一気に飲み乾し、卓の上を滑らせて空の杯をジークの前に置く。もう一杯、と言う意味なのか計りかねたジークは、とりあえず何もせず、再び腰を下ろしてハリスと向き合った。
「何から説明しましょうか。まずは、私がどこまで出世したか、あたりからにしますか?」
「一番どうでもいい所だな」
「『神の娘』シェリア様をお守りする護衛隊の隊長を勤めております。位的には中隊長並の扱いのようです。他の中隊と比較すると規模は小さいのですがね。直接の部下は小隊長並かそれ以上の腕を持つ者三十名。それ以外にも、三個小隊ほど付けていただいております」
 話をきちんと聞いていれば、随分出世したじゃないか、と褒めてやる事ができたのかもしれない。しかしジークは、ハリスの言葉の中から最も気にかかる単語を脳内で繰り返しており、先の話に反応する余裕はなかった。
『神の娘』シェリア。
 それは、つまり――
「あの少女は森の女神ライラの娘か」
「お判りですか」
「判らないわけがないだろう。その呼び名に加えて、護衛に精鋭が選ばれる扱いとなれば」
 ハリスはゆっくりと肺の中の空気を吐き切り、膝の上で両手の指を絡ませる。細めた優しい眼差しは何も言わずとも、遠い記憶を呼び起こしている事を伝えてきた。
「話すべき事が沢山ありすぎて、どれから話して良いのか判りませんが――そうですね。シェリア様が生まれて間もなく、貴方がカイ様を連れて逃亡したように、アシュレイ様もシェリア様を連れて逃亡しました。逃げ続けたアシュレイ様は、捜索にあたっていた隊と何度か衝突したそうです。そして十五年前のちょうど今頃、捜索隊はシェリア様の奪還に成功しました。アシュレイ様は深手を負ったものの逃走。しかし捜索隊の者はアシュレイ様を深追いする事はなかったそうです。アシュレイ様と戦う事で捜索隊が受けた傷は深かった。アシュレイ様が受けた傷も、まず生き残れるはずもない深さだった。何より、シェリア様を大神殿へお連れする事が、彼らの最優先任務でしたから」
「そして、あの娘は王都の大神殿で育てられたわけか」
 ハリスは静かに肯いた。
「ええ、そうです。けしてエイドルードの意志に背かないよう、正しく育てられました。シェリア様はご自分の使命を疑う事もなく……」
「『正しい』?」
 ジークは低く、ハリスを責めたてるように言った。
「お前、あの娘にごく近いところに居ながら、あの娘を正しいと思えるのか?」
 エイドルードへの信仰を迷わず、エイドルードの教えに、指示に、疑問を持たない程度ならば、ジークはさほど不思議に思わなかっただろう。エイドルードの加護の元平和に生きる者たちのほとんどが、そうであるのだから。
 だが、あの少女は明らかに違った。意志が無いわけではないが、まるで感情そのものを知らないかのように、表情と瞳は冷たく凍り付いていた。
 真っ当に育てられたとは到底思えない。実の親に育てられていない、程度の理由とも思えない。誰かが、作為的に、シェリアをあのように育てたのだ。
「エア隊長は正しいと思いませんか?」
 ハリスは一度目を伏せ、次に開いた時には、穏やかさを消し去った冷たい眼差しで、ジークを睨むように見上げた。憎悪や呪いに似た感情がそこには強く育っていたが、感情を向ける矛先はジークではないと、その眼差しは伝えてきていた。
「貴方ならば判るでしょう、エア隊長。シェリア様が、どうしてあのように育てられたのか」
「いや……」
「貴方はカイ様を大神殿に引き渡そうとしなかった。アシュレイ様もです。大神殿としては、シェリア様が貴方がたのように、運命に疑問を抱いたり、感情のまま運命に反する行動を取ったりしては、困るのですよ」
 膝の腕で握られた拳に、力が込められる。
 拳を何かに叩き付けたいと願いながら、それを必死に耐えている事が判った。やはり、その矛先はジークではない。
「約束を、覚えておられますか、隊長」
 ジークは肯いた。わざわざ記憶の奥底から呼び寄せなくとも、ハリスの存在と同時に蘇るものだった。
 守ると誓った。大切なものを。それはジークにとってリリアナであり、カイであった。そしてハリスは、ジークが神への反逆を犯そうとしていた事を知っていながら見逃してくれた。大切なものの中にハリスを混ぜ、ハリスの大切なものをけして損ねないと言う条件で。
「十八年前、私は貴方の秘密を誰にも言わずに胸に秘めました。十七年前、貴方が行動に出ると感付いた時も、何もしませんでした。貴方が正しいと思ったから、貴方の行動が、人の命を救う事になると信じたからです。そして、確かに貴方の行動は正しかった。貴方の行動はカイ様のお命を救い、多くの命を救う事に繋がったのですから。でも……」
「俺はお前との約束を違えた、と?」
「はい」
 ハリスの想いが遠くへと向かう。外部との繋がりを遮る壁を越え、空を越えて、遥か彼方へ。
「貴方が大神殿の要求を呑まず、カイ様を連れて逃げた時、私は貴方を追わなければならなかった。貴方を捕まえて、貴方の腕からカイ様を奪い取らなければならなかった。しかし私は誓いを違え、貴方を追わなかった。捜索隊に配属されなかった事を言い訳に――もしあの時、私が」
 ハリスは息を飲み込んだ。同時に感情も飲み込んだのか、続いて吐き出された言葉は、静かなものだった。
「判りますか、エア隊長。情を抱かず、けして神の意志に背かない今のシェリア様を造りあげたものが、何であるのか」
 ジークはハリスの瞳を真っ直ぐに見つめたまま、微動だにせず、彼の言葉を待つ。
「罪ですよ。私と、貴方の」
 闇よりも暗く深い沈黙が、ふたりの空間を支配した。
 互いが互いから目を反らそうとしない。これは無言の争いなのだとジークが気付いたのは、沈黙が呼び込まれてすぐの事だった。
 敗北に抵抗があるわけではない。だがジークはけして引こうとはせず、真っ直ぐなハリスの眼差しを受け止める。
 ハリスの言を聞いて笑いたい気持ちになったが、笑う気力は湧いてこなかった。
 目の前に座るこの男は、賢い男なのだろう。ジークを守ろうとして擁護する言葉を紡ぎ、傷付けようとして厳しい言葉を紡ぐ。言葉の選び方が実に的確だ。
 そして同時に愚かな男でもあるのだと、ジークは心から思った。穏やかな顔で長い時の隔たりをあっさりと詰め、懐かしく優しい感情をジークに与えながら、罪深きジークを責める――ふりをして、結局は自分自身を断罪しただけではないか。そうする事でジークを追い詰める材料をひとつ増やそうとしたのかもしれないが、他に方法はあったはずだ。
「俺は言ったはずだ。お前は何も背負う必要はないと。今もその想いに変わりはない」
 沈黙を先に破ったのはジークの方だった。これは勝負に負けた事を意味するのかもしれないと考えたが、どうでも良いとも思った。
「私も言ったはずです。背負いたいから背負うのだと。今でもその想いに変わりはありません」
 ハリスは立ち上がり、彼自身を責めたてる感情が消えうせた穏やかな瞳で、ジークに微笑みかけた。
「どうやらここしばらく、カイ様はこの街にいらっしゃらないそうですね。今日は失礼いたします。私も私の部下数名も領主の館に滞在しておりますので、カイ様が戻られましたら、どうぞおふたりで領主の館にいらしてください」
「俺がわざわざお前たちにカイを差し出すと思っているのか? そこまでおめでたい頭をしていたとは知らなかった」
 失笑したジークは低く言い捨てたが、ハリスは動揺する様子も苛立つ様子も見せなかった。
「差し出していただきます。貴方もカイ様も逃げる事はできません。貴方もこの街も、完全に我らの監視下にありますから。カイ様が我らの手に戻るその時まで、貴方はこの家を出る事すら容易くないでしょう。外でカイ様と連絡を取られては厄介な事になるやもしれませんからね」
「できると思っているのか?」
「……いつまでもご自身が最強だと自惚れない事です」
 ハリスは素早く剣を抜き、ジークの鼻先へと切っ先を向けた。
 一瞬後、椅子が床に転がる乾いた音が家の中に響き渡る。ハリスの剣を咄嗟に避けようとしたジークが、自身が腰を下ろしていた椅子を蹴ってしまった結果だった。
 思わず椅子を蹴り上げてしまうほど、避ける事に必死にならなければならなかったその太刀筋は、ジークの記憶の中にあるハリスの太刀筋とは明らかに違っていた。とにかく速い。避けるのがあと一瞬遅ければ、鼻を潰されていたかもしれない。
「宣言しておきましょう。私は大司教より貴方の処刑に関する全ての権限を与えられております。意味は判りますね? 私は処刑を行わないと決定する権限も持っている。貴方の命は、私の一存で決まるのです。カイ様を大神殿にお連れすると言う任務遂行に、貴方が邪魔だと私が思えば、貴方の命を奪う事が罪では無くなるのです」
 ジークは鋭い眼差しでハリスを睨みつけた。
「殺したければ、殺せるものならば、殺すがいい」
「私がそんな事を望む人間であると思われているのだとすれば、それはとても悲しい事です」
 ハリスは弱々しい笑みを見せながら剣を鞘に納めた。
「今カイ様を連れ戻す事ができれば、貴方の罪は不問としましょう。カイ様と別れを惜しむ時間も差し上げます。いつかカイ様と再会する機会も差し上げられるかもしれません」
 一瞬だけ息を詰まらせてから、ハリスは続けた。
「カイ様が生まれてすぐに大人しく差し出していただければ、聖騎士団に戻っていたく事も可能だったのですが……貴方ほどの力があれば、カイ様の護衛隊長も望むままでしたでしょう。常にカイ様のお傍にあり、カイ様を見守る事ができたかもしれない」
「あの娘のように育つカイを、傍で見てろって言うのか。俺がそんな事を望むとでも思っているのか?」
「まさか。言ってみただけですよ。神に逆らう事も、家族としての幸せを守るために人を切る事もできる貴方ですからね。いざとなれば正面から戦う覚悟を決めているつもりです」
 ハリスはジークに背を向けどもけして隙は見せず、扉に歩み寄る。開くために扉に触れ、しかしすぐには開こうとせず、落とすように言葉を残した。
「護衛隊長に任命された三年前、私は初めてシェリア様と対面いたしました。あの時私が受けた衝撃は、とても言葉にできません。シェリア様の神々しさも、比類なき美しさも、私の目には輝きとして映らなかった。揺るぎない強烈な闇を目にした痛みに、私はひとり涙しました。己の罪の象徴を目の前に突きつけられ――幾度懺悔したか判りません」
 ジークはハリスに駆け寄り、その肩を掴んで振り向かせようとした。しかしハリスが纏う空気は全ての他者を拒絶しており、一歩踏み出すだけがジークにできた事だった。
「本当にお前の罪か? エイドルードがあの娘に運命を強要しなければ、あの娘は普通の娘として育ったはずだ! これは、エイドルードの罪ではないのか?」
 ハリスは振り返らなかったが、強く首を振ってジークの言葉を否定した。
「貴方は、エイドルードの事を何も知らない」
「知りたくもない」
「そうでしょう。貴方は、エイドルードの加護のない街に住み、日々魔物と戦っている程度で、エイドルードから何の恩恵も受けていないと信じているのでしょうから」
「……どう言う事だ」
「言葉どおりの意味です。貴方もまた、エイドルードに守られているひとりであると言う事ですよ」
 ハリスは扉に拳を打ちつけた。そうする事で、再会してから一度としてジークに叩きつけようとしなかった強い感情を、ジークに見せつけているようだった。それ以上は答える気がないと言う意志と共に。
「私の最優先はエイドルードの御意志。第二が、シェリア様の幸福です。そのために必要とあらば、貴方と剣を交える事も厭いません」
「お前がしようとしている事は、本当にあの娘の幸せなのか?」
「今のシェリア様が望まれる唯一の事です。エイドルードの御意志に逆らうものではない以上、叶えて差し上げる事が私の役目」
「本当にお前はそれでいいのか? それを望んでいるのか、ハリス!」
 ジークの叫びに、ハリスは唇を硬く引き締めた。声を失ったわけではなく、熱を冷まし、感情ではなく思考によって言葉を紡ぐ時間を作るためにだ。
「エイドルードの御意志に従う事も、シェリア様の幸福のために働く事も、私の望みである事は疑いありません。ですが、あえて個人的な望みを述べよと言われたならば、私はこう答えます。『十八年前の約束を果たしたい』と」
 扉が開き、外の広い空間と家の中とが繋がる。
 先ほどまでは清々しいとさえ思えた青空が、今は重苦しく垂れ込め、ジークの息を詰まらせた。
「エア隊長、貴方に罪を償っていただきます。そのために、カイ様をお返しいただきます。必ず」
 ハリスは家を出て行く。
 しばらくは静かに閉じられた扉を眺めていたジークは、体から失われていく力に従って、その場に座り込んだ。
 扉の向こうから聞こえる足音は、すぐに音を失ったが、ジークの中ではかき消える事なく鳴り響いていた。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.