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この空が覚えているだろう。いつかすべてが消えてしまっても。


 アストの部屋の扉が、突然乱暴に開いた。
 この部屋の扉を、叩いたり声をかけたりと言った事前行動を取らずに開ける事を許されている人物は、世界広しと言えどもふたりしかいない。ひとりは当然部屋の主であるアストなのだが、アストはこの時部屋の中、扉に手が届かない位置にある椅子に座ってくつろいでいたので、犯人はもうひとりとしか考えられなかった。
 一応確かめておこうかと開いた扉の方を見たアストは、予想通りの人物を目にした。蜂蜜色の髪と優しい緑色の瞳を持つ青年だ。柔らかな印象を与える繊細な顔立ちには、今しがたの乱雑な行動は不釣合いに見える。
「あのなあ、ユーシス」
 アストは小さく肩を竦めた。
「何度も言うけど、突然開けるなよ。俺だってたまには、人に見られたくない事してるかもしれないんだから」
「君ならそう言う時はぬかりなく、しっかり鍵をかけるだろう」
「……多分な」
 人並みに小心者なところがある事を自覚していたアストは、おとなしく納得し、最初の話題を終わらせた。そんな事よりもよほど気になる点に気付いたからだった。ユーシスがアストの部屋に来るのは、実はかなり珍しい事なのだ。
 かつてザールで暮らしていた頃と比較すれば、随分成長し、健康になった――単純に体が強くなったからなのか、彼の内に眠っていた魔物の種が消滅したためなのか、理由は判らない――ユーシスだが、寝込む回数が極端に減った程度で、一般的な同じ年代の青年たちと比較してしまえば、やはり小柄で、ひ弱だった。だと言うのに、「少しくらい鍛えてみてもいいんじゃないか?」とのアストの言葉に聞く耳持たず、王都でそこそこ有名らしい学者の下について勉強や研究をするだけの毎日を送っているので、ちっとも体力がつかない。そんな彼に言わせると、この塔を上るのはかなりの苦行であるらしく、よほどの用事でもない限り、アストが降りてくるのを下で待っているのが常だった。
「何か急ぎの用事でもあるのか?」
 ユーシスがわざわざ自分の部屋までやってきた理由が気になり、アストは率直な質問をなげかける。
「別に急ぎではないんだけどね」
 ユーシスはさりげなく平静を装っていた。ユーシスが塔に上りたがらない事を知らなければ、あるいは現在の自分たちが別の場所に居たのならば、きっとあっさり騙されてしまっていただろうと、アストが思うほどに。
「話を聞いたんだよ。君が、来年……」
「もう聞いたのか?」
 驚いたアストは椅子に預けていた背を浮かせ、身を乗り出した。
「意外と耳が早いんだな」
「噂くらいは耳に入るよ。いくら友人が少ない僕だって」
「言ってないだろう、そんな事」
 どうして悪い意味にとるかね、と、呆れ交じりのため息と共に吐き出したアストは、再度椅子に背中を預けた。
「お前には相談しようかって迷ったんだけど、な」
 アストは困惑を押し隠そうと笑みを浮かべたが、余計に困惑が際立ったようで、ユーシスの眉間には深い皺が刻まれた。
 そもそもの話は、五年以上も前に遡るのだろうか。まだ十四歳だったアストが、地中深くに眠る魔獣を滅ぼし、この大陸の脅威を消し去った頃まで。あの時から、この国の地味な変化ははじまったのだから。
 まず、土地が広がった。それまでエイドルードの結界の外は、ごく限られた地域を除いて人が住まない――住めない――地として扱われていたが、魔物が地上から消える事によって、容易に人が足を踏み入れられる場所となったのだ。
 ほどなくして、聖騎士団を中心に――エイドルードとシェリアとカイに加え、魔獣や魔物を失った新たな大地では、他に仕事がなかったのだろうとアストは勝手に思っている――未開の地の調査が進んだ。特に危険もなく、調査は広い区域に及び、やがて彼らは、いくつかの遺跡を見つけたのだった。
 それらは、おそらくは数百年も前に住人を失った町だった。魔物たちに襲われて住人たちが全滅したのか、住人たちが結界内に逃げ込むために町を丸ごと放棄したのか、一見したところでは判らなかったが、何にせよ、魔獣がこの大陸にやって来るまで、人々が普通の生活を送っていた町である事は、間違いなさそうだった。
 中でも国王が強い興味を抱いたのは、ザールの北で発見された海辺の街の遺跡だった。時の流れで風化したのか、魔物によって壊されたのか、屋根や壁が残っている家の方が珍しいと言えるほどに荒廃していたが、その町には大きな港や、造船所の跡があった。更に、民家のひとつで見つかった小さな地下室には、この大陸では発掘された事がない、不思議な色の宝石が発見されたのだ。
 国王は多くの人材をその遺跡に送って調査を進めた。やがて見つかった数冊の書物から、かつてその街は外海の向こうにある大陸と交易していたと判った。当時利用していたと思われる、古い海図や、造船技術や航海術を記した本も見つかった。
 それらは自分たちが生きる大陸しか知らなかった者たちが夢や希望を抱くには充分過ぎる発見で、国王が調査を海の向こうへ広げる事を決定したのは、今から二年ほど前の事になる。
 魔物が消えた事で内陸の情勢がおおむね安定している事も手伝ってか、反対する者は少なかった。過去の知識を生かしての、港の修復と帆船造りがはじまり、港は今月、船は来月にでも、完成すると言うところまで来ている。
 残るは人選である。と言っても、乗組員に関しては、ほとんど完了していた――船長でもある、調査隊の隊長に当たる人物を除いては。
「相談しようとは思ったけれど、結局はこれっぽっちも相談せずに、ひとりで決めてしまったわけだね」
「そう言うなよ。相談しようと思った時に、たまたまお前が王都に居なかったからさ」
 アストが素直に理由を語ると、ユーシスは珍しく口ごもった。
「それは……先生に、外の調査に無理やり連れ出されていたからで」
「判ってるよ。仕事だろ。お前が、いつまでもルスターさんに甘えないようにって、得意分野を生かして頑張ってる事は俺だって知ってる。だから無理に呼び戻すとか、手紙とか送って心配かけるなんて、したくなかったんだ」
「君の気遣いは時々大きく空回りするよね。結果だけ聞かされた方がよっぽど心配するに決まっているのに」
「しかも、他人の口から聞かされるなんて」と続け、ユーシスは荒々しい足取りで椅子に近付き、腰掛けた。
 アストは年明けにも、調査隊の隊長として、船に乗り、外海へ出る。
 ある程度求心力がありつつ、できる限りの貴族や組織に対して角が立たない人選となると、なかなか難しかったようだ。色々な候補の内定と却下が繰り返した末、話がアストのところに来たのである。確かにアストならば誰も文句は言えないだろうと、アスト自身も思ったものだ。
 迷ったのはほんの少しで、アストの心はすぐに決まった。ユーシスに相談できないならばとすぐに返事をすると、驚くほどあっさりと隊長に決まってしまった――それが、昨日の話だ。むろん、まだ世間には公表されていない。
「でも、よく認めたよね、大神殿も。君はエイドルードの血族で、しかも救世主。死ぬまでちやほやするのかと思ってた」
「勘弁してほしいな、それは。俺が辛い」
 想像するだけで嫌気がさし、アストは肩を落とした。
「まあ、ちやほやは言いすぎだとしても、魔物が居た頃と比べて遜色ない程度に過保護であり続けると思っていたよ。まさか、調査なんて名ばかりの冒険に放り出すなんて」
「未知の海にって事だったら、認められなかったかもしれないけどな。海図や、海の向こうの簡単な地図も見つかっているから、調査が成功するかどうかはともかく、無事に生還するのは間違いない、と思っているんじゃないか?」
「確かに遭難の可能性は低くなっているだろうけど、海の向こうの人々が今も友好的とは限らないわけだし……」
 ユーシスは一度咳ばらいを挟んでから続けた。
「それに、君の選択にも驚いた。僕は君が親切で、民のためにわざわざ、救世主と言う名のお飾りであり続けてるんだと思っていたからね」
「否定はしないけど」
「けど?」
「もう必要ないだろ、俺程度のお飾り」
 アストの言葉で、ユーシスは即座に思い出したようだった。数年前、神の娘リタが産んだ双子の事を。
「言われてみれば確かにそうだね」
「思いっきり納得したな、お前」
「どう贔屓目に見ても、神秘性や可愛らしさにおいて君に勝ち目はないから」
 相変わらず辛らつな物言いである。アストは慣れているし、そんなところがむしろ面白いと思っているのだが、むやみに敵を増やしていないだろうかと、少し不安になった。
 静かにため息を吐きながら、アストはもう一度身を乗り出す。
 体重をかけている椅子が、きしむ音を立てた。
「決まった以上、もう覆せそうもないからさ。当日は、見送ってくれな」
 口調の軽さとはうらはらに、精一杯の勇気を込めた言葉だった。ユーシスの眉間には皺が寄りっぱなしで、腹を立てている事は明らかだったからだ。
 せめてアスト自身の口から告白していれば、もう少し優しい顔をしてくれただろうにと思うのだが、今更後悔してもしかたがない。先にユーシスの耳に入れた人物をこっそり呪いつつ、十年続いている友情を信じるしかなかった。
「無理だよ」
 しかし、あっさりとしたユーシスの言葉が、アストが信じていたものを簡単に崩した。
 長々とした嫌味や、厳しい事を言われる覚悟は決めていたアストだが、これはさすがに予想外だった。そんなに怒っているのかと動揺したアストは、動揺し過ぎたあまり身動きがとれず、思考も凍りつき、しばらくは無言でユーシスを見つめた。
「え、何で。仕事とか?」
 ようやくひねり出した言葉は、間抜けな問いかけだった。
「そうだけど」
「さすがに冷たくないか、それ。俺、もしかしたら、生きて帰ってこないかもしれないんだぞ? 無理にしてももう少し、申し訳なさそうに……」
 ユーシスはアストをきつく睨んだ。
「決めるまではともかく、決めてからも何も言わなかった君に、冷たいとか言われたくない」
 その言葉で、ユーシスはやはり強烈な怒りを抱えているのだと知ったアストは、俯き、肩を落とす。
 沈黙が流れた。温かな真昼の、のどかな空気が漂っているはずの時間帯だと言うのに、アストはなぜか、肌を突き刺すような極寒の空気の中に居た。
「まあ、でも、いいや。僕の運がたまたま良かっただけなんだろうし」
 ユーシスの長いため息が、俯いて垂れ下がるアストの髪を揺らしたような気がした。
 アストが顔を上げると同時に、ユーシスはアストに背を向けた。部屋の中を見回し、寝台の隣にある机の上に積みあがっている書類に目をとめると、それに近付いた。
 昨晩、「目を通しておいてください」と渡された、調査に関わる資料だ。細かいところまで全てが決まっているわけではないが、現時点で決定している大まかな日程やら、調査の主な目的やら、参加者の名簿やらが揃っている。
 ユーシスはアストの許可を取る事なく、勝手に資料を漁ると、そのうちの一枚を手に取った。
「まだ極秘資料とかはないから、別に見てもいいけど、後でちゃんと元通りに並べなおしてくれよ」
「いちいち細かいなぁ」
 ユーシスは不満げに呟いて、再びアストの正面に舞い戻り、手にした羊皮紙をアストの目の前に掲げた。
 参加者名簿のうちの一枚で、学者たちの名前が並んでいるものだ。ユーシスはそれを突きつけたきり、何も言おうとしないので、アストは仕方なく、上から順々に目を通した。
 王都で有名な学者の名や、ユーシスやかつてのナタリヤの口から聞いた事がある名もいくつかあったが、ほとんどは知らない名が並んでいる。
 その中に、よく知る人物の名を見つけたアストは、目を止めた。
 ユーシスの「先生」の名だ。
 アストは一度深呼吸し、心を落ち着けてから、再度目を動かしはじめる。そして、見つけた。ユーシスの師のふたつ下に刻まれた名を。
 アストは慌てて顔を上げ、ユーシスと目を合わせた。
「だってお前、仕事で来られないって」
「言ってないよそんな事。『見送りには行けない』って言ったんだ。嘘じゃないだろう? 一緒に船に乗っていたら、見送りなんてできっこない」
 言われてみれば確かにその通りで、アストは少しだけ、思い込んでいた事実が気恥ずかしくなった。
 恥ずかしくはなったが、おおむね気分は良かった。ユーシスは怒りを収めてくれたようだし、何より、知らない土地へ旅立つ時に、気の知れた友が一緒に居てくれる事は、とても心強い。
 だが、それは――
「困ったな」
 ユーシスは用がすんだ書類を元の場所に戻しはじめた。どうやらアストが頼んだ通り、順番を元通りにするつもりらしい。あまり綺麗に片付いてはいなかったが、アストは充分満足していた。
 そんな事よりも、ユーシスの発言が気にかかったからかもしれない。
「何に?」
「君が一緒だと思ってなかったからさ」
 アストはユーシスの背中を見つめた。
「嫌なのか?」
「逆だよ。この国に残しておくつもりだった未練が、ほとんどなくなってしまった」
 アストは一瞬だけ呆けてから微笑んだ。すると、アストと同じように優しく微笑んだユーシスの眉間から、皺が消えていく。
「何笑ってるんだよ」
「俺も同じ事考えていたから」
 生還が第一だと思っていた心がどこかに消えたのは、どうやら自分だけではなかったのだと判ると、安堵と同時におかしくてたまらなくなった。
 もちろん、死にたいと思っているわけではない。名ばかりとは言え、アストは隊長なのだ。同行する仲間たちを故郷に返す事は、何よりも大事な義務だとも判っている。
 だが、この大地から、この国から、完全に消えてしまえば自由になれるのかもしれないとの考えが以前からアストの中に燻っていたのは事実で、今回の調査が、それを実行するいい機会になってしまった事は、否定しきれなかった。
 一番持って行きたいと思っていたものが、共にあるのだから。
「誰も俺たちの事を知らない、何のしがらみもない土地に行くのも悪くないよな」
「安全でのんびりした場所だったらね」
 片付け終えて体ごと振り返ったユーシスと目が合うと、アストは小さく声を上げて笑う。
「僕はともかく、君が消えてしまっても、こっちの人たちには迷惑かからないかな?」
「五年前までならともかく、今はもう平気だろ。みんな、俺の事なんて、すぐに忘れるさ。はじめからこの大陸に存在していなかったみたいに」
 自分で言いながら、嬉しいような寂しいような複雑な気分になったアストは、ふと、何かに導かれるかのように、窓の向こうの空を見上げた。
 アストと同じものを感じたのだろうか。ほぼ同時に、ユーシスも空を見上げていた。目を細め、眩しそうに、蜂蜜色の長い睫を揺らしながら。
「そうかもね。でも――」
 ユーシスはそれ以上を言葉にしようとしなかった。
 アストも、それ以上何も聞こうとしなかったし、言おうともしなかった。ただ無言で、温かく、明るい、白い雲が時折見られる程度のよく晴れた空を見上げる。
 鮮烈な空色は、優しくありながらしっかりと、ふたりの眼差しにやきついた。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.