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絶望より深く、希望より強く。




 ジオールには過去に一度だけ、大神殿の敷地内にある医療院に入院した経験がある。遠征先で深手を負い、ほぼ意識が無いまま王都へと帰還し、仲間たちの手によって運び込まれた時だった。
 意識がしっかりと保てるようになるまで数日、傷がふさがり、寝台から出て歩き回る許可を得るまでには月単位の日数を必要とした。そんな、けして短いとは言えなかった入院期間の中で、後々も忘れる事のできない印象的な目覚めが、二度だけある。
 一度目は、医療院ではじめて――それまでにも何度か目を覚ましていたらしいが、すぐに意識を失っていたため、自覚がなかった――目覚めた時だった。見覚えのない部屋の中で横たわる自分の顔を覗き込む、見覚えのない女性が居たのだ。
 現状を理解できず、咄嗟に起き上がろうとしたジオールの体を寝台に押し付けた女性は、相手に警戒心を抱かせない朗らかな笑みをジオールに向けた。それでも混乱していたジオールは、女性の手に逆らって起き上がろうとしたが、体中――主に右肩――に走る苦痛に耐え切れず、短く呻き声を上げ、再び体を寝台に縫い付けた。
「はじめまして、ジオールさん。簡単に説明させていただきますと、ここは大神殿の医療院です。私はウェリンと言う名で、貴方の看護を担当させていただく事になりました」
 ウェリンと名乗る女性の簡潔な説明は、痛みで朦朧とした意識の中でも理解しやすく、ジオールは小さく頷いた。それからゆっくりと深呼吸をし、痛みが引くのを待った。
 ジオールの呼吸が落ち着くまで、ウェリンも黙っていてくれた。きっとこちらの話を聞く態勢を整えてくれているのだろうと、ジオールは勝手に解釈していたので、ジオールが問いを紡ぐよりも先にウェリンが口を開いた時、驚いて口を閉じるのを忘れてしまった。
「えっと、せっかくですから、もうちょっと自己紹介させていただきますね。歳は、先月二十二歳になったばかりです。ここに勤めてから、五年半ほどになります。小さい頃からこの仕事に就くのが夢だったので、まあ、夢を叶えた幸せものって事になるかもしれませんね。あ、でも、一番最初の夢は、『聖騎士様のお嫁さん』になる事だったんですよ」
「は……はあ?」
 聞きたい事は他に山ほどあると言うのに、話がどんどんずれていき、ジオールは間抜けな相槌を打つ事しかできなかった。
「いえ、まだ、その夢は諦めてないんですけどね。素敵な、叶うならばできるかぎり将来が明るい聖騎士様に出会えたらいいなあと思って、この職場を希望したわけですから」
「それはつまり、出会いの場を求めるだけにこの仕事に就いたと……?」
 もし肯定された時、不純な動機を責めるべきなのか、大した根性だと褒めてやるべきなのか、悩みながら返事を待っていたジオールは、ウェリンが「職場は選びましたけど職業は選んでません」と言い切ってくれた時、心から安堵した。
「精一杯お世話させていただきますので、もし素敵な聖騎士様に心当たりがありましたら、ぜひ教えてくださいね」
「は……はあ」
「あ、すみません。まだ具合が悪い方に長々と話してしまって。私はここで失礼しますから、ゆっくり休んでくださいね」
 唐突に現れて唐突に去っていく、まるで嵐のようだ。
 結局ジオールは、ウェリンが部屋を去る瞬間まで、圧倒されたままだった。自分がどうしてここに居るのかを理解するまでにだいぶ時間を必要としたし、右肩の傷に対して抱く複雑な思いに苛まれるには、更に時間を必要とした。

 二度目は、入院してから十日ほどが過ぎた時だった。目が覚めると、胸の上に蜂蜜色の物体が乗っていたのだ。
 何事かと驚いたのは一瞬の事だ。すぐに正体に思い至ると、ジオールは薄く開いていた目を一度硬く閉じてからはっきりと開き、声を出した。
「何をしている、ルスター」
 蜂蜜色の物体は、たびたび見舞いに来てくれる、ルスターの後頭部だった。彼はジオールの声に反応して、慌てて顔を上げると、ジオールを見下ろす。
 ルスターの表情は判りやすく変化する。はじめは驚いて強張っていたが、徐々に柔らかい笑みを作りだす。唇からもれているのは、安堵によるため息だろう。
「お、おはようございます、ジオールさん」
 ジオールは返事をする前に窓の外に目をやった。太陽はすでに地平の向こうに落ち、空を闇色に染め上げている。
「早くはないようだな」
「え? えっと……じゃあ、何て言えば良いのでしょう」
「判らん」
 本当に判らなかったからそう答えたのだが、あまりにも冷たい返答だったかと、ジオールは後輩の表情を窺う。しかし彼は、傷付いた様子も落ち込む様子もなく、相変わらずの微笑みでジオールを見上げるだけだった。
「何をしていた?」
「はい?」
「怪我人の体の上に頭を乗せて、何をしていたのかと聞いている。人を枕にして眠っていたのか?」
「まさか!」
 ルスターは言い辛そうに口ごもり、ジオールから目を反らしてしばし考え込んだ後、意を決して再びジオールを真っ直ぐに見つめた。
「ジオールさんがあまりにも静かにお休みだったので、不安になってしまい、鼓動を確認していました」
 他に方法があっただろうと心の中で思いつつも、「なるほど」と納得した事を伝える言葉をもらす。するとルスターはあからさまにほっとした顔をして、上体を起こそうとするジオールの背中の後ろに手を伸ばした。
 眠る度に右腕が使えない事を忘れ、いつも通りに行動していた頃のジオールにとって頼もしかったその腕は、すでに無用の長物だ。今の自分の右腕はろくに動かない事、僅かに動かすだけで激痛が伴う事を、頭だけでなく体でも覚えたジオールは、自然と左手のみを使って体を起こすようになっていた。
「良かったです。ジオールさん、回復してきているみたいで」
 ルスターは伸ばした手を背中に隠しながら言った。
「そうだな。一日中眠っていた頃に比べれば」
「失礼します」
 扉が開いたのは、ジオールが返事をしようと口を開くよりも早かった。ならば事前に声をかける必要はないだろうと、ジオールは冷静に考えたが、更に冷静な部分が、今更言っても意味のない事だと納得していた。十日もあれば、彼女――ウェリンがそう言う人間なのだと理解するのに充分すぎる。
「どなたですか?」
 問いを口にするルスターの目は、妙な期待に輝いている。だがジオールは、ルスターの期待に応えるだけの回答を用意できなかった。
「ウェリン殿だ。ここの医療院に勤めておられ、私の担当をしてくださっている」
 ウェリンはルスターの存在に驚いたのか、ルスターを強く見つめるあまり呆けていたが、すぐに正気を取り戻してジオールのそばに寄る。ジオールの夕食と思わしきものを、盆ごとジオールの前に置くと、再びルスターを睨むように見つめた。
「聖騎士の方ですか?」
「はい。以前ジオールさんと同じ隊に所属してました」
「どちらにお住まいです? セルナーンのどこかに? それとも宿舎に?」
「宿舎ですが」
「今日はいつ頃こちらにいらしたのですか?」
 ウェリンの質問責めに、一瞬戸惑う様子を見せてから、ルスターは答えた。
「夕刻です。本日の訓練を終わらせてから、すぐこちらに来ましたので」
「では、そろそろ宿舎に戻った方がよろしいのではありませんか? もうすぐ食事の時間が終わってしまいますから」
 ルスターはすかさず立ち上がった。彼が日常生活を忘れてジオールのそばに居たのは、時間を読み間違えていたためか、空腹である事を失念していたためか判らないが、どちらにせよ、現在の時刻と自身の腹具合に気付いてしまった今、即座に宿舎に戻る事を選択するしかないのだろう。
「すみません、ジオールさん。私はもう帰ります」
「ああ。せっかく来てくれたと言うのに、眠ってばかりで何もできず申し訳ない」
「いいんですよ、気にしないでください。また来ますね」
 ルスターは最後に煌びやかな笑顔を振りまいて、部屋をあとにした。ジオールを気遣ってか、扉を閉めるまでは普通にふるまっていたが、扉を閉めた途端全力疾走をはじめたようで、強い足音が聞こえた。
 たまらず、と言った様子で、ふいにウェリンが笑い出した。ジオールも同様に笑いたい気分になり、口元に小さく笑みを浮かべる。
「可愛い方ですね」
 すでに二十歳を迎えた青年には相応しくない褒め言葉なのだろうが、ジオールは否定する事ができなかった。
「よろしければ、紹介しましょうか」
「まあ。覚えていてくれたのですね」
「なかなか忘れられるものではありません」との返事は、何とか飲み込んだ。
「私が紹介できる数少ない人物です。将来性については、まだ判りませんが」
「お気使いありがとうございます。でも、もういいんです」
「誰か、決まった方でも?」
 咄嗟にジオールが訊ねると、ウェリンは盆の中に向けていた視線をジオールに向けた。
「気になります?」
「それはそうでしょう。こちらに五年半勤めた貴女がようやく見つけた相手ならば、五年半の間に出会った聖騎士の中で最も優れた人物と言う事なのでしょう? どんな人物なのか、興味があります」
「なんだ。そう言う意味ですか」
 ため息混じりに笑ったウェリンは、つい先ほどまでルスターが使っていた椅子に腰を下ろした。
「ここに来る時は皆さん、程度は違えど弱っているときですから、立派なところや、素敵なところより、情けないところとか、嫌なところが目についてしまうんですよ。私はそれで良いんです。この先一緒に生きるなら、調子が悪い時に一緒に居てもやっぱり好きだなあと思える相手を探したほうが良いと思っているので。でも、そうして私が見つけた相手は、貴方がたから見て立派な方とは限りませんよ?」
 ウェリンはゆっくりと手を伸ばし、右側にあった匙の持ち手を、左側になるように置き換えた。
「それでは、一旦失礼しますね。食器はあとで下げにきます」
 結局ジオールの問いをはぐらかしたまま、ウェリンは部屋を出て行ってしまう。どうしても聞きたい話でもなかったので、さっさと忘れる事にし、ジオールは左手で匙を取った。
 ジオールは右利きであったので、これまで大抵の事は右手でやってきた。故に、左手で食事を摂るのはやや難しい事だった。痛む右手を使うよりは幾分ましであるが、若干慣れてきた今であっても思い通りにいかずに苛立つ事があったし、食べている最中にいくらか溢してしまう事もあった。「なぜ自分がこんな目に」と、この場に居ない人物へ向けた呪いの言葉を吐きかけた事も、一度や二度ではない。
 みっともなくて見せられたものではないなと、ジオールは自身の事を鼻で笑う。この場に誰も居ない幸運に感謝しながら。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.