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失いたくなかった。貴方がそれを望んだのだとしても。


 村の中心よりやや山側に寄ったところに立つ家は、つい昨日まで、大家族が住む賑やかな家であった。しかし今は、誰ひとり居ない、静かな空家となっている。
 突然の事だった。だが、前兆が全くなかったわけではない。その家に住んでいた家族の運命は、十日ほど前、長女であるリリアナが「地上の女神」に選ばれてから、大きく変わっていたのだ。リリアナが聖騎士団の迎えに従い王都へと旅立った事で失われ、その代わりのように、一生働かなくても生きていけるだけの大金が、家族の元へ残された事によって。
 昨夜までは何事もなく生活しておりながら、今朝は誰も畑に出てこなかった事から予想するに、彼らが村を出て、どこか――おそらくは遠く華やかな都会――へと旅立ったのは、どうやら昨晩の遅くか今朝早くのようだった。
 彼らは人目を忍び、村の者に何も言わず、忽然と姿を消したのだ。
 まるで、何かから逃げるかのように。
「あいつらは、お前から逃げたんだよ」
 空になった家の前にひとり立つエアの耳に、村人の誰かが囁いた。
「聖騎士団がリリアナを迎えに来るのがあと三日遅かったら、あいつらが手に入れた金の少なくとも半分は、エアのものだったろうからな。それが後ろめたくて逃げたのさ」
「後ろめたいなんて、そんな気の良い奴らかね? エアがいつ『金をよこせ』と言い出すんだろうって、怖くなっただけじゃないか?」
「あいつらが大金を手に入れたのはみんな知ってるからって、疑心暗鬼になってたからな。誰かに盗まれるかもしれないって怯えていたのかも」
「ああ、そっちの方がありそうだな」
 少しでも手が空いた村人たちは、住人を失った家の前に集まり、消えた家族の話で盛り上がった。そのほとんどには悪意がこもっていて、エアの耳や心を痺れさせる力があった。
 悪意の発生源は、妬みだ。金を手に入れた途端変わった家族に対し、「情けない」だの「恥知らず」だのとこぼす彼らも、結局のところ、突然大金持ちになった家族が羨ましいのだけなのだ。本音では、彼らのように金を手に入れ、仕事を捨て、都会に出て、遊びほうけたいと思っている。
 だが、エアは違った。
 リリアナの家族が手に入れたものと比べれば僅かだが、それでも充分大金と言える金貨が、エアの手元にはある。だがそれは、エアにとって何の価値もないものだった。投げ捨てる事で、金を欲っして群がってくる者たちに施す事で、望みが叶うと言うならば、喜んでそうする。
 リリアナが。
 リリアナが、帰ってきてくれるのならば。
「リリアナ……」
 村人たちの声が煩わしくなったエアは、彼らを背中の向こうに置き去りにし、空家の中へ足を踏み入れた。そのままでは誰かが着いてきそうだったので、自分が入るとすぐに扉を閉める。ひとりきりである事に安堵して、エアは長い息を吐いた。
 家の中は、昼間ならば窓から充分な明かりが入ってくるつくりになっているはずだと言うのに、妙に暗く感じた。そのせいか、空気が淀んでいるようにも思える。
 どうしてそう感じてしまうのだろう。この家の中に常に溢れていたはずの明るい笑顔が、ほとんどは醜い欲望によって、ひとつは悲しいほど美しい自己犠牲の精神によって、消えてしまったからだろうか?
 じっとしていては、抑えきれない胸の痛みに押しつぶされてしまいそうだった。エアは深く息を吸い込み、家の奥へと足を向ける。
 住んでいた人数を考えれば、とても狭い家だった。大きな食卓の横を抜けると、すぐに子供たちの寝台が詰め込まれた寝室に到達する。
 荷物はほとんど残されたままだった。着替えや食料はいくらかなくなっているようだが、その程度だ。逃げるように去った彼らは、多くの荷物を持って行く事ができなかったのだろう。あるいは、有り余る金で新しく質の良いものを買えばいいと思っていたのかもしれない。
 エアは寝台に目をやった。ほとんどの寝台は、毛布が乱暴にめくられたままだった。どうやら昨晩子供たちは、一度は普通に寝たようだ。出ていくために起きた後、どうせ捨てる家だからと、片付けをせずに飛び出したのだろう。
 空しい。
 それが、空っぽになった家を見回したエアの、正直な感想だった。次に抱いたのは、仲間だと思っていた相手に裏切られたような、どうしようもないもどかしさだった。
 リリアナが連れ去られた直後は、彼女の幼い弟妹たちは、毎日のように泣いていた。だからエアは心のどこかで、この家族はリリアナを失った痛みを共有できる仲間だと思っていた。一緒に悲しむ事で、もしかしたら、やがて狂うような愛しさを治め、少しずつ忘れていけるかもしれないと。
 そう思っていたのは、俺だけだったんだな。
 俺はやっぱり、ひとりきりなんだな。
 忘れる事なんて、できるわけがないんだな。
 エアは引き締めた唇を歪ませたまま、更に寝室の奥へと歩みを進めた。ゆっくりと顔を上げ――最も奥にある、ひとつだけ毛布が綺麗にたたまれている寝台に目を留めた。
 昨晩使われなかった寝台。
 それはきっと、十日も前から、主を失っていた寝台。
「リリアナ」
 名前を呼べば、エアの中には彼女の笑顔が蘇る。そして、甘く切ない息苦しさに胸が詰まる。
 彼女はもう王都に着いたのだろうか。それとも今もまだ、王都へと向かう馬車に揺られているのだろうか。
 今、どんな気持ちでいるのだろうか。
「リリアナ」
 別れ際に、言葉を交わす機会はなかった。だが、視線を交わす事はできた。
 彼女は涙に濡れた瞳でエアを呼んでいた。聖騎士たちに囲まれていたために、けして声を出す事なかったけれど――いや、違うのかもしれない。彼女の口を塞いだものは、もっと抗いがたい、責任や、重圧と言ったものだったのかもしれない。
 そしてリリアナは何も言わず、手にしていたつくりかけの花嫁衣裳を置いた。聖騎士たちの導きに従って歩きだし、エアの横をすり抜けて、馬車に乗り込んだ――
 エアはふと顔を上げた。
 今思うと、少しおかしな状況に思えたのだ。エアがリリアナのところに駆けつけるまでの間も、リリアナは聖騎士たちと向かい合い、背負うべき大いなる役割について話をしていたはずだと言うのに、彼女の手の中には、とうに作業を止めて手放していておかしくないはずの、花嫁衣裳があったのだから。
 突然の事に戸惑い、濃い不安の中に居た彼女には、約束した未来の象徴以外に、縋れるものがなかったのだろうか。
 エアは振り返った。リリアナが縫い物などの作業をする時にいつも座っていた椅子へと。
 傍らに置いてある台には、完成を間近に控えたまま一向に先に進んでいない、花嫁衣裳がたたんで置いてあった。
 エアはゆっくりと台に近付き、綺麗にたたまれているものを手に取る。
 白い布に鮮やかな色の糸で描かれた花の模様が広がっている。まるで、リリアナが愛した春を象徴しているかのようだった。
「リリアナ」
 妻となるはずだった少女の名を呼びながら、エアは花嫁衣裳を胸に抱いた。
 エアとて愚かではない。判っているのだ。泣きながらも、リリアナが無言で花嫁衣裳を手放した意味。無言でエアの隣を通り抜けた意味。
 リリアナは選んだのだ。エアの妻になる事でなく、エイドルードの妻になる事を。どうしようもない事情が彼女の上に折り重なる事で、彼女は望まざるをえなかったのだ。地上の女神になる事を。
 判っていながらリリアナを呼び続ける自分自身が弱く、悪なのだと理解しながら、それでもエアの心はリリアナを忘れる事ができず、リリアナの名を呼び続けていた。
 失いたくなかった。
 失ってはいけないものだった。
 失っては、生きていけないのだから――
『本当に、忘れられないのだと言うのなら』
 いつの間にか力なく床に座り込んでいたエアの横顔を、西向きの窓から入り込む穏やかな西日が照らす。
 心から憎いと思った男の声が聞こえた気がした。それはおそらく、エアの中にある記憶から。
『もう一度会おう。時が流れても、君の心がリリアナ様だけを叫んでいたのなら』
 次々と引き出される、美しい声。
『手を組もう。私の力があれば、君は大切な人を取り戻せる。会いに来るのだ、私に』
 忌々しい声だが、忘れる事ができずに痛みに苦しむ事しかできないエアにとっては、唯一の希望を示す声だった。
「聖騎士団長、アシュレイ・セルダ……」
 弱い声で、男の名を呟く。対照的なほどに強い力で、手の中にある衣装を握り締める。
 エアはゆっくりと立ち上がった。そして、北を見つめた。強い意志を込めた瞳で、睨むように。


 その日、田舎の小さな村に、ふたつの空家ができたのだ。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.