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さあ、掲げたこの手を打ち合わせよう。口に出来ないさよならの代わりに。


「それで? 頼みとは何だ、アシュレイ」
 机の向こうに腰を下ろしたアシュレイの顔は、たった一本だけ灯された蝋燭に照らされていた。引き締められた唇がの端がわずか吊り上げられ、笑っているように見えたのは、揺れる炎が見せる幻ではないだろう。
「大した事ではない、と言っただろう? 記憶力には自信があるのだが、十年近くも前の事であるから、誰かに確認して欲しいと思ったのだ。だが、こんな事を頼める相手は君しか居ない」
 アシュレイは引き出しから取り出した羊皮紙を机の上に置くと、一気に広げた。蝋燭の灯りによって浮き上がる図面は細かく、一瞬で理解できたのは一部のみだったが、それだけで何が記されているかを理解したディナスは、思わず息を飲む。
 アシュレイもディナスも、何度か足を踏み入れた経験がある迷宮の地図であった。セルナーンから遥か南、広大な砂漠に潜んだそれは、砂漠の神殿へと続く唯一の道だ。
「エア・リーンとの取引材料だな」
「ああ」
「向こうには現物を写させておいて、君は記憶を頼りに書いただけか? いささか不公平な取引に見えるが」
「正しければ問題なかろう。そして正しい自信もある。その上で君に確認を取る徹底ぶりだ。問題はなかろう」
「自信家だな」と言ってやる代わりに、ディナスは鼻で笑ってやった。
 アシュレイはそう言う男なのだと、十年以上も前から思い知っている。今更嫌味や文句を言っても意味は無いだろうし、自分の実力を過信するわけでなく、冷静に見極めた上で自信を持っているアシュレイと言う男を、ディナスは気に入っていた。
 ディナスは羊皮紙の端を押さえつけるように手を置き、アシュレイが書いた地図を見下ろした。細かく分岐する地図を見下ろしてから目を伏せると、瞼の向こうからかすかに届く明かりの中で、金色の髪が輝いているように感じた。
 ライラ。
 心の中で、ディナスは妹の名を呼ぶ。
 アシュレイ。
 続けて、義弟となった友の名を。

「お兄様はアシュレイ様をご存知?」
 年頃の妹の口から男の名前が飛び出しただけでも一大事だったが、その男の名は、ディナスが受ける衝撃をより強めるものだった。
 ライラはディナスにとって自慢の妹だった。容姿が美しい事ももちろんだが、親の育て方が良かったのか、心優しく、品も良く、慎ましく、まさに理想の淑女と言える娘に育ってくれている。近所の評判が良いのはもちろん、大陸最大の都市である王都セルナーン中で評判になるほどで、同僚たちに妹を紹介しろと言われた回数は数え切れない。
 そんな妹を手放したくないとまでは思わないが、生半可な男に渡すのは悔しいと言うのが、ディナスの本音だった。
 本音だったが、まさかアシュレイの名を出されるとは。
「もちろん知っているとも。同じ年に入団した友であるからな。そうでなくとも、入団したその年に武術大会を勝ち上がり、聖騎士団長を倒した彼は、団内で知らぬ者が居ないほど有名だ。それ以外にも色々と目立つ男であるし」
「まあ」と小さく声をあげ、やや紅潮ぎみだったライラの頬の赤みが増す。妹がアシュレイに興味を抱いている事が嫌でも判り、ディナスは小さく息を吐いた。
 とりあえず驚きはしたものの、仕方のない事だと、ディナスは半ば諦めていた。単なる興味や憧れなのか、それとも本気であるのかはまだ判らないが、年頃の娘がアシュレイに対して好意を抱くのは、必然と言えるものだったからだ。
 アシュレイは同性であるディナスから見ても素直に綺麗だと言える顔をしているし、知的な雰囲気を漂わせ――実際賢いのだが――ながら武術にも優れていると言う、胡散臭いほど完璧な男なのである。内面については、世間で扱われるほどの聖人君子ではなく、怒りも憎みもする人間である事をディナスは知っているが、基本的には理性的で、周りに気遣いができる人物である事も知っていた。
「その、なんだ。お前は、アシュレイが気になるのか?」
 戸惑いながらも訊ねてみると、ライラはわずかに戸惑った後、小さく頷いた。
 ディナスにしてみれば、複雑な気分だった。ライラがアシュレイを知ったのは、今年初めて足を運んだ御前試合しか考えられず、ライラが今年に限って御前試合に足を運んだのは、初めて御前試合まで勝ちを進める事ができた兄ディナスを応援するためである。
 大方の予想通り、ディナスはアシュレイに敗れた。つまりライラは、兄であるディナスを負かした相手に一目惚れしたと言う事で、応援に来てくれたはずの妹が、本当に応援してくれていたのかを疑う事は、なかなか切ないものだった。
「アシュレイに会いたいか?」
 続けて問うと、ライラは首まで真っ赤になった。
「えっ、それはっ、もちろん……でも、やはり無理です! きっと緊張してしまって、お話なんてできません……!」
「いや、待て。ふたりきりで会わせるとは言っていないぞ。私がアシュレイと会う時に、おまけとして連れて行ってやろうかと考えただけだ」
「あっ、そ、そうでしたか」
 ライラは何かを取り繕うように笑ったが、すでに何もかもが明らかで、少しもごまかせていなかった。
 ディナスは苦笑してから静かに息を吐いた。もうどうしようもないだろうと判断し、可愛い妹のために何らかのきっかけを作ってやろうと覚悟を決めたからである。アシュレイならば信頼できる男であるし、「生半可な男に渡すのは悔しい」と言うディナスの想いを充分満たしてくれるのだから、他の男にひっかかるよりはずっと良いだろうとの計算もあった。
「では、明晩だ」
「はい?」
「明日、アシュレイと食事をする約束をしている。あいつは私に遠慮しているのか、祝勝会の誘いを全て断っていたから、私が祝ってやろうと思ってな。意図がばれてしまってはまた遠慮してしまうかもしれないと思い、他には誰も誘っていないから、お前がそのぶん祝ってやってくれ」
 元よりディナスは、妹の事を美しく可愛らしいと思っていたが、この時浮かべた微笑の美しさは他に知らなかった。柔らかく、甘く――ああ、ライラはやはりアシュレイに恋をしているのだと、思い知らされるはめになった。
「ありがとうございます、お兄様」

 おそらくは国王に刃を向けるよりも重い罪に加担しながら、ディナスは考える。あの時、ライラとアシュレイを引き合わせた事は、正しかったのだろうかと。
 御前試合の日にライラがアシュレイを目にしなければ、ささやかな祝勝会の晩にアシュレイがライラに出会わなければ、セルナーンで最も美しく最も妬まれた夫婦の誕生を阻止できたかもしれない。そうしたところでライラの運命は変えられなかったかもしれないが、アシュレイの運命は変えられたかもしれないと思うのだ。
 かやの外に居るディナスがあれこれ悩んでも、仕方のない事だとは判っていた。充分な判断力を持った大人として、ライラはアシュレイを選び、アシュレイはライラを選んだのだから。しかし、光り輝く道が誰よりも似合う友に、三度目の闇を与えたのは、間接的とは言え自分なのではないかと考えてしまうと、思考も迷いも止められなくなっていた。三度目の闇が訪れなければ、彼は先に続くはずだった光の道を切り捨てる事はなかったであろうから。
 ディナスを突き動かしたものは、妹を助けたいとの願いよりも、強い罪悪感だったのかもしれない。
「さすが、アシュレイだ。大したものだな。正しい道は合っている。何の問題も起こらず、真っ直ぐに正しい道を歩めれば、砂漠の神殿に辿り着けるだろう」
「『正しい道は』との言い方が気になるのだが? つまり、他に間違いがあると言う事か?」
「その通りだ」
 ディナスはアシュレイが記した地図の上に、隠し持っていた別の羊皮紙を広げた。
 ほぼ同じ大きさで、ほぼ同じ内容が記されているそれが何であるのか、アシュレイは一瞬で見抜いたようで、珍しく慌てた風体でディナスを見上げる。
「君の十年前の記憶と、私が三年前に作った複製と、どちらを信じる?」
「なぜ……」
「私も一時は君と同じ事を考えたのだよ。もっとも、君と違って意気地の無い私が起こせた行動は、ここまでだったがね。こうして役に立つのなら、処分しなかった過去の自分を褒めてやりたいと思う」
 アシュレイの手が、ディナスが記した地図に触れる。長い指はぎこちなく道を辿り、アシュレイが描いた地図と異なる箇所で幾度か動きを止めた。
「ありがとう。参考になった」
 全ての誤りを把握したアシュレイは、ディナスの地図を丸め、ディナスへ差し出す。
「受け取ってくれないのか?」
「もちろん」
「どうしてだ」と問いを口にする前に、愚問だと気付いたディナスは、投げかける問いを変更した。
「私を仲間はずれにするつもりか?」
 取引相手となるエア・リーンを誘い込んだのも、取引を成立させたのもアシュレイで、この先行動を起こすのも、きっとアシュレイだけ。
 ディナスにできる事は、ただ黙って、アシュレイを見送る事だけ。ライラのために、ライラのために罪に堕ちようといているアシュレイのために、できる事を見つけられないまま――
「君は私が何をしようとしているか知りながら、私を止めないでくれた。こうして協力もしてくれた。感謝している」
 アシュレイは地図に視線を落としたまま言った。
「もう充分だ」
 地図をしっかりと調べれば、誰が記したものか判ってしまうだろう。ならばこの地図は、アシュレイとエアの企みに、ディナスが加担した証拠になる。アシュレイがそれを避けようとしているのを、ディナスはとっくに理解していた。
 事が公になった時、ディナスが巻き添えにならないようにしているのだ、この男は。
「自信家の君らしくもない」
 ディナスは心から笑いながら、挑発的な口調で言った。
「『万が一』の状況に陥る覚悟があるとは」
 アシュレイは咄嗟に顔を上げる。
 紫水晶の瞳が悲しく輝くと、ディナスは小さく笑いながら、アシュレイが差し出した地図を、再びアシュレイの前に戻した。
「君が危惧する通り、事が露見すれば、おそらく君の人生は終わり、そう遠くない未来にライラの人生も終わるだろう。君はそれで満足かもしれないが、私は一緒に連れて行ってほしいと思っている。ひとり残されてはたまらない」
 長い沈黙が流れる間、机の上に組まれていた両手が、何度も組み変えられる。迷いが色濃く表すそれを見つめ続けていたディナスは、やがて長い指が一度だけ強く絡み合ったかと思うと、すぐに解かれ、地図を手に取るさまを見守った。
「君も大概人が悪い」
 嘲笑にも似た苦笑は、言葉の強さに反して優しく、ディナスの笑みを引きずり出すものだった。
「そうでなければ、君の友人などやっていられないよ」
 笑い声を先に発したのは、どちらからだったのか。
 自分だったかもしれないし、アシュレイだったかもしれない。はっきりとした答えをディナスは知らなかったが、ただひとつ間違いない事は、ライラを失った日から、こうして声に出して笑った事など、一度としてないと言う事だった。おそらくは、アシュレイも。
 笑いすぎて涙が出そうになった頃、ディナスはふいに片手を上げる。
 意図を正しく理解したアシュレイが、同様に手を掲げてくれたので、ディナスは遠慮なく彼の手に自分の手を打ち付けた。
 きっとこの先、自分はアシュレイに何も言わないだろう。「ライラを頼んだ」とも、「行ってこい」とも、「ありがとう」とも、「さようなら」とも。何を言う時間も与えないまま、アシュレイは自分で相応しい時を選び、旅立っていくのだろう。
 しかし今、一瞬だけ触れ合った手の温もりが消えゆく中、伝えるべき全てを伝える事ができたのだと、ディナスには確信があった。
 無言で踵を返し、ディナスは視界からアシュレイの姿を消し去る。
 アシュレイも何も言わなかった。それでいい、とひとり頷きながら、ディナスは部屋を後にした。


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