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誓いを捨てずにどこまで行ける?


 リリアナは毎夜、同じ夢を見る。とっときの白い布を縫い合わせて作った衣装に、薄桃色に染めた糸で花を散らしていた頃の夢だ。
 地味な作業を進めるうちに、ひと針ひと針細かな刺繍をする手が、緊張と興奮に震えはじめる事が度々あった。失敗するわけにはいかないため、作業を休めて膝の上に手を重ね、長い息を吐いて休憩を取る。鏡を見て確かめなくとも頬が紅潮しているのが判り、熱を冷まそうと頬に手を添えてみたが、手も熱くなっていたためまったく意味を成さなかった。
 手先の器用さには自信があったリリアナにとって、刺繍が思い通りに進まないもどかしさは初めての経験で、少々苛立ちを覚える。だが、胸を占める幸福の甘さが導く喜びは、苛立ちよりもはるかに強い力を持っているため、眉間に皺を刻むどころか、顔が勝手に笑いだすありさまだった。
 ゆっくりしている余裕はあまりない。リリアナは深呼吸を繰り返して半ば無理やり気持ちを静めると、表情を引き締め、再び針を手に取る。式はすでに三日後に迫っているのだ。人生で最も大切な瞬間を、未完成の衣装で迎えたくはない。
 作業を再開したリリアナの耳に扉を叩く音が聞こえたのは、衣装の裾のあたりに新しく小さな花が完成した頃だった。
「はい」
 父も母も兄弟たちも家の中に居なかったので、リリアナ自ら出なければならなかった。衣装を汚さないように丁寧に置くと席を立ち、玄関へと向かう。
 家族の誰かならば、わざわざ戸を叩かず勝手に入ってくるはずだから違うだろう。エアならば、叩いた後黙って待つ事なく、声をかけてから入ってくる気がする。ならば誰だろうと考えながら、リリアナは扉の取っ手に手を伸ばした。
「どなたですか?」
 声をかけながら、扉を開ける。
 いけない、とリリアナは思った。夢の中のリリアナではなく、夢を見ているほうのリリアナが、だ。
 扉を開けるとどうなるか、現実のリリアナは知っている。村で一番のエアよりもなお背の高い、黒い髪から覗く紫水晶の瞳の悲しげな輝きが印象的な、まるで物語に登場する王子のように美しい青年が現れるのだ。そして青年は、優雅な動作で跪いてから言う。「リリアナ様、お迎えに上がりました」と。
 青年の言葉によって、神に選ばれた尊き存在として逃れられない運命に従う、暗い日々がはじまる。一生で一番大切な日のために寝る間も惜しんで進めていた刺繍を途中で投げ出して、導かれるままに馬車に乗り、王都へと向かうのだ。
 何度も何度も名を叫んでくれた、エアを置き去りにして。

「――!」
 声にならない悲鳴を上げ、リリアナは目を覚ます。上体を起こし、震えを押さえつけようと、自身の体を抱き締めて深呼吸を繰り返した。
 まだ慣れないの?
 脳内で自身に問いかけながら、リリアナは自嘲気味に笑った。村を発ったあの日から、王都に到着するまでの間も、王都に到着してから砂漠の神殿に向けて発つまでの間も、神殿で生活する日々の間にも、繰り返し同じ夢を見続けていたと言うのに、未だ慣れない自分自身が、滑稽な気がしたからだ。
 暗闇の中、静かな時間を耐え抜くと、やがて早まっていた動悸が落ち着いていく。最後にもう一度深呼吸をすると、リリアナは再び寝台に横になり、朝が来るのを待つ事に決めた。
 闇に慣れた目が、隣に眠る人影を見つけたのはその時だ。
 震えがおさまったばかりの唇が、ゆっくりと笑みを浮かべはじめる。つい先ほどまでリリアナを恐怖に陥れていた夢が、霧散して消えていく感覚――夢の中で失った幸福が、再び目の前に現れた安堵は、語り尽くせるものではなかった。
 リリアナは自らの肩まで毛布を引き上げ、温かな寝所の準備をすると、目を伏せず、隣に眠るエアの寝顔を眺めた。
 リリアナの記憶に今も色濃く残る少年時代のエアと比べて、見た目は随分と成長している。元々高かった背は更に伸びていたし、畑と農具をを捨てて剣の道を進んだと言うだけあって、逞しい体つきになっている。顔立ちも大人っぽくなり、元聖騎士団小隊長と言う肩書きと合わせると、理知的に見えない事もない。
 思い出と現実がかみ合わない事実は、離れていた時間の長さをリリアナに思い知らせ、胸の中に暗い霧を生み出す。だが、外見は変わっていても、中身がちっとも変わっていない事実は、その闇を掃い飛ばすだけの力を持っていた。
 エアは昔から、いつも寂しそうにしていた。だから、寂しさを埋めてくれる相手を求めていた。家族を失ってからのエアには、「寂しさを埋めてくれる相手」がリリアナ以外におらず、だから彼は、成人と共にリリアナを伴侶に選んだのだ。
 それを知っていたからこそ、リリアナは地上の女神となる事を恐れていた。リリアナを失ったエアがどう生きていくのか、不安で仕方がなかった。絶望のまま死を選ぶ可能性は捨てきれなかったし、生きてくれるのだとすれば、リリアナ以外の「寂しさを埋めてくれる相手」を見つけていると言う事で、それもまた悲しいと思ったからだった。
 だがエアは禁忌を犯し、リリアナの前に現れる。
 恐ろしく愚かしい事であったと思う。しかしリリアナは、それ以上に嬉しかった。エアが、死もリリアナ以外の存在も選ぼうとせず、リリアナだけを支えに生き続けてくれた事、神へ反逆してもなお、リリアナを得る事を求めてくれた事に、強い喜びを感じていた。
 この男を生かす事ができるのは自分だけ。
 優越感に似た幸福がリリアナの中に湧くと共に、この男の心に応えたいとの願望が強まった。全てを捨ててリリアナの元に駆けつけてきたエアに応えるには、自分も全てを捨てるしかないと思った。見捨てる事ができないからこそ地上の女神として勤めていたリリアナにとって、捨て去る事はやはり恐ろしかったが、意外なほどにあっけなく、リリアナは今ここにいる。
「ん……」
 エアが小さく声を上げ、寝返りを打つ。
 慌てたリリアナは咄嗟に頭を枕に預け、目を伏せて寝たふりをしようとしたが、エアが目を開ける方が早かった。暗闇の中で目が合うと、普段よりも照れくさく、誤魔化すためにリリアナは小さく笑う。
「もう朝か?」
 寝ぼけた目をこすりながら問うエアに、リリアナは答えた。
「まだよ。外はまだ暗いから、もう少し寝ていても大丈夫」
「そうか……」
 エアは小さく欠伸をして、仰向けの姿勢になると、再び目を伏せる。
「怖い夢でも見たのか?」
 エアは眠ったのだと思い込んでいたリリアナは、エアが目を伏せたまま声を出した時、驚いて息を飲んだ。
「寝直したんじゃなかったの?」
「寝直そうと思ったが、少し気になってな。お前の妹たちが以前話していた事を思い出したんだ。リリアナは怖い夢を見て起きると、もう朝まで眠れなくなってしまうとか、ひとりで寝る事もできず、怖さを紛らわすために妹たちの寝台にもぐりこんだとか」
「ちょっと。それ、十歳くらいの頃の話よ。今の私とその頃の私を一緒にしないでちょうだい」
「何だ、違うのか」
 リリアナは返答まで僅かに間をあけた。
「違うわけじゃないけど」
 唇を尖らせながら答えると、押し殺した笑い声が耳に届く。「もう」と不満を言葉で表してみたが、自分が一方的に負けている事を自覚しているリリアナは、諦めて枕に顔を埋めた。
 直前の記憶を頼りに、暗闇の中で手を伸ばす。リリアナの手が、無造作に放り出されていたエアの手に重なると、エアは優しくリリアナの手を握ってくれた。
「夢を見たのはね、私の十六歳の誕生日が、あと三日に迫ったあの日」
 正直に告げると、リリアナの手を握る大きな手が、僅かに強張った。
「地上の女神になってからも、何度も何度も夢に見たの。あの日からやり直したいって、思い続けていたからだと思う。あの日、迎えに来た人たちに従わなければ、貴方の十六歳の誕生日の日に交わした誓いを守れたのかもしれないって、ずっと後悔していたから。貴方の妻になって、どこよりも早く春の訪れを教えてくれる花畑を、貴方や、新しく産まれてくる家族と一緒に、毎年見に行きたいと望んでいたから」
「ならもう、夢に見る必要はないな」
 エアの声は手の温もりと共に、優しくリリアナの胸に染み入った。
「そうかもしれないけれど、やっぱり私は悲しいの。もう誓いを全うできないって判っているから。砂漠の神殿を飛び出して、貴方とこうして一緒にいて、貴方の妻になる事は叶ったけれど、二度と村には帰れないから、貴方との約束を守れなくなってしまった――ああ、何も言わないで、エア。貴方の事だからどうせ、花畑の方の約束はどうでもいいって言うんでしょう? そりゃね、私だって、一番大切なのは貴方と居る事の方だって判ってる。けれど、交わした約束は、全てが大切なものなのよ」
 リリアナはもう一方の手を伸ばし、エアの手を包み込んだ。農夫をしていた頃とは違うくたびれ方をした、いくつもの傷が刻まれた手が、そばに居られなかった日々の彼の苦労を語っているようだった。
「もうどうしようもない事だろう」
「そうなの。どうしようもない事なの。だから私はもしかしたら、一生同じ夢に苦しみ続けるのかもしれない」
「馬鹿馬鹿しい」
 エアと言う男が、心を開いた人物に対して遠慮なくものを言う人物である事を、リリアナは理解していたので、心を開いてくれているのだと嬉しく思う事も多々ある。だが、さすがにこれは許しがたいと、顔を上げてエアを見下ろす。
「馬鹿馬鹿しくなんか……」
「俺たちには、新しい方の誓いがあるだろう」
 暗闇の中、リリアナとエアの視線が真っ直ぐに重なった気がした。それはとても意味のある事なのだろうと感じながら、はっきりと確認するのは野暮な気がして、相手に見えているかも判らないまま、リリアナは華やかに微笑む。
 新たな誓い。
 最初の誓いを引き裂いた神の前で、共に生きようと、もう二度と離れないと、交わした約束。
 今度こそ、果たされるならば。この男とずっと一緒に居られるならば。
「エア」
「何だ」
「私、幸せよ」
 リリアナは再び枕に顔を埋め、目を伏せる。
「本当に、幸せ」
 果たすべき役割を投げ捨てた自分がこの先どうなるのか、リリアナには判らない。自分を探す誰かに捕らえられるかもしれないし、罪を問われ、罰を受ける事になるかもしれない。
 それでも行ける限り、叶うならば死によって引き裂かれるその時まで、この男と共に歩みたいと、リリアナは願っていた。誓いを今度こそ全うするために、繋いだ手を離さないために。
「そうか」
 そっけない返事に、リリアナは笑みを浮かべる。
 エアがどのような表情を浮かべているのかを確かめようとはしなかった。きっと同じように微笑んでいると言う、確信があったからだった。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.