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忘れてしまうには愛しすぎ、言葉にするには悲しすぎた。


 シェリアの記憶に残る限りでは四人目となる護衛隊長は、過去の護衛隊長たちといくらか違っていた。
 流れるような動作でシェリアの前に跪く様はほとんど同じだが、これまでの三人は、シェリアと初対面した瞬間、畏まって頭を下げたまま顔を見せようとしなかった。しかしこの男はどうだろう。両目を見開いてシェリアを凝視したままなのだ。
 口にするのは、簡単な自己紹介や、護衛隊長になれて誇らしいとか、命に代えてもお守りしますとか言った、繰り返し聞いてきた言葉たちと同じだったが、シェリアはすぐに男の顔と名を覚えた。顔をはっきりと見せる態度が、印象に残ったからだ。
 ハリス・リーベルと名乗った男は、ひと通り語り終えた後も、シェリアから目を離さなかった。瞬きすらろくにせず、ただひたすらシェリアを見上げている。
 目が乾きはしないのかと疑問に思いながら、シェリアが無言でハリスの観察を続けていると、突如異変が起こった。ハリスが瞬きをすると同時に、彼の双眸からこぼれ落ちるものがあったのだ。
 シェリアはそれが涙と言うものであるのは知っていたが、なぜ今それがハリスの目から流れ落ちるのかは判らなかった。何か異物でも飛び込んだのか、差し込む光が眩しすぎる故か――ここが大聖堂でなく、シェリアのそばに大司教や聖騎士団長が立っておらず、自由に質問する事が許される時間であったならば、素直な問いを口にしていたかもしれない。
 問いかける事ができない代わりに、シェリアは無言で手を伸ばした。ハリスの頬を伝うものが、シェリアの知る涙と同じものなのか確認するために。
 そう、シェリアの目には、ただの涙として映っていなかった。ただの涙だと思っていれば、これほどまでに興味を抱く事も、触れてみたいと望む事も、自らが持つ力の発動条件を忘れて手を伸ばす事も、けしてなかったはずなのだから。
 シェリアの細い指先が、僅かに濡れるとほぼ同時にハリスの頬に触れる。するとハリスの体は、後方へと吹き飛んで行った。
 ハリスの体が大聖堂を支える柱のひとつにぶつかり、ハリスが呻き声を上げると、大司教と聖騎士団長は揃って息を飲んだ。この展開は、シェリアの力を知らないハリスにとっては当然予想外だっただろうが、シェリアの力を知っている大司教たちにとっても予想外だっただろう――事を起こした張本人であるシェリアにとっても予想外だったのだから。
 柱を背に崩れ落ちるハリスの姿を見つめていたシェリアは、己の手を見下ろす。指先はハリスの目から流れ落ちたもので、まだ少しだけ濡れていた。
 罰するべきではない者を罰してしまった。
 シェリアにとって、今の自分がハリスに対して行った事は、許されざるものであった。エイドルードから授けられた力は、エイドルードが罰するべきと定めたもの――たとえば魔物や、罪を犯した人間――に対して使うべきであり、ただシェリアの前に跪いていた男に対して使うべきものではないのだ。
「大丈夫か、ハリス」
「はい。問題ありません」
 背中を強く打ち、正常な呼吸すら取り戻していないと言うのに、ハリスは立ち上がろうとしていた。主の前で無様な姿を見せる事を拒むように。
 小さな足音を立て、長い金の髪を揺らし、シェリアは歩きはじめた。大司教たちの無言の動揺が空気を介して広がったが、シェリアはそれを察する事なく、立ち上がったハリスの前で足を止めた。
 ハリスは再び跪く。今度は深々と頭を下げていた。
「顔を上げなさい」
 命じると、ハリスは顔を上げ、シェリアを見つめる。瞳はすでに乾いており、涙の痕跡は拭いさられていた。つい先ほどまで涙していた事が、夢か幻であったかのように。
 目に見えなくなったからと言って、ハリスの涙に対する興味や疑問が、シェリアの中から失われたわけではない。しかしシェリアは、二度とハリスへ手を伸ばそうとはしなかった。それが正しいと信じて疑わなかったからだ。
「ハリス・リーベルへ命じます」
「はっ」
「今後二度と、わたくしに触れる事のないようにしなさい」


「じゃあ、また明後日な」
 シェリアとカイがザールの町に居を構えてからこちら、毎日のようにカイの元を尋ねてくる蜂蜜色の髪の子供が、扉の向こうへと消えていく。手を振るカイはいつも通り、子供の背中が見えなくなるまで庭先に立ち、見送りを終えてから家の中に戻ってきて扉を閉めた。
 シェリアは、書物へと落としていた視線を上げ、カイを見つめた。彼が口にした別れの挨拶が、いつもと違う事に気付いたからだ。
 見送る動作はいつもと変わらない。ではなぜ、投げかけた言葉だけが違っていたのか――シェリアは手にしていた本を閉じ、シェリアの正面に腰掛けたカイに問いかけた。
「なぜ、明後日なのです」
「ん?」
「いつもならば、明日の約束をしたはずです」
 王都からザールへと移ってから一年近い生活の中で、カイはいつも微笑んでいたと、シェリアは記憶している。その微笑み自体には、特に意味を見出してはいなかった。ただの事実として受け止めていただけで、良いとも悪いとも思っていない。
 だが、いざその微笑みが失われると、気にかかった。違和感となってシェリアの思考を刺激したのだ。カイに限らず、人が唐突にいつもと違う顔を見せる事には何か意味があるのだと、知識で知っている。
「明日は……ちょっと、色々あるから、な」
「そうですか」
「そうなんだ。だから、ナタリヤと遊んでやる余裕がなく、て……」
 語尾が震え、語りかけた言葉は途中でかき消える。
 カイは微笑みを取り戻していたが、いつもの笑みとは違うものだった。シェリアを見下ろす空色の瞳から、大粒の涙が溢れ出たのだ。
 なぜ、こんなにも唐突に涙するのだろう。外から入り込んだ風に土埃でも混じっていたのだろうか。悪い病にでも侵されているのだろうか。
 不思議に思ったが、それだけだった。カイが涙する理由よりも強い謎が、シェリアの脳裏を埋め尽くし、余計な事を考える余裕を失っていたからだ。
 シェリアは次々に零れ落ちる涙が床へ染み込んでいく様を眺めながら、小さく呟いた。
「判りません」
 カイは腕を使って乱暴に涙を拭う。
「俺が突然泣きだした事が?」
「はい、それもありますが」
「他にもあるのか?」
 驚くカイの声に、シェリアは素直に肯き、自身の大きく膨れた腹の上に乗せた手を見下ろした。
「今、わたくしが一番判らないのは、わたくし自身なのです。以前、今のカイ様のように、突然理由もなく、わたくしの目の前で涙した者がおりました。わたくしはその者の涙に興味を抱き、手を伸ばしてしまいました。ですがなぜ今、わたくしはカイ様に手を伸ばそうとしなかったのでしょう」
 頬に残る涙の跡も拳で消しさり、カイは微笑んだ。潤んだ瞳を除けばとても自然で、いつもシェリアに向けていたものと同じ笑みだった。
「その人ってのはもしかして、ハリスか?」
 シェリアは再びカイを見上げる。
「どうして判るのです?」
「君が以前、ハリスに対して『触れてはならない』と命令した事を知っているから。その命令は、君がハリスを守りたいと思って下したものだろう?」
 シェリアは長い間を空けてから小さく肯いた。
「たとえわたくしのせいで傷付いた者相手とは言え、過った判断でした」
 短く注釈を付けると、カイの微笑みは少しだけ歪んだが、それは彼がよく見せる表情のひとつであったので、シェリアは特に違和感を覚えなかった。
「ですが、それだけが理由では無いのです。かつてのわたくしは、わたくし自身の中にある、偉大なる父より授かった力を知っていながら、ハリスに手を伸ばしてしまいました。わたくしは、罪のない者を罰してしまったのです。その愚かさこそ、罰するべきだと考えました」
「うん。それで?」
「ですから……」
 だから、ハリスに命じたのだ。触れてはならないと。好奇心によって傷付いた者を守るために、好奇心によって過ちを犯した己を罰するために。
 その意味に気付いた時、シェリアは言葉を失った。誰に制止されるでなく、自ら語る事を途中放棄したのは、珍しい事だった。もしかすると、初めてかもしれない。
 なぜだろう。
 なぜ、その命令が、愚かな自身を罰する事に繋がると思えたのか。
 シェリアには理解できない事だった。答えや答えに繋がるものが、今日まで蓄えてきた知識の中を探しても見つからず、何も考えられないまま硬直するしかなかった。
「俺は今日まで、少し勘違いしていたのかもしれないな。君がハリスだけを特別に守ろうとしたのは、傷付けた事への償いや、ただの義務感によるものでしかなくて」
「もちろんです」
 けれど、もうひとつ。シェリアの知る言葉では片付けられないものが、シェリアの中に潜んでいる。
「でも君は、触れたいと望んだんだ。ハリスに――ハリスだけに」
 シェリア本人ですら正体が判らない何かに、カイは気付いているようだった。答えを欲したシェリアは、動き出すカイの唇を見つめた。
「それは間違いなく感情だよ、シェリア」
 感情。
 知らない言葉ではない。ただ、意図して使わず、眠らせていたものだった。贔屓や差別に繋がるそれは、神の娘として相応しくない。忘れ、失くしてしまうべきだと信じていたため、言葉自体を封じていたのだ――感情を表に出すリタやカイと出会い、やはり必要のないものだと思い直してからは、尚更。
 持って生まれてこなかったのではと思うほど遠い昔に忘れてしまったものが、まだ自分の中に残っていたのか。それとも、新たに生まれてきたものなのか。どちらにせよ、シェリアにとって忌むべきものであるはずだが、不思議な事に、今の自分を変えなければならないとの、義務感に駆られる事はなかった。
 だが、それが感情を発祥とする甘えであるとすれば、やはり忌むべきものだ。シェリアは自身を動かすものの正体を、確かめねばならなかった。
「名は、何と言うのでしょう」
「ん?」
「感情には、必ず名前が付いております。わたくしの中にあるものが感情なのだとすれば、何か名前があるはずです。それを、貴方は知っているのではありませんか」
 カイはしばしの間を空けて、シェリアの手を取った。両手で包みこみ、柔らかく触れた。
 笑みを形作る唇が震えている。シェリアの問いに答えようと、薄く唇を開いたがために。
 この歪んだ笑みにも、ただの笑み以上の意味があるのだろうか。意味があったとして、知る必要があるのだろうか。
「とても、言葉にできるものではないよ」
 カイの答えは、シェリアの問いに対する答えとして成立していない。
 だがシェリアは、それ以上を訊こうとはしなかった。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.