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貴方は許すことが出来ますか? 命さえ投げ出すその優しさを。


 土程度ならば簡単に抉ってしまうほどに強い雨の音が、唐突に消える。
 疑問に思ったナタリヤは、窓際に歩み寄った。眠っているユーシスを起こさないよう気を付けながら雨戸を開くと、晴れやかな空が、窓の外に広がっていた。つい先ほどまで雨が降り続いていた事が、嘘か冗談ようだ。
 少なくとも明日の朝まで降り続くだろうと覚悟していたナタリヤにとって、今の空の明るさは、単純に喜ばしいものだった。熱を上げて――元々熱があったと言うのに、雨に濡れたらしい――寝込んでいるユーシスを放ってどこかに行く気は元々無かったので、外に出る予定はないのだが、それでも雨よりは晴れの方が、気分が軽くなると言うものだ。
 ナタリヤはしばらくの間、窓枠に寄りかかったまま、湿気を含みつつも爽やかに感じる風を感じながら、窓の外を眺めていた。
 振り返ったのは、寝台の上で寝ているはずのユーシスの、掠れた声を察知した時だ。それはうめき声にも聞こえ、熱にうなされているのかと心配になったナタリヤは、早足でユーシスに歩み寄った。
 だが、杞憂だったようだ。深い眠りから覚めたユーシスは、落ち着いた様子で静かに呼吸しながら、薄く開いた目でナタリヤを見ている。
 ナタリヤが水を差し出すと、ユーシスは少しだけ嬉しそうにそれを口にした。随分汗をかいていたようだから、喉が渇いていたのかもしれない。あっと言う間に飲み干すと、一息ついて、窓の外を眺めた。
「雨、やんだんですね」
「はい。降りだしたのもいきなりでしたけど、やんだのもいきなりです。ずいぶん気まぐれな……」
「何か、したのかな……アスト」
 ユーシスの呟きに深い意味がありそうな気がしたナタリヤだったが、病人を詳しく問いただすわけにはいかないだろうと、自重した。元気になったら話を聞かせてもらおうと決め、もう一度眠るようにと指示した。
 素直に頷いたユーシスは、水を飲むために起こしていた上体を、再び寝台の上に横たわらせる。だがすぐに目を伏せる事をせず、温く長い息を吐いてから、ナタリヤを見上げた。
「一度、城に戻ってください」
 まだ熱のある病人に、突然そう言われ、ナタリヤは戸惑いのあまり一瞬だけ硬直した。
「なぜです?」
「貴女は、知らなければならない事が……でも、僕は、詳しく話せないから。晴れたなら、城に戻るのも、それほど大変ではないと、思うので……」
「ですが、貴方ひとりを置いては」
「平気ですよ。熱はありますが、体調も気分も、いいです。ひとりで、ゆっくり、眠らせてください」
 途切れ途切れに語ったユーシスは、言いっぱなしのまま眠りに落ちた。本人が語った通り体調も気分もいいのだろう、熱があるわりに穏やかな寝息だった。
 寝顔を見下ろしながら、ナタリヤは迷う。弱っている少年をひとり置いていくのは気が引けたが、彼が語った内容がひどく気にかかった。知らなければならない事、などと言われると、とても重要な事に思えるのだ。
「ごめんなさい。すぐ、すぐに、戻ります」
 ナタリヤは寝台から手が届く場所に、目覚めるかもしれないユーシスのために必要そうなものを思いつく限り並べてから、屋敷を飛び出し、駆け足で城へと戻った。

 城の中の空気はどことなく重苦しいものだった。
 アストが神の剣を手に洞穴へ向かった事だけをユーシスから聞いていたナタリヤにとって、この空気は予想外でしかない。魔物も魔獣の影も無い、地上の民が夢に見た世界がもうすぐやってくる事に、浮かれる者の姿がほとんど見えないのはなぜだろう。
 嫌な予感がする。ナタリヤは、急いで父の執務室へと向かった。この空気の正体ならば、その辺りを歩いている者を捕まえて訊けば判るのかもしれないが、ユーシスが残した言葉と合わせて、簡単に聞いてはいけない予感がしたのだ。落ち着いた形で話を聞くならば、やはり父が相応しいだろう。
 父の部屋の扉を叩くと、すぐに返事が来たので、ナタリヤは心もち焦りながら扉を開いた。
 父は机について、書類仕事をしていた。日常となんら変わりない光景だ。しかし、日常とずれた空気で支配された城内において、普段通りである事実は、違和感を覚える対象となった。
「ユーシスはどうした?」
「今、眠っております。放っておくのはどうかと思ったのですが、ユーシス自身に一度城に帰れと言われたので、少しだけ戻ってまいりました。私には、知るべき事があると」
 ナタリヤが言うと、会話しながらも忙しなく動いていた父の手が止まった。
「アスト様の話は、ユーシスから聞いているな?」
「はい。神の剣を手に、洞穴へ向かったと」
「そうか」
 父は羽根ペンを置き、両手を組み合わる。ナタリヤから視線をはずし、しばしの沈黙を保った。
 戸惑っているのか、悩んでいるのか。何にしろ良い予感はせず、ナタリヤの体に緊張が走る。早く聞きたいような、聞きたくないような、複雑な気分だった。
「カイ様が亡くなられた」
 父があまりにも静かな眼差しで見上げてくるので、ナタリヤは同じだけ静かな心で、父の言葉を聞いた。だが語られた内容は、静かな心で受け入れられるような事実ではない。
 理解にいたるまでに、長い時間を必要とした。理解と共に心が乱れていくのを感じた。
 いつも城のどこかにいて、優しく笑っていた人が。
 無礼極まりなかった幼き日のナタリヤを、友として受け入れてくれた人が。
 もう、居ないと?
「なぜ、です」
 カイとの名を持つ青年は、神の御子だった。
 誰もが彼を守ろうと必死だった。父もそうだ。聖騎士だった頃は――いや、聖騎士を辞めた今でも、カイを守るためならば、命を捨てる事も厭わない人だ。
 そんな父が、いや、父だけではなく、兵士たちも、聖騎士たちも、こうして生きていると言うのに、なぜ。
「カイ様は、神の剣へと生まれ変わられた。鞘となり、光の剣を包み込んでいたシェリア様のように」
 父の言葉はナタリヤを苦しめ続けた記憶の一端に触れるものであったが、ナタリヤの心が恐怖に震える事はなかった。
 ただ、痛く、苦しかった。記憶の中にある少女の、それまで微動だにしなかった美しい顔が歪んだ事を思い出して。
 カイも同じように苦しみ悶えたのだろうか。それとも、シェリアが鞘と化した時のように、受け入れきれないほどのものを受け入れて、静かであったのだろうか。
「知って……?」
 ナタリヤは唇の震えを止めようと、自身の右手を唇に重ねた。
「カイ様は、シェリア様の運命を、事前にご存知のようでした。まさか、ご自身のものも」
 父が辛そうに目を伏せ、小さく頷いたのを確かめてから、ナタリヤは父に詰め寄り、机に手を置いて身を乗り出した。
「知って、知っていて、こんな――地上の救済のために、お命を投げ出されたのですか、カイ様は!」
「そうだ」
「どうして……!」
 言葉は途中でつまり、その場に崩れ落ちたナタリヤは、机の上に顔を伏せた。
 どうしてもこうしてもない。一時の自身の命を守って地上と共に滅びるか、自身の命を捨てて地上を守るかの二択を突きつけられ、選択の重みに負ける事無く正気を保ち、効率のいい方を選んだだけに決まっている。
 間違っていないと思う。正しかったのだとも思う。だから、「カイ様は神の御子として立派な最後を遂げたのだ」と、受け止めなければならないのだろう。だがナタリヤの心は納得しきれず、焦燥感に苛まれていた。
 だってあの人は、穏やかに笑っていたではないか。
「今我らにできる事は、カイ様の悲壮な決意が無駄にならないよう、祈る事だけだ。アスト様がお役目を果たされた後も、やはり祈るしかあるまい。静かに安らかに眠られる事を願って」
 ナタリヤは震える拳に力を込め、体を起こした。
「父上がおっしゃる事は正しいと思います。ですがなぜ、今、そうも冷静になれるのです。今の父上は、まるで――」
 シェリア様の最期を見守っていたカイ様のよう。
「まさか父上も、事前に?」
 問い詰める強い口調でナタリヤが訊ねると、父は眉間に苦痛を刻みながら頷いた。
 知っていながら、黙って見送ったのか。それは、見殺しにするのと同じではないのか。
 父を責める言葉が次々とナタリヤの中に生まれたが、声に出す事はしなかった。それは、かつてのカイを責める事にもなると気付いたからだった。
 シェリアの死を目前にしたカイがどうしようもなかったように、父もどうしようもなかったのだ。いや、父は、それでもどうにかしようと努力していたのだろう。忙しい時間の隙間を縫って、歴史だけは長いザールに大量に眠る古い書物を読み漁っていたのは、何か突破口を探そうとしていたのだと、今なら判る。
「カイ様は、父上には何かおっしゃっておりましたか。辛いとか、悲しいとか、恐ろしいとか……運命を呪うような事を」
「いいや。お役目に対する弱音は、けして吐かれなかった。見せもしなかった。自分だけ苦しめばいいとばかりに」
「ならば、私はけして許せません、私は……」
 ナタリヤは溢れるものを抑えなかった。両の目から零れ落ちる涙も、唇を割って飛び出す感情も。
「知っていながらカイ様を見送る事しかしなかった、私をか」
 自傷じみた父の言葉を、ナタリヤは強く首を振る事で否定した。
「いいえ。地上の民全てに心中しろと、一度として口にしなかった、カイ様をです」
 実行する事は無理でも、言う権利くらいはあっただろう。言って、周りを困らせる権利が。それすらしなかったのは、生き残る地上の民への優しさのつもりだったのか。
 カイに訊きたい事はたくさんあった。ひとりで何を考えていたのか、どんな事を想ってきたのか。
 だが、もう訊く事はできないのだ。どうしてひとりで抱えていたのだと責める事も、謝ってもらう事も、できないのだ。いや、そんな事、できなくてもいい。生きていてくれれば。今まで通り、城のどこかで笑ってくれていれば。
 憎らしかった。行き場のない感情をこんなにも強く残して消えた男が、狂おしいほどに。
「許せない、か」
 父は短い言葉に悲哀を混ぜ、空気の中に落とした。
「未熟ゆえ、父上のおっしゃる通り静かに祈る事ができずに、申し訳ありません」
「謝る必要はない。私がお前の立場なら、お前と同じものを抱えただろう」
 ナタリヤは濡れた目を見開き、父親を凝視した。
「シェリア様が亡くなられた時、私はカイ様に言ったのだ。知らない事で、苦しみは減るかもしれないが、寂しさは増すのだと。判っていて私は、皆に寂しさを強制してしまった」
「それが、カイ様の望みであったからでしょう?」
 肯定を意味した父の曖昧な笑みを目にしたナタリヤは、両手で目元を覆った。どうしたところで止まりそうにない、拭っても拭っても追いつかない涙を、隠すために。
 自分も、父と同じ立場にありたかった。
 生前のカイと苦しみを分かち合う事で、純粋な悲しみに暮れながら、かの人の決断を受け止めたかったのだ。
「私……」
 泣き濡れる中でナタリヤは、自分の使命を思い出した。
 神の剣となったカイや、神の剣を手に魔獣と戦うアストのように、地上の命運を背負った役目ではない。だが、とても大切な役目であったし、役目を全うする彼らのためにも、果たさなければならなかった。
「ユーシスの屋敷に、戻ります」
 すぐに戻ると言ったのだ。涙が止まるまで待つだけの時間はない。立ち上がったナタリヤは、嗚咽を交えながら宣言した。
「大丈夫、だな?」
「はい」
「判った。よろしく頼む」
「はい」
 父親の視線を振り切るように、ナタリヤは部屋を出た。
 父の部屋を訪ねるまでは、意味の判らなかった重い空気が、今のナタリヤには心地よかった。皆、同じ気持ちを抱いているのだと、教えてくれるようで。
 泣きながらユーシスの屋敷を目指して歩き続ける途中、ナタリヤはふと思い立ち、空を見上げた。
 涙で歪んで見える空は、それでも美しく清々しい。忌々しく感じてしまうほどの輝きは、今にも折れそうなナタリヤの心を、更に沈めようとしているかに感じた。
 ナタリヤは思う。雨がやまなければよかったのに、と。
 雨はきっと、止まる事のない涙を、洗い流してくれただろうから。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.