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許しよりも罰を下さい。罪を忘れずにいられるように。


「アシュレイ・セルダとエア・リーンの両名が神の御子を連れて逃走」との噂が、瞬く間に聖騎士たちに広がったのは、夏の暑さを完全に忘れ去った秋の一日だった。
 当時聖騎士団の中でのふたりの扱いは、「汚名を着る事も厭わず、エイドルードの意志の元難題を乗り越え、地上の希望たる神の子の生誕に一役買った英雄」と言ったものであったので、その印象を覆す噂が広がった時、多くの聖騎士たちは大きく動揺した。動揺したからこそ、噂は簡単に広がったのかもしれなかった。
 ざわつく聖騎士たちの輪から外れて見守るハリスも例外ではなく、内心では彼らと同じくらい、あるいは彼ら以上に、強く動揺していた。もしハリスが、他者の目に落ち着いているように写るほど冷静なふりをしていられているのだとすれば、それはきっと、動揺した理由が違っていたからだ。
「このまま御子様が大神殿に戻られぬ場合、どうなるのだろうな?」
「御子様は地上の救済のための役目を知らないまま、なのではないか?」
「そうなるだろうな」
「すると――地上の救済はなされない、と?」
 ほぼ正しい噂に無責任な予想を混ぜ込みながら語り合う中で、英雄たちの裏切りよりもなお衝撃的な現実に気付いた若き聖騎士たちは、いっそう強い動揺に飲み込まれ、次々と言葉を失った。
 少しだけ静かになった空間の中、ハリスは目を閉じる。同時に心まで閉じ、たったひとりきりの世界を作り出す。
『約束してください』
 今にも英雄から罪人へと転落しそうな男のひとりに対し、ハリスがそう語りかけたのは、もう二年ほど前の事だ。
 あの時彼は、愛した娘を取り戻す事を、愛した娘を約束された死から解放する事を望んでいた。
 そうしたければすればいいとハリスは思った。同時に、だからと言って地上を滅ぼすような真似だけはしてくれるなと、願った。
 だが、エアはハリスの願いを裏切った。
「約束する」と、あの日確かに言ったはずなのに――交わした約束を、破ったのだ。あの男は。エア・リーンは。
「ハリス!」
 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、ハリスは目を開けると同時に振り返る。長い通路の向こうから、同じ隊に所属するいくつか年上の聖騎士が駆けてくる様子を目にすると、背筋を伸ばして姿勢を正した。
「こんなところに居たのか。ようやく見つけた」
「お手数おかけしたようで、申し訳ありません」
「いや、気にするな。休憩時間なんだから、どこに居てもお前の自由だ」
「何かありましたか?」
 男は軽く肩を竦めてから答えた。
「隊長より、第六小隊の隊員全てに緊急の収集命令がかかっている。他の者には全て声をかけた。あとはお前だけだ」
「何か、緊急の任務でも?」
 男は未だ噂話に興じる聖騎士たちを見回した。
「……だろうな。状況が状況だけに」
 男の短い言葉から、彼が予想しているものと自分が予想しているものは同じなのだろうと、ハリスは感じ取っていた。
 その予想は、ハリスが望んでいる事によく似ていた。
 そう、ハリスは、エアとの約束を守りたいのだ。たとえエアが、ハリスとの約束を破ったのだとしても。

 二十数年も生きていれば、現実全てが自分の思い通り予想通りにならないものだと言う事くらい、ハリスとて理解している。だと言うのに、今隊長の口から言い渡された任務が予想と食い違っていた時、ハリスは大きな衝撃を受けた。
「アシュレイ・セルダ追跡任務には第一、第三、第四小隊が、エア・リーン追跡任務には第二、第五、第七小隊が着く事となった。故に、我々は直ちにオーデルへと向かい、オーデルの調査任務に就いている第五小隊の任を引き継ぐ事になる。事態は急を要するため、出発は明日の朝と決定した。今日はこれ以降訓練も警戒任務も休み、明日の準備に務めるよう。以上だ」
 同じ隊の仲間たちは、突然言い渡された半日の休暇と、明日からの遠征任務に、強く戸惑っている。
 その中でハリスは、ただ呆然とするしかなかった。隊長が語る言葉が理解できなかったのだ。
 全て理解できなかったわけではない。自分が所属しない隊の者たちがアシュレイとエアを追い、その代わりに彼らが今日まで就いていた任務を自分たちがするのだとは、理解できている。
 神の御子を迎えに行った第十四小隊――ひとつの隊が二手に分かれて行ったらしい――の者たちが、誰ひとりとして任務を果たさず、手傷を負って帰ってきた。それは、アシュレイとエアがそれぞれ、大司教及び聖騎士団の意向に刃向かう意志を見せたと言う事だ。大司教や聖騎士団の上層部はそれを重要視し、ひとりにつき三隊もの聖騎士を向かわせると決めた。それも、判る。
 小隊は基本的に、実績や能力を鑑みて優秀である隊長ほど小さい番号をもらう。それはほぼ、番号が小さい隊の方が優秀である事を意味する。今回の追跡任務に、第一小隊を筆頭にできる限り数が少ない方から六隊を選んだと言う事は、聖騎士団の歴史上においても有数の剣の使い手であるアシュレイとエアを、上が脅威としている証だろう。そこも、もちろん判る。あのふたりは、とにかく強かったのだから。
 ならば、どうしてこうなるのか。
「なぜですか」
 隊長の指示に従った隊員たちのほとんどが部屋を出た頃、ようやく正気を取り戻したハリスは、率直な疑問を隊長へぶつけた。
「急な事だ。王都を離れられない事情があるならば考慮する」
「いえ、遠征に参加する事には、何の問題もありません」
「ではさっさと自宅に戻れ。それとも宿舎か?」
「なぜ我らが調査任務なのですか?」
 ハリスは立ち上がり、新たな問いを隊長に向ける。
 第一小隊から第五小隊ときて、なぜわざわざ第六小隊を飛ばして第七小隊を使うのだろう。遠征している第五小隊を呼び戻すくらい、少しでも強い戦力を望んでいると言うのに、意味が判らない。
「調査任務が不服か」
「そうではありません、ただ、普通に考えれば、第五小隊はそのまま任務を続行し、我々が追跡任務を行うべきではありませんか? あるいは、第五小隊の代わりを第七小隊が務めるか……」
「お前は以前、エア・リーンが失踪するまで、第十八小隊に所属していたな」
 唐突に過去の事実を突きつけられ、ハリスは無言で頷いた。隠しようのない、隠すつもりもない、誇るべき経歴だ。
「聖騎士団長のご指示により、アシュレイ・セルダとエア・リーンの直属の部下を年単位で務めた者が所属する隊は、追跡任務から除外する事にしたそうだ。情に絆される事を危惧したのではないか?」
 ハリスは自身の心臓が高く鳴るのを感じた。
「俺のせい、ですか」
 ハリスが呟くと、隊長は失笑しながらハリスの肩を叩いた。
「ならば、私のせいでもあるな。私もかつてはアシュレイ・セルダの部下だった」
「それは……」
「気にするな。大半の者は、私やお前のせいとは考えていない。むしろ、私やお前のおかげだと思っているだろう」
 ハリスがこの隊長の下に就いて、もう二年ほどになる。その、けして短くない時間で聞いた中で、最もと言って良いほどに、優しい声だった。
 しかし今のハリスの心は、優しさによって慰められる事はない。
 ハリスはただ立ち尽くしていた。守れない約束の事ばかりを考えながら。

 オーベルは王都より三日ほど南西に進んだ所にある山裾の町だ。
 エイドルードが魔物を鎮めるために張った結界は大陸全土を覆っていないため、大陸の沿岸部や、いくらか内陸に進んだ程度の場所は、魔物が出現する事がある。その境界線を見極める事や、時に境界線を越えて侵略してくる魔物たちを討伐する事、境界線の向こうに生きる魔物たちの生態を調べる事が、これまで第五小隊が就いていた任務だった。
 それなりに身の危険はあれど、緊急性はさほどない任務に就いていたせいで油断があったのか、第五小隊の面々は突然の事に随分驚いたようだった。事前に伝令を飛ばし説明があったはずだと言うのに、やってきた新たな小隊と、その隊長が携えてきた聖騎士団長直筆の命令書を見て、改めて驚くほどの戸惑いようだ。それほどに、アシュレイ・セルダやエア・リーンがしでかした事を信じられなかったのかもしれない。
 とは言え、後任が来た事で現実を受け入れざるを得ない状況に陥った彼らの行動は早かった。速やかに調査任務の引継ぎを済ませると、新たな任務のための旅立ちの準備をはじめる。
 急に忙しくなった彼らには、余計な事に時間を割く暇などないのだろう。判っていながらハリスは、第五小隊に所属するひとりの青年と話がしたいとの望みをどうしても捨てきれず、機会を伺っていた。
 ようやく掴んだ機会は、第五小隊が出発する日の早朝だった。
「ジオールさん」
 短い間だが同じ隊に所属していた事もある彼は、その時ひとりで厩に居た。実に彼らしく、集合に指定されていた時間よりもだいぶ早く起き、出発の準備を整えていたようだ。
 普段から無表情に近く、感情が読みにくいジオールは、今もやはり静かな表情をしており、何を考えているか判らなかった。ただ、あまり歓迎はされていないだろう事を肌で感じ取ったハリスは、ごまかすように微笑みながら近付く。
「突然の追跡任務、お疲れ様です」
「それが我々の勤めだろう」
「まあ、そうですけど」
 表情とそっくり同じ、どこか固くてとっつきにくい語り口調で、そっけなく返された。もはや微笑みでごまかす事は難しいと悟り、ハリスは目を細めてジオールを見上げる。
「わざわざそれだけを言いに来たのか」
 ハリスからやや遅れてジオールも目を細めたが、それは眼差しを柔らかくするためではなく、むしろ冷たく鋭くするためだった。
 ジオールの中に宿る怒りが、無言によって空気中に広がっていく感覚がする。その怒りはあくまでエア・リーンやアシュレイ・セルダに向けられたものであると判っていながら、ハリスは必死に逃れようとして顔を反らした。
「貴方が、羨ましいです」
 顔は背けたが、気持ちの上で逃げるわけにはいかず、ハリスは素直な気持ちを告げる。
「エア・リーンを追う事ができるからか」
「はい」
「裏切られたのは等しく同じ……いや、より長い時間あの男の下に居たお前たちの方が、傷は深いか」
「どうでしょう。それは人それぞれだと思いますが――俺は、あの人を捕まえたいと思う以上に、捕まえなければならないと言う使命感があるんです。それなのに、今の俺の任務は、ここオーベルに留まる事。これではあの人に近付く事すらできない」
 ジオールはハリスを見下ろす瞳に疑問の色を混ぜ込んだ。
「今、エア隊長がこうして逃げて、貴方たちが追わなければいけないのは、俺のせいでもあるのに――俺の罪でもあるのに」
 単なる自惚れかもしれない。ハリスが存在していようといまいと、何をして、何を語ろうと、エアの現在は変わらなかったであろうから。
 けれど、あの日彼を引き止めなかった事実が、ハリスの心を苛むのだ。
「俺は他の皆より少しだけ、エア隊長の事を知っていました。判ってたんです、はじめから。エア隊長はこうするだろうって。御子様を連れて逃げたって聞いた時、皆と同じように衝撃を受けながら、『やっぱりか』って、納得している部分も大きかったんです」
 ジオールは長いため息を吐いた。
「どうやら、聖騎士団長のご判断はすばらしいものだったようだ」
 落ち着いた深みのある声が、強い呆れをハリスに伝える。
「裏切りを受けた者が情に絆される事を危惧する必要はなどあるのだろうかと疑問に思っていたが、君を見て考えが変わった。団長はやはり賢明な方だ」
「何を……」
「君がエア・リーンの前に立とうものなら、捕らえるどころか逆に逃がしかねん、と言う事だ」
 そんな事はない。
 即座に浮かんだ反論は、しかし上手く言葉にならなかったので、ハリスは強く首を振る事で抗議した。
 逃亡の手伝いをするなどと、ありえない。ハリスがエアを捕らえたいと思うのは、個人の感情が届かない部分にある使命感によってなのだ。罪を犯したものが当然のように抱く罪悪感、そこから生まれる償いの意識によってなのだ。だと言うのに――
 ハリスはもう一度首を振った。今度はジオールに訴えるためでなく、自分を落ち着けるために。ふう、と小さく息を吐くと、拳にこもっていた力も抜けた。
 ハリスは一度、エアを逃がした事がある。それは事実だ。信用してくれと訴えたところで、信用してくれる者の方が少ないだろう。それは仕方のない事だ。
「仮に俺が、あの人の逃亡を手伝いたいと思っていても、それでも追って、捕まえます。それが俺に与えられるべき罰なんです。なのに、どうして……」
 ジオールはしばらくの間、静かな目でハリスを見つめたままだったが、やがて一瞬だけ目を閉じた。
 眉間に寄ったままの皺が、変わらぬ怒りを示している。だと言うのに、穏やかな表情に見えた事が、ハリスは不思議でしかたがなかった。
「ならば君の罪は、神に許されたのかもしれないな」
 ハリスは目を見開き、ジオールを凝視する。
「あるいは、容易に償う事を許されなかったかの、どちらかだ」
 それだけ言うと、ジオールは愛馬の手綱を引き、無言で厩を出て行った。
 残されたハリスは、しばらくその場に立ち尽くす。呆然としていたが、暗く淀んでいた心が、少しずつ晴れていく気がした。
 それほどまでに明るく、眩しかったのだ。神に許されたのかもしれないと言う、ハリスひとりではけして思いつかなかっただろう可能性は。

 あの日、第五小隊の出立を見送っていた自分は、静かながらも強烈な歓喜の中に居たのだろう。十五年もの長い時が過ぎた今、ハリスはふと思い出す。
 先の事を大して考えようとせず、ただ目の前に居た男の幸福を願って送り出してしまった事は、愚かさが生んだ罪でしかなく、償って当然だった。だと言うのに当時のハリスは、本気で神に許されたのだと信じ込んだ。追わなくてよいのだと、この手でかの人を捕らえなくて良いのだと、自分が犯した罪を忘れたかのように、心から安堵していた。
 なぜ、そうも簡単に信じられたのだろう。ジオールはわざわざ、もうひとつの可能性も提示してくれていたと言うのに。そちらの方がよほど、ありえる話であったと言うのに。
 あの時、根拠なき安堵に身も心も静めていなかったら。
 何かしらの形でエア・リーンを追い、罪を償えていたら。
 きっと、全く違うものになっていたに違いない。かの人が向かえた結末も、ハリスが抱え続ける苦い感情も。
「ハリス?」
 名を呼ばれ、ハリスは振り返る。光を浴びて淡く輝く金の髪を緩やかな風になびかせる、美しい少女がそこに立っていた。
 氷のように冷たい、空色の瞳。感情に揺るぐ事を知らないそれは、常にハリスの胸を締め付ける。
 痛みはけして優しいものではなかった。だが今のハリスは、苦しむ事を進んで受け入れる事ができた。
 これは、罰なのだ。若き日に犯した、ふたつの罪の。
「失礼いたしました。少々考え事を」
 ハリスは苦いものを飲み込みながら、少女に優しく微笑みかける。
 決めたのだ。自分はもう、ただ罪を許される事など、望みはしまいと。
 罪には罰を。贖うまでけして忘れる事ができないだけの痛みを。
 それこそが、正しい形なのだから。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.