INDEX


何もいらない。だからどうか幸せでいて。


 リタは長い螺旋階段を上っていた。
 普段から上り慣れている、自室がある塔のものではない。十数年前に何度か上った事がある程度の、かつて数ヶ月の間だけカイのものであった、南の塔の階段だ。
 選定の儀を終えたカイがザールに移ってから、随分と長い間、この塔には主が居なかった。神の御子のために建てられた塔なのだから、当然と言えば当然だろう。生半可な者が住居にできるものではないのだから。
 だが今、塔は十数年ぶりに、相応しい主を得ていた。
 塔の高さや広さの割に、中に滞在している者は少ない。だから、静けさは相変わらずだ。だと言うのに、生き生きと賑やかな空気が満ち、明るくなったように感じられ、リタは不思議な気分だった。
「アスト?」
 階段を上りきったリタは、最上階にある部屋に繋がる扉を叩きながら、部屋の主に声をかける。しかし、しばらく待ってみたものの、返事はなかった。
「中に居ないわけないでしょうよ」とひとり呟いたリタは、豪快なため息を吐いてから、遠慮なく扉を開けた。
 リタが予想していた通り、主は部屋の中に居た。中心にある小さな円卓を囲む椅子に腰かけた彼は、円卓の上に重ねた自身の両腕を枕にして、穏やかな寝息を立てている。リタが勝手に部屋の中に侵入している事に、気付いた様子はなかった。
 そんな眠り方じゃ、取れる疲れも取れないでしょうに。
 眠るアストを微笑ましく思う半面、少し悲しく感じたリタは、優しい眼差しで彼を見下ろした。
 場所に構わず眠ってしまうのは、仕方のない事なのだろう。救世主としての役目を終えたアストを待っていたのは、休息ではなく、忙しない日々だったのだから。
 魔獣との対峙によってくたびれた体を休ませるのもそこそこに、王都に連れてこられたアストは、それまで会った事もなかった――記憶にも残らない赤ん坊の頃を除いて――大司教やら国王やらと対面したり、いかにも面倒くさそうな顔が並ぶ宴に参加させられたりしていた。それだけでもかなり気疲れしただろうに、昨日からはとうとう、訪れた平和を祝う盛大な祭がはじまってしまったのだ。地上の民にとって脅威無き安息の象徴とも言えるアストは、当然のように朝から晩まで王都中のあらゆるところに駆り出されていたので、ゆっくり休む間など少しもなかっただろう。
 静かな寝息を聞きながら、リタはふと思い出す。「役目を終えれば自由になれる」と言葉を残して消えてしまった男の事を。
 今現在のリタは自由とは縁遠い状況――立場上リタはほぼ常にアストの隣に置かれているので、当然似たような状況だ。アストより元気が残っているのは、大勢の民の前に出る状況に慣れているからにすぎない――にあるが、それでも、カイを嘘吐きと詰るつもりはなかった。リタも、そしておそらくはアストも、こうなる事は予想できていたのだ。多くの地上の民にとって、アストは世界の変革を成し遂げた救世主であるし、リタは救世に協力した神の娘なのだから。
 英雄の傍らに座り、微笑み、民の憧れの存在である事を、いくらかの間我慢する事は、自分の義務で、役目だ。リタはそう考えている。だから、今の状況がさほど辛いわけではない。
 辛いと感じるのは、「自分はいつまで神の娘なのだろう」と、考える時だった。
 リタはできる限り足音を殺してアストに近寄り、同じ円卓に備え付けられている椅子に腰を下ろす。
 ゆっくりと目を伏せながら、リタは思う。自由に生きなければと。カイの想いに報いなければ、と。
 こんな、義務感にかられるような言い方は間違っているだろうか。カイは喜ばないだろうか。けれど、それこそが、嘘偽りなき、リタの正直な想いだった。
 カイがくれたものに報いたいと、心から思うのだ。そのためには、神の娘と言う重責から解放される必要があるのだとも。いっそ全てを捨て、旅に出るのはどうだろうと考える事がある。長い時をかけて大陸中を回り、アストが、シェリアが、カイが、命をかけて守ったものを、この目で見てみたいと。必ず行くと約束したきり足を運ぶ事ができなくなったトラベッタへ行ってみるのもいいかもしれない。もうできないカイの代わりに、彼が愛した父ジークの墓に花を供えるのだ――
「それも夢、かな」
 呟いてからリタはため息を吐き、未だ眠るアストを再度見下ろした。
 角度を変えて見る事で、アストが頭の下に敷いている彼自身の手のそばに、ふたつの小さな輝きがある事に気が付いたリタは、小さく動揺した。いつの間にか随分と大きくなっていたアストの手に驚くふりをして気分を落ち着けてから、もう一度、淡い空色の輝きを見つめる。
 それはアストにとって一番大切な両親の形見で、地中深くから帰還してからこちら、ずっと大事にしていたものだった。現在のアストの疲れた心を慰めてくれる、数少ないものでもあるのだろう。だからリタは、ほんの僅かな時間でもそれをアストから奪う事を申し訳なく思い、彼の手の中で輝く様子を黙って見つめるのみだった。
 だがそれらは、リタにとっても大切で、叶うならば手にしたいと強く望むものでもある。一方は、あまり上手く交流ができなかったとは言え確かに血を分けた双子の姉であるし、もう一方は、結ばれる事が叶わなかったとは言え心から愛した男なのだから。
 少しくらいなら、触れてもいいだろうか。アストが眠っている間だけでも。
 僅かな罪悪感と緊張感を抱きながら、リタはそっと手を伸ばした。
 そっくり同じ形状をしたふたつは、どちらがシェリアでどちらがカイなのか、まったく区別がつかない。判らないままどちらか一方に触れる事をためらったリタは、両方の石に同時に触れた。
 冷たく硬質な感触が指先から伝わってくる。刹那、淡かった輝きが力を増した。
「何っ!?」
 リタは小さく悲鳴を上げながら、咄嗟に身を引いて宝石から離れたが、輝きは弱まる事なく、部屋の中を照らし続ける。
 明るさのせいか、それともリタの声のせいか、目を覚ましたアストは、ゆっくりと体を起こし、目の前で光る宝石を呆然と見下ろした。
「リタさん……?」
 アストは大きく開いた目を向ける先を、宝石からリタに移した。
「ご、ごめんねアスト。ほんのちょっと触ってみたいと思っただけなんだけど、どうしてか」
 うしろめたい気持ちが手伝って、リタは即座に謝罪を口にする。
「大丈夫かな。元に、戻る?」
「どうだろう」
 肯定とも否定ともとれない、アストの淡々とした返事に、リタは大きく落胆した。
 触れられなかったとしても、アストの手の中にあった優しい輝きを見るだけで、リタは癒されていたのだ。それが、この先ずっと失われたままだとしたら、とても悲しい事のような気がした。まして、自分のせいで失ったのだとしたら。
「やっぱり、私が触ってはいけないものだった……?」
 輝く空色は、地上に僅かに残った、シェリアとカイの欠片。その異常な輝きが自分のせいならば――まるでふたりに拒絶されているかのようだ。
 悔しさのあまり、リタはきつく唇を噛む。
「そうじゃないよ」
 アストはやはり淡々とした声で、リタが抱く不安を払う言葉を紡いだ。そして両手にひとつずつ宝石を掴むと立ち上がり、体ごとリタに向き直ると、リタの前に拳を差し出し、ゆっくりと手を開いた。
 アストの手の中で、少しずつ光を弱めつつあるふたつの宝石が、リタの目の前に並ぶ。
 元に戻りつつある輝きに安堵する反面、アストが何がしたいのか、何を言いたいのか理解できないリタは、戸惑い混じりの眼差しでアストを見上げた。
「これはきっと、リタさんのものなんだ」
 リタは眉間に皺を刻んだ。
「何言ってるの? 貴方はこれが突然光りだした理由を知ってるの?」
「知らない。けど、俺が持っていても何も起こらなかったのに、リタさんが触れて変化が起こったんだから、リタさんが手にするべきものなんじゃないかって思って」
 リタは眉間に刻んだ皺を更に深いものにした。
「それもエイドルードの遺志?」
「かもね」
「だとしたら、いつまでエイドルードに踊らされるのよ、私たちは」
 少しきつい口調で、「ふたりが光に溶けて消えちゃっても知らないからね」と言い捨てながら、リタはアストの手の中にあるふたつの宝石を手に取った。
 リタの小さな手のひらの上に乗ると、空色の光は勢いを増した。強く、明るく、手を伸ばせば届く位置に居るはずのアストの姿が見えなくなるほどだ。光の向こうからかろうじてアストの声が届くのだが、それでも自分がたったひとりきりになったような感覚から逃れられないリタは、同じくエイドルードを父にもつ者たちに縋るように、視線を落とした。
 僅かな歪みすらない完璧な球形をしていたはずのふたつは、その形を失いはじめていた。言い捨てた言葉が現実になるかもしれない恐怖に、リタの体は震えだす。
 幸いにも宝石は、リタの言葉どおり消える事はなかったが、徐々に液体へと変化していき、瞬時に混ざりあった。それを逃すまいと、リタはしっかりと両手を組み合わせ、こぼれないようにする。
「リタさん、これ……」
 リタの手の中に生まれた小さな湖に、仰天したのはリタだけではなかった。むしろ、強い輝きに阻害され、変化の過程を見守れなかったアストの方が、より驚いたようだ。
「溶けちゃった……?」
 リタは肯いた。すると、リタの体の動きに合わせるように、空色の液体は小さく波打った。
「そう言う事ね」
「え? どう言う事?」
「私、父親としてのエイドルードは、最低最悪だと思っていたの」
 ただでさえ戸惑っていたアストは、リタの発言によってより動揺を深め、混乱に陥っていった。
「リタさんがエイドルードの娘だってのは知っているつもりだけど、父親としての印象を聞かされるなんて、思ってもみなかったよ」
「やっぱり? 私も言ってみて少し変な感じがしたんだけど」
 リタとアストは同時に顔を上げ、一瞬だけ見つめあい、どちらからともなく吹き出して、ひとしきり笑った。
 やがて、やはりどちらからともなく笑い声を静める。再び交わった視線は、互いに真剣なものだった。
「私は、エイドルードが愛したのは、あくまで地上の民だけなんだって思ってた。エイドルードにとって私たち血族は、僅かな愛情すら注ぐ価値のない、地上の民を守るために必要とした、使い捨ての駒にしかすぎなかったんだろうって」
「違うの?」
 アストの短い問いかけには、まさに使い捨てられた両親への憐憫がこもっていた。
 リタは小さく首を振る。違ってはいないだろう。シェリアとカイは、地上の民を守ろうとしたエイドルードに殺された。アストとリタは運良く生き残っただけで、やはり駒のひとつだった。
 けれど、まったく愛情が無かったわけではないのかもしれないと、リタは今思いはじめていた。使い捨てて放置するほど、興味が無かったわけではないのかもしれないと。
「やっぱり、感覚が違うのよね。エイドルードと、私たちとでは」
「それは、何となく判るけど」
「エイドルードは、シェリアやカイを殺したつもりなんてないんじゃないかしら。だってふたりは、こうやって地上に残っているんだから。それは私たちにとって、ふたりが生きている事と、大きく意味合いが違うけれど、エイドルードにとっては同じだったのかもしれない」
 何か言いたげなアストを振り切るように、リタは自身の両手を口元に寄せた。そして手の中にある空色の液体を、静かに飲み干す。
 ほのかに甘く、爽やかな香りがする。かつて口にした何かに似ているような、何にも似ていないような、どう言い表してよいか難しい味わいだった。あえて言うならば、そう、幸せの味とでも言うべきだろうか。
 空色の液体が口の中を通り過ぎ、喉を通って体内に流れ込んでいく。冷たくもあり、温かくもある感覚は、リタの胸中を激しくかき乱し、やがて空色の双眸からは、理由の判らない涙が零れ落ちた。
「リ、リタさん、大丈夫? そんな得体のしれないものを飲んで……!」
「大丈夫よ」
 リタは泣きながらも微笑み、強く肯いた。
「大丈夫」
 これはきっと、幸福だ。他にはもう何も望むべくもない、純粋で強烈な幸福ゆえに流れた涙なのだ。
 だから、大丈夫。大丈夫に決まっている――

「リタさん!」
 弾む息に混じる自身の名を耳にし、リタは振り返る。
 遠くからリタに向かって真っ直ぐに駆けてくる青年の姿が目に映った。自分自身と同色の、淡い金の髪が太陽の光に反射して眩しく、リタは目を細める。
「何してるのさ、こんなところで。部屋に行ったら居ないから驚いたよ」
「私には散歩する権利すらないわけ?」
「そう言うわけじゃないけど……」
 すっかり萎縮した様子が微笑ましく、リタは小さく声を上げて笑いながら、目の前まで近付いてきた青年を見上げた。
 その首の傾きに懐かしさを覚え、リタは再度微笑む。
 彼は少年から青年へと成長する年月の中で大きく身長を伸ばし、いつの間にか、彼自身の父親に追いついたようだった。もしかすると、父親よりもいくらか高くなっているかもしれない。
「それで? 私に何か用なの?」
「うん、まあ。用事と言うか、報告なんだけど」
 青年は――アストは、言い辛そうに言葉を濁らせ、ついでに表情も曇らせた。
 それからしばらくの間、口を噤んだまま沈黙を保ったので、リタは少しずつ苛立ちを募らせていく。「言いたい事があるならはっきり言いなさいよ」と、怒鳴りつけてやろうかと思い至った頃、ようやくアストは口を開いた。
「その前に訊いてもいいかな。リタさんは今も、自由になりたいと思ってる?」
 あまりにも突然の問いかけだった。
 リタはかつて、今アストが口にしたものを、心から望んだ事がある。常にと言ってよいほどだったが、特に強く望んだのは、二回。一度目は、神の娘である事が発覚し、塔の中に軟禁された時。二度目は、アストの父であるカイが死んだ直後だ。
 その願いを、一度目の時は言葉や行動に全力で表した。しかし、二度目の時は、胸に秘めておとなしくしていたつもりだ。それでも、気付く者は気付くだろうと思っていたが、まさかアストにも気付かれているとは思わなかった。
「思ってない」
 リタは迷わず答えた。
「本当に?」
「本当よ。確かに過去の私は、そう望んだ事がある。神の娘なんて役割を全て放棄して、色んな所に行きたいってね。でも、その時と今とじゃ、状況が違うでしょ?」
「それは――」
「あ、アストだ!」
「アストー!」
 軽い、可愛らしい足音が重なり合い、リタの耳に届いた。足音よりもなお大きく響く、甲高いふたつの声と共に。
 足音はリタの左右を通り過ぎた。そうして現れたふたつの小さな体は、子供特有の遠慮のなさで、勢いよくアストに飛びついた。
 アストは強張った笑みに色濃く困惑を浮かべながらも、突然現れた子供ふたりの相手をしている。はしゃぎ、しがみついてくる子供の力は子供だからと侮れないほどだが、今でもしっかり体を鍛えている彼ならば、問題ないだろう。
「そうそう、最初の質問の答えね。その子たちの元気が有り余ってて困ってたから、外で遊ばせてたの。せっかくだから、しばらく相手してくれる?」
「ちょっ……勘弁して。俺、この子たちをどう扱っていいか、判らないんだ」
「従兄弟だと思っておけばいいじゃない。嘘じゃないんだから」
「それはそうだけど……」
 ちょうどその瞬間、子供の片方が、勢いよくアストの脛を蹴る。
 アストは痛みに蹲り、子供たちと視線の高さを同じくした。そうする事で余計に、子供たちに向ける瞳に複雑な輝きを宿らせる。
 子供たちは、ひとりは男の子で、ひとりは女の子だった。男の子の方は、明るい茶色の髪と空色の瞳をしており、アストに面差しが似ている。女の子の方は淡い金の髪で、やはり空色の瞳をしており、リタにそっくりだった。おかげで一時は無粋な輩に、アストとの間にできた子だと疑われた事もあるが、もちろん違う。
 ふたりの名は、カイとシェリアだ。四年前に産んだ時、リタがそう名付けた。本来リタは、新たな命に亡き人の名を名付ける事を好ましく思っていなかったが、このふたりに関しては、そうしなければならないと思った。
 ふたりは、本当の意味で新たに生まれた命ではない。魂と器を救世の使命に捧げた者たちが、リタの体を媒体として、同じ魂と器を持って再生しただけなのだ――かつて生きた時と環境も状況も大きく違う今では、まったく同じ生を生きる事など、できはしないのだが。
「判るでしょう、アスト。私はもう、これ以上は、何もいらないの」
 リタは腰に手をあて、胸を反らし、堂々と立った。
「過去のどんな時よりも自由な心で、私は今の生活を選んだの。この子たちと一緒に生きて、そして見守りたいのよ。この子たちが、幸せに生きていくのを」
 言い終えて、リタは微笑む。
 この場には鏡がないため、確かめるすべはない。だがきっと、改心の笑みを浮かべているだろう。
 自分に応えるアストの表情を見て、リタはそう確信していた。


INDEX 

Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.