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傷ついても、血にまみれても、貴方がそうやって優しく笑うから。


 自身の呼吸がこれほどまでに耳障りに感じたのは、初めての事かもしれない。
 アシュレイは肩を上下に激しく揺らす呼吸を繰り返す事で、体のあちこちに刻まれた傷口から勢い良く流れ出るものを、必死に取り戻そうとした。それは気力や体力と言ったものであり、生命そのものとも言えた。
 霞んだ視界の向こうには、いくつもの人影がある。全ての影は、壁にもたれて座り込むアシュレイよりも、なお低い位置に身を置いていた。床にひれ伏しているのだ。彼らの体はひとつの例外もなく血だまりと共にあり、そのほとんどが生命を失っているのだから。
 彼らの仲間入りをするわけにはいかない。アシュレイは最も深い傷がある腹部を手で抑え、流れ出るものを塞き止めようとした。そして右手に持った血まみれの剣を杖代わりにすると、痛みを堪え、震える足で立ち上がる。
 広がる死体の向こうに視線を送った。半開きの扉を越えた外には、動く人影がいくつかある。何か会話を交わしているようだが、いくらか距離があるせいか、遠くなった耳では聞き取りにくかった。
「これで――御子の確保――」
「神――送り届け――」
 アシュレイは激しい呼吸を必死に抑え、可能な限り耳を澄ましたが、それでも、男たちの会話をはっきりと聞き取る事は不可能だった。
 しかしアシュレイは、男たちの声の中に混ざる、甲高い赤子の泣き声を聞き逃す事だけはしなかった。その声が、車輪の音に混ざって徐々に遠ざかっている事に気が付くと、彼らが目的のひとつを達成してしまった事を知った。
 誓ったのに。自分自身に、亡き妻に、大空に在る神に。かつての部下たちを手にかけようとも、絶対に阻止するのだと。
 アシュレイは床を蹴り、赤子の声を追いかけようとした。だが、すぐに思い留まる。疲労と流血によって意識は朦朧としていたが、冷静な思考は失っておらず、たとえ体が万全の状態にあったとしても、馬車には追いつけないだろうと気付いたからだった。まして今のアシュレイは、万全の状態とは程遠い。なおさら無理だろう。
 途方もなく悔しいが、奪い返す事は今すぐでなくともできる。
 そう自身に言い聞かせ、きつく唇を噛む事で屈辱に似たものに耐えたアシュレイは、今の自分にしかできない事を優先しようと決めた。何人もの聖騎士たちの血で汚れた剣を、拭う暇も惜しんで鞘に戻すと、出口とは逆方向にある扉に駆け寄る。
 扉を開けると、隣の部屋で起こった喧騒をものともせず、健やかに眠り続ける赤子の姿があった。
 柔らかな金の髪も、今は伏せられているために見えない空色の瞳も、愛らしい容姿も、流れる血も、奪われた赤子と寸分違わない。だと言うのになぜ、彼女には聖騎士たちの手が伸びなかったのだろう。ひとりだけ目に付かない場所に居たのは確かだが――聖騎士たちは、赤子が双子である事を知らなかったのだろうか。それとも、ひとり取り返す事ができれば充分だと考えたのだろうか。
 ひと呼吸の間に、考えたところで答えが判るはずもないと気付き、どちらであれ自分たちにとって幸いだったのだと理解したアシュレイは、考える事を止め、戦いによって厳しいものへと変わっていた表情を緩めながら、赤子に近付いた。
 血で汚れた手で触れたくなかったが、贅沢を言える余裕はない。それに、どうせ直接触れる事などできはしないのだ。
 アシュレイは呼吸の妨げにならない程度にしっかりと赤子を布で包み、胸に抱くと、足音を立てないよう静かに、ゆっくりと、出口へ向かった。
 外を覗く。アシュレイの剣から逃れた幸運な男たちのほとんどは、馬車と共に姿を消しているか、馬上の人となって遠ざかっており、残っていたのはたったふたりだけだった。
「静かになりましたね」
「ようやく片付けたのだろうか?」
「その割に、誰も出て来ませんが……」
「言われてみれば、そうだな」
 年かさの方の男が、家に近付いてくる気配がした。戦いがどう収束したか、確認するつもりなのだろう。
 どうやらあとふたり、片付けなければならないようだ。アシュレイは覚悟を決め、赤子を左手に抱き直し、再度剣を抜いた。
「どうし――」
 男が扉を開けた瞬間、アシュレイは剣を振り下ろす。重い一撃は男の耳を掠めてから、肩へと落ちた。
 男は醜い呻き声を上げ、肩を抑えながら倒れ込む。
「どうなさいました!?」
 すぐさまもうひとりの男が駆け寄ってきたので、アシュレイは追撃を加える事を諦めて剣を鞘に納め、扉を大きく開いた。
 ちょうど扉に手をかけていた若い男は、突然の事に体勢を崩す。そこにアシュレイが鋭い蹴りを加えると、男は腹を押さえながら地面の上に転がった。
 ふたりが立ち上がるよりも速く、アシュレイは家を飛び出す。まずは遠く、追っ手がかからないほど遠くへ、逃げなければならなかった。
 今はそれが精一杯だ。しかし、いつか、傷を癒して、再び――
「っ……待て!」
 先に立ち上がった若い男が、アシュレイの後を追いかけてくる気配がした。しかしすぐに、年かさの男は若い男を呼び止めた。
「待て、追うな!」
「しかしっ」
「あの傷なら、放っておいてもどうせ死ぬ。それよりも、御子様を無事大神殿へ送り届けるための護衛に力を割かねばならん。見ろ。あの男と直接戦った者は、ひとりとして――」
 若い聖騎士が足を止める事によって、アシュレイが走ると同じだけの速度で、人の気配が遠ざかっていく事となった。
 彼らが退くと言う選択をし、アシュレイを追いかける意志を失った事によって、アシュレイは救われた。これで、一度は逃げ切る事ができるだろう。逃げ切れば、何かしら新たな道が開ける。
 アシュレイは走り続けた。一歩でも遠くを目指して――胸に抱く赤子の、布越しに伝わる温もりが、アシュレイに走る力を与えてくれた。

 走り続ける中で、突如視界が暗くなり、アシュレイは足を止める。止めると同時に、自身を支えるほどにも力が残っていなかった足は、あっさりと崩れ落ちた。
 人気のない道の途中で膝を着いたアシュレイは、体を支える事も億劫になる。少し休もうと決め、腕の中の赤子を潰さないよう気を付けながら、大地の上に倒れ込んだ。
 浅い呼吸を繰り返す中で、アシュレイはふと考えた。目の前が突然暗くなったのは、太陽が山の向こうへ落ちていったせいではないのかもしれない、と。だが、それはけして認めてよいものではなく、アシュレイは目を伏せて、わざと暗闇を呼び込んだふりをした。
「これも、試練なのだろうな」
 乱れた呼吸を少しだけ落ち着けてから、アシュレイはひとり呟く。
 天上の神は、エイドルードは、いつもそうだった。アシュレイに試練を与え、努力の末に乗り越えたとしても、また新たな試練をアシュレイに与える。幾度も、幾度も――もしかすると、永遠に繰り返すつもりなのかもしれないと思えるほどに。
 だが、アシュレイは知っている。神は、人を不幸にするために試練を与えるわけではないのだと。
 何かしら言い訳をつけて諦め、試練を途中で投げ出す事で、乗り越えた先にある幸福を逃してしまうからこそ、不幸に陥るのだ。かつて、姉を、妹を、ただ失い、悲しみに暮れたアシュレイのように。
 だが、諦めずに立ち向かった時、アシュレイの元には必ず幸福が訪れた。二度と会えないだろうと言われていた妻を取り戻す事に成功したのもそうだ。結局失う事となったが、最後に娘たちを抱き、涙しながら微笑んだ彼女の顔は、けして不幸な女のものではなかったとアシュレイは思う。
 きっと今回も同じなのだ。厳しい試練だが、乗り越えれば、家族三人で暮らせる日々がやってくるはずだ。失った妻によく似て、美しく育った娘たちと、穏やかな幸せに身を浸らせる事ができるのだろう――それはアシュレイの中で、希望が勝ちすぎた予想ではなく、確信と言えるものだった。
「すまないな」
 走り続ける中で一度は目覚め、泣き喚いたが、再び静かな寝息を立てはじめた赤子に、アシュレイは語りかける。
「いつもふたり一緒に居たのだ。姉が居なくて寂しいだろう」
 アシュレイの言葉に、赤子は答えなかった。まだ眠りについているのだから、当たり前の事だった。それに、たとえ起きていたとしても、アシュレイの言葉を理解できるほどの歳ではない。
「すぐに、取り戻す。ライラが望んだ通り、家族で、暮らすために」
 三人で、生きるために。
「そのためにも、今は、少しだけ……」
 声を紡ぐ力すら失ったアシュレイは、唇を閉じると、腕の中の赤子に静かに微笑みかけた。
 声は聞こえない。目にも見えない。だから、赤子がどんな表情をしているのか、アシュレイに判るはずもない。
 だがきっと、幸せな夢を見ながら、とろけるように笑っているだろう。アシュレイはそう確信していた。
 もうひとつの笑みを、早く取り戻さなければな。
 決意したアシュレイは、深い深い眠りにつく。

 それは二度と目覚める事のない眠りだった。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.