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この手を離すことが出来なかった。結末なんて判り切っていたのに。


 神殿に続く迷宮への侵入者の存在を感じ取ったライラが、侍女たちに確認を命じてから、さほど長い時間は経過していないのだろう。だがライラは、誰ひとりとして戻ってこない事に不安をかきたてられ、早くも胸が押しつぶされそうになっていた。
 ライラはつい先ほど、侵入者が迷宮を突破してしまった事を感じてしまった。つまり侵入者は、より神殿に近付いて来ているのだ。
 単純に急使かなにかならば良い。だがもし、悪意ある者だとしたら、近付いてきている事は大いに不安だ。何より、確認に行った者たちの安否が気になる。
「どうして、私の時に……」
 ライラは震える声で呟いた。
 ライラが森の女神になってからこちら、年に一度の物資輸送の時を除くと、神殿を訪ねてきた者は居なかった。いや、ライラが知る、ここ数年の話だけではない。女官たちの中で最も長く、三十年以上も森の神殿で過ごしている者でさえ、輸送隊以外の者の来訪の経験はないと言っていた。
 とにかく、考えられないほどの異常事態が、今現在の森の神殿で起こっているのである。悪い予感が良い予感を上回るのは当然の事で、その恐怖にひとりで耐える事は、ライラにはとても難しかった。胸の前で固く手を組み、少しでも体の震えを抑えようとするのが精一杯だ。
 祭壇の前に跪く。そして、夫である天上の神エイドルードに祈りを捧げながら、背中の向こうにある扉が開く時を待った。女官たちの誰かが、「何事もありませんでした」と、あるいは「侵入者の討伐を完了いたしました」と、報告してくれる事を願いながら。
 どうか、皆が無事でありますように。
 貴方の忠実なる僕を、どうかお救いください、エイドルード――

 鈍い音を立てて扉が開いたのは、どれほど祈り続けた後の事だっただろうか。
 安堵したライラは、強張った体の緊張を解した。なぜかこの時ライラは、扉を開けた者が、報告に来た女官のうちの誰か、おそらくは女官長であるエトラか、かつて聖騎士であり女官たちの中でもっとも剣の腕が立つカーナのどちらかだろうと、疑いもせずに信じてしまったのだ。
 自然と浮かぶ安堵の笑みをそのままに、ライラは急いで振り返る。瞬間、薄く開いた扉から覗いて見えたものは、鮮血にまみれた剣だった。
 驚きのあまり悲鳴すら出せなくなったライラは、刃の上を滑り落ちた血の染みが、石の床の上に広がるさまに目を奪われる。いくつか呼吸を繰り返し、若干の落ち着きを取り戻すまでの間、身動きひとつできなかった。
 硬直が解けた後も、体――特に足から力が抜けてしまい、自由とは言い難い状態が続く。腰を床の上に落とし、立ち上がる事すらできなくなったライラを突き動かしたものは、目の前にある血まみれの刃や現実から逃れたいとの願望だった。
 ライラは座り込んだまま、必死になって後ずさる。だが、すぐに背中に祭壇がぶつかり、逃げ場所を失った。
 新たな逃げ場を探そうと、左右に視線を送る。その中でライラは、大きく開かれた扉と、扉の向こうに立つすらりと背の高い青年の姿を、目にする事となった。
 ライラは忙しない動きを止め、正面を見つめる。そして目を大きく開き、確かめるように、青年の顔を見上げた。
 美しい青年だ。恐怖の象徴とも言える赤い刃が不似合いな――いやもしかすると、彼の陰のある美貌には、似合っているのかもしれない。しかし、艶やかな黒髪が重なった紫水晶の瞳は、ライラを包み込むような優しい眼差しで、人を傷付けるための道具とはやはり不似合いだった。
「ライラ」
 形良い唇がゆっくりと動き、ライラの名を呼んだ。
 ありえない。
 ライラはまず、そう思った。
 ライラが森の女神に選ばれた直後、彼は聖騎士団長になったはずである。そんな彼が、使いのような簡単な役目を負って、往復でふた月以上もかかる道のりを越えてやって来るわけがない。
 立場と権力を利用し、聖騎士団長が女神に会いに来る重要な用件を作ったのだろうか。いや、そんな事をしても、周囲が認めまい。聖騎士団は、万が一の事が起こらないよう、女神の親族を輸送任務に就かせないようにしているのだ。どんなに重要な任務だとしても、元夫を女神に合わせる事など、許しはしないだろう。
 困惑するライラは視線を下げた。とたん、血染めの刃が目に入る。
 禍々しいそれは、ひとつの答えをライラに教えてくれるようだった。
「アシュレイ様……」
 ライラは勇気を振り絞り、かつて夫であった男の、おそらくは正攻法を取らずに神殿にやってきた男の、名を呼んだ。
 アシュレイは声では答えず、ただ静かに微笑んで、ライラの元に歩み寄った。そして、未だ座ったままのライラに少しでも目線を合わせようと、跪き、背を丸め、顔の位置を下げる。
 丁寧に磨かれた宝石よりもなお煌びやかに輝く、吸い込まれるような瞳。それが目の前に現れる事で、ライラは息を詰まらせた。
「君を迎えに来た」
 短く語られる、ライラが抱く疑問の答え――アシュレイが森の神殿へとやってきた目的。
 夢を見るだけだと、実現する事はないと自身に言い聞かせ、それでも罪の意識に苛まれながら、この日が来るのを何度夢見た事だろう。
 今度は甘い幸福によって胸を詰まらせたライラは、言葉にならない感情を、涙へと変えて溢れさせた。
 軽く伏せた長い金の睫を濡らし、白い頬の上を滑り落ちるそれを、アシュレイは黙って見つめるだけだ。何も語る気がないのだろうか。あるいは、アシュレイほどの人間でも、言葉を詰まらせる事があるのだろうか。
「来られるわけがないと思っていました」
「神殿が人里から隔離され、迷宮の奥に隠されているのは、侵入者を防ぐためであろうからな。少々苦労した」
「たとえ来られたとしても、貴方はけして来ないだろうとも思っておりました」
「どうして」
「だって、貴方が、神に、エイドルードに、抗う事など……」
 アシュレイは曖昧に微笑んで、ライラの手を取った。
 暖かく、大きく、美しいけれどやはり戦う男のものであるその手は、ぬめり、ライラの白い手を赤く染める。
 人のものと思わしき血液に触れる事で、感動に震えていたライラの心は、急速に熱を失った。
 汚れた事が不快だったわけではない。アシュレイの手を染めた血液が、誰の体から流れ出た者なのか、それを考える事が不快だったのだ。
「私の周りの者を、斬ったのですか」
 僅かな沈黙の後にアシュレイは答えた。
「そうだな」
「命を、奪ったのですか?」
「結果的にはそうなったかもしれない。とどめは刺さなかったが、運悪く命を落とす者も居るだろう」
「どうしてそんな、酷い事を!」
 ライラはか細い声を荒げ、アシュレイを責めた。
 アシュレイが来てくれた事は嬉しかった。神殿で暮らす日々の中、毎日のようにアシュレイの事を思い出し、贅沢は言わない、かつて観客席から午前試合を眺めていた時のように、ひと目で良いから会いたいと、願い続けていたのだから。何より、神に敬虔に仕える彼が、神を裏切るほど自分を想い、共にありたいと願ってくれた事が嬉しかった。
 だが、そのために彼は、何人、何十人もの命を奪ってしまったのだ。皆、ライラに優しかったのに。ライラにとって、心を許せる、大切な者たちだったと言うのに。
「貴方はエイドルードの使徒。貴方の剣は、エイドルードの剣も同じです。それが、罪無き者の命を、無残に奪うなどと」
「罪は、ある」
 アシュレイは冷たく言い放った。
「君の未来を知りながら、君を見捨てる事を選んだ者たちだ。君を、殺そうとしていた者たちだ」
「そんな事は……!」
「ある。君が知らないだけだ。私の姉がなぜ若くして亡くなったのか。君と入れ違いに帰ってきた私の妹が、どのような姿であったのか」
 ライラは唇を引き締め、紫水晶の中に輝く悲哀を見つめた。
 彼の姉の墓を訪ねた事は幾度もある。その度にアシュレイは、同じ輝きを瞳に浮かべていた。悲しいのだろうと思っていた。家族を、姉を、心から愛していたのだろうと――それは、ただ近親者の死を嘆いていただけではなかったと言うのか。
「罪がある者の命ならば、奪っても良いと貴方はおっしゃるのですか?」
 ライラが問うと、アシュレイは静かに首を振った。
「いいや。私は紛れもなく罪人だ。それを否定しようとは思わない。だが、私は、罪人となって本望なのだ。罪に堕ちるべく、ここまで来たのだから」
 強く、美しく、全ての者の視線と意識を集める、光の中で生きるために生まれてきたような方であったのに、闇に堕ちる覚悟を決めて、ここまで来てくれた――
 戸惑うライラがいつの間にか反らしていた目を再びアシュレイに向けると、ふいに、ライラの手を掴むアシュレイの手から力が抜けた。放れていく様子はないが、か弱いライラの力でも振り解けそうだ。
「私が、恐ろしいか?」
 短い問いかけに、長い時間迷ってから、ライラは正直に、小さく頷いた。
 誰にでも優しいと信じていた男が、多くの女たちを斬り捨てたのだ。彼なりの信念の元だとは感じるが、恐ろしい事に変わりはない。ライラ自身のためにやったのだと思えば、なおさら。
「私と共に、罪に汚れてはくれないか?」
 再度、長い迷いの中に身を置いたライラは、アシュレイの瞳を迷いなく見つめたまま、小さく首を振った。
「そうか」
 落ち着いた声。少しだけ落胆が混じっているように感じるのは、ライラの心がそれを望んでいるからだけだろうか。
 アシュレイはゆっくりと立ち上がる。背の高い彼が立ち上がると、座ったままのライラと手をつなぐのが困難になる。はじめは腰を曲げていたアシュレイだが、背筋を伸ばすと共に、ライラを手放そうとした。
 しかしライラはアシュレイの手を放さなかった。両手で、血で汚れる事に構わず、しがみつくようにアシュレイの手を包み込むと、アシュレイとの距離を縮めるために、自身も立ち上がったのだ。
 少し見開かれた紫水晶の瞳が、繋がった手を見下ろす。とても珍しい表情だ。ライラはアシュレイが驚く様子を、初めて見る事となった。
「共に汚れる事などできません。だって貴方は、いつでも、眩しいほどに美しい方なのですから――たとえ、罪に堕ちたとしても」
 だから、この手を放さない事で汚れるのは、きっとわたくしだけ。
 ライラは目を伏せ、白い頬を赤い手に寄せた。血の匂いが鼻につく事で、罪悪感と恐怖心が増したが、放してしまおうとは少しも思わなかった。
 怯えよりも喜びが勝ってしまったわたくしだけが、罪で汚れるのだ。
 神の妻でありながら、地上の民を想い続けたわたくしだけが、いつかエイドルードの罰を受けるのだ。
 涙しながらライラは、それでいいと思った。少女の頃に夢を見た永遠の幸せを、ひと時と言えど手に入れる事ができるならば、それでいいのだと。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.