脅迫

 大石秀一郎と言う男は、意識してかそれとも無意識にか、突然脅しをかけてくる。

 はじめて脅されたのは中学一年の春。
 テニスを愛するわけでもなく、実力の無さを才能のせいにして頂点を目指す事もせずにいた先輩(先輩と呼ぶのもおぞましいが)の暴力を受けて退部を決めた俺の前に、大石は両腕を広げて立ちはだかった。
「手塚君、キミがやめるんだったらボクもやめるぞ!」
 まったく効果的な脅しだった。
 もし俺にそう言ったのが大石でなく別の人物であったとしたら、俺はおそらく、「勝手にすればいい」と冷たく言い放ち走る事を続けただろう。
 たまたまクラスが同じで、たまたま同じテニス部に入った大石。彼は、持ち前の仏頂面と性格と各種肩書きで完全に同年代から浮いていた俺に屈託無く微笑みかけ、躊躇せずに話しかけてくる唯一の存在だった。
 だからと言って大石は、鬱陶しくまとわりついてくるわけではなかった。今思えば、俺にとって心地良い距離を測っていてくれていたのだろう。人付き合いは苦手だが、多少なりとも孤独に疲れていた俺にとって、大石の気遣いはありがたいものだった。
 素直で穏やかで優しい――大石がどんな人物かを問えば、誰もがそう返してくるだろう。だが大石はそれだけの男ではなく、自分の実力を知り、実力の限りは自信を抱き、より上を目指すために努力を惜しまない男だ。地味で退屈な基礎練習を、黙々と続ける情熱と意志も持っている。
 だから俺は大石に信頼を寄せ、ひとりきりでは叶える事のできない夢を、はじめて他人に語る事ができた。
 大石はテニスが本当に好きなのだとも、思えたから。
「キミがやめるんだったらボクもやめるぞ!」
 そんな事を冗談や嘘で言えるような男ではないから、俺がそれでも部活をやめると言っていれば、大石は本当に部活をやめただろう。
(大石君からテニスを奪うのは俺なのか……?)
 大和部長の指示で走るうちに興奮は収まっていたが、俺の頭を完全に冷やしたのは、大石の脅し文句だった事に間違いは無い。

 二度目は中学二年の秋。
 俺が部長に、大石が副部長に就任してからそれほど時間は過ぎてはいなかったはずだ。
 竜崎先生と三人でミーティングをしていた俺達は、一時間ほど遅れて部活に参加した。部活を終え、一年が片付けをはじめた頃、「Aコートだけはそのままにしておいてくれ」と大石が指示を出す。
「まだまだ動き足りない、よな? 手塚」
 大石はそれだけ言うとサービスの位置につき、俺も黙ってレシーブの位置についた。
 どれほどの時間打ち合った頃だったか。俺が肘に鈍痛を覚え、大石の特に威力が込められたわけでもない普通のフラットショットに耐え切れずラケットを取り落としたのは。
「手塚?」
 大石はネットを飛び越え、半ば呆然としてラケットを見下ろす俺に駆け寄ってきた。
「どうした、手塚。どこか悪いのか?」
「何でもない……元の位置に戻れ」
 俺は落としたラケットを拾おうとしたが、一瞬はやく動いた大石に先に拾われてしまった。
 労わりの中に厳しさの秘められた視線。激しい息を抑えながら俺を真っ直ぐに見つめてきた一年の頃と同じ目で、大石は俺を見すえていた。
「今日はもう終わりだ」か、あるいは「嘘を言うな」とでも言われるかと覚悟していたが、そうではなく、大石は俺のラケットを俺に差し出しながらこう言ったのだ。
「本当に何でもないんだな」
 と。
 俺は答えなかった。大石の問いに言葉で答えないのはいつもの事だ。だが大石はどんな技を使ってか、俺の意思を理解してしまう。
「そうか、判った」
 大石は静かに、ゆっくりとまばたきをした。
「お前がそう言うのなら、俺は信じるよ」
 ため息まじりに、けして「判っていない」目で大石にそう言われ、嘘を貫ける者は存在しないだろう。少なくとも、青学テニス部内には。
 もしこの時大石が居残り練習に俺を誘わなければ、俺は肘の故障と今もひとりで戦っていたのだろうか。それとも、もっと多くの部員の前で醜態をさらし、大事となったのだろうか。
 いや、ありえない過程で事を考えるのはよそう。少なくとも、今より良い状況になる事は無かったはずだ。

 三度目は中学三年の初夏。
 部活後のミーティングを終え、ふたりで並んで家路についていた時の事。
「今日の昼休みにさあ、突然クラスの友達が言い出したんだ。『お前たち、俺が死んだ時の事って考えた事があるか?』って」
 そんな話を突然はじめた大石のクラスメイトとやらも不思議な奴だが、よりによって俺にその話をする大石もやはり不思議だ。
「俺は焦ってさ。そいつにすごい悩みがあって、自殺でも考えているのかと思って必死に止めたんだけど、そうじゃないらしい。ただ、『大切なもの』を亡くした時自分はどうなるのかと、考えたらはじめたら怖くなったんだそうだ。で、考えが発展して、俺たちに変な質問するに至った、と」
 大切なもの。
 家族、友、テニス、それから夢。
 失った時、どうなるのだろう――特に夢は、この手に掴む事ばかりを考えていて、失った時の事を考えた事など無かったが。
「『後追い自殺とかするなよ』なんて言われたけど、友達が死んで後追い自殺って、あんまり聞かない話だよな。どうしてだろう。大切な人だって事に代わりはないのにな」
 確かに、あまり聞かない話だが……「しない」と答えればすむものを、真面目に考え込むのは実に大石らしいと言える。
「あ、そうだ。後追い自殺と言えば」
 大石は突然手を叩くと俺に振り向き、微笑む。笑顔の柔らかさは、はじめて出会った時と何ら変わりはなく、相変わらず俺とは正反対だ。
「半年くらい前、お前の肘が本当に駄目で、テニスができなくなったら、俺はテニスを続けるだろうか、とは考えた事があった」
 表情には、出さずにすんだと思うが。
 心中に隠した激しい動揺は、大石に気付かれずにすんだだろうか。
「それってお前の、俺たちの夢が永遠に叶わないって事なんだなあって思ってさ……俺は手塚の後追い自殺をする事はないだろうけど、『テニスプレイヤー大石秀一郎』は、『テニスプレイヤー手塚国光』の後追い自殺をするかもしれないって事なんだろうか?」
 俺は答えなかった。
 否。答えなかったのではなく、答えられなかったのだ。
「まあ、そんな事にはならなかったんだから、考える必要はないんだろうけどさ」
 大石は笑う。「ヘンな事話して悪かったな」と、俺の肩を叩きながら。

 そしてきっと、これは四度目。
 関東大会初戦の氷帝戦。あと1ポイントで青学の勝利と言うその時に、俺は肩の痛みが抑えきれずにうずくまった。
 もう試合は続けるなと、背中越しに沢山の声がかかる。
 判っている。それが賢い選択なのだと。
 ここで止めなければ、俺は将来、この時の選択を後悔する事になる可能性が高いと。
 だがそれでも、続けなければならないのだ。この試合は。
「大石……」
 数々の静止を振り切り、コートに向けて立ち上がる俺の前に立ちはだかったのはやはり大石。強い風にも俺の視線にもけしてたじろぐ事無く、いつも穏やかな彼がときおり見せる、相手を諌めるための厳しい視線をこちらに向けていた。
 お前も俺を、止めるのか?
「大和部長との約束を果たそうとしてるのか? 部をまとめて全国へ導くという」
 俺はいつも通り、大石の問いに言葉ではけして答えなかった。
 そして大石もいつも通り、何かを理解したかのように優しく微笑んで、言った。
「がんばれ」
 意外にも、もっとも簡単で温かい、応援の言葉。
 続いて包帯の巻かれた右腕が静かに掲げられ。
 俺は大石が紡いだ言葉をひとつひとつ、噛み締めるように思い出す。

「キミがやめるんだったらボクもやめるぞ!」
 お前はいつも、意識しているのか。

「お前がそう言うのなら、俺は信じるよ」
 それとも無意識にか。

「お前の肘が本当に駄目で、テニスができなくなったら、俺はテニスを続けるだろうか、とは考えた事があった」
 もっとも効果的に俺の胸を抉る脅迫をするのだ。

 今もまだ、お前の言葉は俺の中に強く生き、俺を戒める。
 判っている。俺は負けない。終わらない――終わらせるわけにはいかない。
 俺は大石にあわせて右腕を掲げ、重ねる。

「仕方のない奴だな」とでも言いたげな大石のため息が、静かに耳に届いた。


テニスの王子様
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