憧れの人

 時計を制服のポケットに入れっぱなしだった事を思い出して、練習の合間に部室に向かった時の事。部室の中から後輩達の話し声が聞こえてきた。
 今日はレギュラー対決でコートを四面使ってしまっているから、コート練習ができなくてつまらないのは判るけれど、見学や基礎練習も立派な練習だし、これは一発叱りつけなければと思っていた矢先だ。
「俺は大石先輩みたいになりたいなあ。そりゃ普段は地味かもしれないけどさ、その分温存していたムーンボレーをかました時の爽快感は!」
 なんて声が聞こえてきて、俺はドアノブに手をかけたまま動けなくなってしまった。
 どうも部室の中には複数名部員が居るようで、尊敬する先輩について語っているらしい。手塚とか不二とかの名前が挙がる中、自分の名前を聞いてしまった俺は、照れくさくて中に入れなくなってしまう。
 ふう、と深呼吸して心を落ち付け、話が別の話題に移るかと思わせる頃になって、俺は部室のドアを開けた。
「お、大石副部長!」
 一、ニ、三……総勢七名は慌てて立ち上がり、俺に向き直った。サボりを発見された焦りの中に、俺が手塚ではなかった安堵が見え隠れする。甘いな、さすがの俺だって、この状況は見逃せない。
「まだ練習時間だぞ。レギュラー以外は見学もしくは自主練習だ。さて、お前達は部室でどんな練習をしていたんだ?」
「ええと……その、尊敬する先輩のプレイスタイルを思い出し、脳内シュミレーションを……」
 なるほど、言葉を変えればそうとも言えるか。
「へえ、結構上手い言い訳だな。それに免じて手塚には秘密にしておいてやる。自主練習でグラウンドを十周くらい走る事を進めるけどな」
「は〜い……」
 七人の暗い声が重なる。ま、手塚なら軽く三十周は提示してただろうし、これくらいなら安いものだろう。
 走って汗をかく事を予想してか、ジャージの上着を抜いて部室の外に出て行く後輩のひとりは、ふと思い出したように俺に振り返った。
「大石先輩も尊敬する先輩って居たんですか?」
 俺は間髪入れずに答える。
「そりゃ当然、決まりきってる。居なかったら俺は今テニス部に在籍していなかったと思うよ」
 後輩からの質問を受けたと同時に思い浮かんだ人の顔を、俺は一年以上見ていなかった。それでも俺はその人を鮮明に思い出す事ができたんだ。

「手塚って結構大和先輩の事尊敬してたろ?」
 俺がなんとなく思い立って手塚にそう言ったのは、関東大会の抽選会場である立海大付属中からの帰り道、電車に揺られながらの事だった。
 ぽつぽつと開いている席が見られるのは、帰宅部の学生はとうに帰った時間で、部活をしている学生や社会人はまだ帰っていない、そんな中途半端な時間だからだろう。西に傾いた太陽がそろそろ橙色の光を発しようとしている時分だ。
 手塚は何とも答えなかった。きっとそれは答えだ。
 手塚は違うと思えば短く「違う」と言う。突然の問いに戸惑っているのならば、とりあえず俺の顔を見るくらいはする。顔をまったく動かさず、女の子達に騒がれる理由のひとつであるクールな視線を窓の外に注ぎ続けている理由はただひとつ。俺の言葉をちゃんと聞き、理解しつつも素直に肯定することができないのだ。
 俺の隣に座る、とても中学生とは思えない貫禄をもつ少年は、いつの頃からか感情を外に出す事をやめてしまった。実際感情の起伏が緩やかになったのか、激しいままだけれど何らかの理由で外に出せなくなったのか、単にかっこつけて外に出さないだけなのか――その判断は俺なりにできているつもりだが、うかつに答えを出すのはやめようと思う。ともかく手塚国光と言う男は、先輩を尊敬し、それを指摘されて照れる所など、人に見せてはならない存在なのである。
 俺はなんだかおかしくて、くすりと笑ってしまった。
「なぜ笑う」
「手塚らしいなと思ったらおもしろくなってさ。悪いな」
「いや」
 手塚の短い返答と共に、俺達の間には沈黙が流れる。
 この沈黙が俺は好きだ。人によっては(たとえば桃とか英二とか)手塚とふたりきりで、しかも沈黙空間など、怖くて耐えられないと言うけれど。
 けれど俺は話すと言う行為が苦手な人ががんばって話を作って場をつなげようとしている空気の方が辛いと思うし、だったら潔く沈黙の方がいいと思うんだ。割と喋る英二やタカさんや桃なんかと沈黙の中ふたりきりなのは厳しいと思うけど、手塚とならむしろ心地いい。時折手塚が必要な事を語って、俺も必要な事と思い付いた事話して。それでお互い気楽ならいいんじゃないかな、とか。
 まあ手塚の場合黙っていられると、自分の事を怒っているのか、とか、嫌っているのか、とか、悪い方向に考えたくなる空気があるから、英二達の気持ちも判るんだけど……。
「お前も」
「ん?」
「お前も尊敬していただろう?」
 突然終わったと思った話題がぶり返され、驚いてしまった俺は、すぐに返答する事ができなかった。けれど落ち付いてしまえば答えるのは簡単だ。手塚の問いに対する答えは、いつも俺の中にはっきりとした形であるのだから。
「違うよ手塚。尊敬していたんじゃない。今でも尊敬しているんだよ」
 手塚の目が僅かに見開かれ、ゆっくりと伏せられる。
 お前もそうだろう? と心の中で続けるけれど、口には出さない。こんな事で手塚を追いつめたら可哀想だからな。
「テニスプレイヤーとしての実力は完全にお前の方が上だったし、俺だって今ならいい勝負ができるか、勝てるかもしれない。でも人としての器はぜんぜん違うよな。大和先輩は厳しかったけど、優しかった。皆なんだかんだと先輩を慕ってて……俺も三年になったらあんな先輩になりたいと思ったよ。思っただけで、無理みたいだけど」
「そうか?」
「そうだよ。どうがんばっても俺、あんな容赦なくグラウンド三十周! とか言えないから」
 それは、手塚の役割。
 走らせる事は大切な事だ。体力が付くのは当然として、常に冷静なプレイを心がける事が大切な知的ゲームであるテニスのコート内で、揉め事を起こすほど頭に血が上った部員に考える時間を与え、落ち付きを取り戻させる事ができる。それにテニスがしたくてしょうがない連中に、テニスをさせないと言う罰はそうとう効果がある。
 けど俺は、それが言えない。相手のためになる事だと言うのに、容赦してしまう。せいぜいサボるなとか声を出せとか、俺が言えるのはそのくらいだ。
「俺にも不可能な事はある」
 手塚はぽそりとそう呟いた。
 うん、判っているよ。お前が足りないものを補うために、実力ナンバー2の不二じゃなくて俺を副部長に望んだって事も知ってる。
 それは傷付いたり、落ち込んだり、くじけそうになった部員の背中を押してあげる事。意地を張って本心を言えない奴を望む場所へ導いてやったり、お前のやる事は正しいんだよって言ってやる事。手塚はあくまで先頭に立って仲間達をひっぱる男であって、後ろから見守る男じゃないんだ。大和先輩はその両方ができる人だったけれど。
「やっぱり凄いよなあ、大和先輩は。俺達ふたり揃ってやっと一人前って事だ。厳しさや威厳だけなら大和先輩よりお前の方が上だろうけど」
「それは……お前もな」
 手塚の言葉はだいぶ足りなかったけれど、何を言いたいかは判った。
「あはは、どうもありがとう」
 じゃあ俺達、ふたり揃えばなんとか大和先輩を超えられるかな?
 そんなずうずうしい事を考えていると、車内放送がもうすぐ青春台駅に到着すると告げ、無言で立ち上がる手塚に続いて俺も静かに席を立つ。
 いつでもコートの真ん中で俺達を叱咤し、励ましてくれた、大和部長の事を思い出したせいだろうか。
 なんだか一分一秒でも早く、仲間達の待つコートに帰りたくなった。


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