誇り

 後悔なんてもちろんしない、するわけがない。

 あの強豪氷帝学園の部長跡部が、手塚の前に立ちはだかっている。けれど少しも臆する事なく、いつも通りに冷静に、堂々とプレイしている手塚を見ていると、俺は誇らしさに胸が熱くなる。
 なあ? 手塚。やっぱりお前、あの時やめなくて良かっただろう?
 思い返すだけで胸にちくりと痛い一年生の頃の苦い思い出が蘇り、俺は左手で胸を抑える。大丈夫、痛みは熱さがすぐに消し去ってくれる――そう自分に言い聞かせながら、俺はこみ上げてくる笑みを抑えるように目を細め、手塚の試合を見守った。
 跡部は強い。こうして見ているだけで、少なくとも今の俺ではけして敵わない判る。俺とほとんど体格は変わらないだろうに、身体能力の差がかなり大きいのだ。鍛え方が違うのだろうか?
 しかし手塚はそんな跡部をものともせず、いい試合を――むしろ、優勢な試合を見せて俺達を安心させてくれて。
 ああ、俺は心の底から思うよ、手塚。お前がテニス部に残ってくれて良かった。お前が部長になって、俺達を率いてくれて良かった。黙って立っているだけで伝わってくる頼もしさと存在感は、今の青学になくてはならないものだから。
 俺は今、皆を見守る事しかできないけれど、それでも楽しいよ。皆が、お前が、真剣に楽しそうに試合をして、勝利の達成感を、時に敗北の焦燥感を、味わえる事が幸福だと思えるよ。
 この幸福は、お前があの時テニス部を止めていたら、手に入らなかったんだな。
 俺は一時期後悔していた。俺の身勝手なわがままで、お前をむりやりに引き止めようとした事。お前がやめるなら俺もやめるなんて、子供じみた脅しでお前を困らせた事。
 でも他に方法が思いつかなくて。
 俺は、お前には絶対にやめてほしくなかった。お前と誓った夢を失った青学テニス部には、入学前に想像していたほどの魅力が無かったし、何よりお前が本当はやめたくないと思っているだろうと俺には感じられたから。あの事件は本当にひどかったけれど、だからと言ってお前は根本的にテニスを嫌いになったわけでは無いし、俺が抱くよりなお強い全国への夢を、お前は胸に秘めていたはずだから。
 やめると決めたお前が間違っているとは思えなかった。先輩は確かに酷かったし、強くて潔癖なお前には許せない存在だっただろう(俺にだって許せななかった)。
 それでも俺はお前にやめて欲しくなかったんだよ、手塚。やめてやると思ったお前は間違っていない。けれど、お前がやめる事はやっぱり間違っていると、そう思えたから。
 今の俺があの時のお前のそばに居てやれればよかったのにと、時々考える。今の俺ならばお前を守ってやれただろう。それができなくても、やめると決めたお前の優しさにつけこむような真似をせず、お前を引きとめる事ができたんじゃないかと思う――大和部長のように。
「大石? 何考えこんでんの?」
 俺は知らず知らずのうちに俯いていた顔を上げ、声をかけてきた英二に振り返る。
「今日の大石は応援団長なんだから、ちゃんと試合見て応援しなきゃだめだろ! いくら常勝無敗の手塚だからってさ、相手はイヤーな氷帝! 跡べーなんだぞ!」
「おいおい英二、いつから俺は応援団長になったんだ?」
 初耳だぞ、そんなの。
「だって応援団長、本当は桃だったんだぜ。桃が大石の代わりに試合に出たんだから、大石が桃の代わりに応援団長になるのはとーぜんじゃん!」
「なるほどな」
 英二にしては完璧な理論だ(?)。
 じゃあ、今まで以上に気合を入れて応援しなければならないな。手塚には応援なんて必要ないのかもしれないけれど。
 がんばれ、手塚。
 俺はまず、心の中でそう呟いた。
 証明して見せてくれ、手塚。あの時お前を引き止めようとした俺の行動が、大和先輩の穏やかな説得が、何よりお前の選択が、間違ってはいなかった事を。そして俺達をより高みへ導いて欲しい。俺にできる限りの協力を惜しまないから。
「がんばれ、手塚!」
 腹の底から絞り出した声は、コートの上の手塚に届いたのだろう。サーブを打つ直前に一瞬だけ、ちらりとこちらをみた手塚と目が合った。人に言わせれば何の感情もこもっていない、ただ冷たいだけの視線。けれど俺は知っている。氷の奥に眠る、誰よりも熱い情熱を。
『俺達の代では絶対に青学を全国へ導いてやろうぜ』
 あの日の約束が蘇り、脳の奥でこだまする。

 お前の勝利を見続ける限り、俺はもう後悔しないだろう。するはずがないんだ。
 幼稚な考えで導き出した選択を、そうしてコートに立つお前を、誇りに思う事ができるから。


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