位置関係

 自分よりかすかに小さい、小刻みに震えた手。
 それが初めて強く焼き付いた不二周助と言う人物の印象であり――今でもあまり変わっていないだろう。
 俺たちがまだ一年だった頃。
 一番隅にあるテニスコートで、ワンゲームだけ行われた、一年だけの練習試合。

「手塚、お前は不二とだ」
 と指示されたものの、俺は誰と試合をすれば良いのか判らずに戸惑った。不二と言う名前に聞き覚えはあったが、まともに他の部員と交流していなかったため、顔と名前がはっきり一致しなかったのだ。
「よろしく、手塚くん」
 数名脱落したとは言え、数多い新入部員の中から一歩進み出た少年の姿は、ほんのかすかだが記憶にあった。
 確か……常に微笑みを浮かべている、大人しい奴、のはず。
「よろしく」
「緊張するよ、いきなり噂の君と戦えるなんて」
 ネットごしに交わされた握手は力強く、とてもではないが、緊張している様子など見えなかった。
 後で聞いた話によれば、不二はずいぶん前からテニスを習っており、Jrの大会で優勝した経験もあったらしい。おそらくこの時、不二には自信があったのだろう。俺に勝てると言う自信が。
 しかし結果は、不二にワンポイントも与えない、俺の圧勝だった。
「強いね、手塚くん」
 試合後の握手を交わすと、驚いた事に、彼の手からは力強さが失われ、代わりに小さく震えていた。
 悔し泣きでもしているのかと少々怯えたが、そうではないとすぐに理解する。不二は、大きな怒りを覚え、それを抑え込んでいるように見えた。しかも、怒りを向ける相手は俺ではない。俺に敗北した自分自身、ではないだろうか。
「僕、同年代の子にこんな風にボロ負けしたの、初めてだよ」
 手が離れた瞬間に見せた不二の笑顔。
「次はこんな無様な負け方、しないよ」
 俺は少しの恐怖と、大きな期待を抱かずにはいられなかった。
 こいつは上ってくると、確信した。俺に敗北を記した事を、当然の事として受けとめない存在は、少なくともこの時、青学にはなかったから。

「呼んだかな?」
 四階の隅にある特別教室からテニスコートを見下ろしていた俺は、視線を入口の扉の前に立つ人物へ向けた。ジャージ姿で、タオルを片手に、相変わらずの笑顔を浮かべながら俺の方を見ている。
「不二ひとりか?」
「そこから見えるよね? 大石は今英二と試合中。ただでさえ今日は英二の機嫌が悪かったから途中で止めさせる訳にもいかなくてね。試合が終わり次第くるように伝言しておいたから、それで許してくれないかな」
「仕方ないな」
 不二はゆっくりと足音を部屋中に響かせ、俺の正面まで歩み寄ると、俺が着いている席に置いてある、A4サイズのコピー用紙に視線を落とした。
 このコピー用紙は、先ほどまで俺に相談を投げかけてきた竜崎先生が残していったものだ。一番上には「部長:手塚」と書かれており、更に俺の名前に赤で丸がつき、「確定」との走り書きもある。その下には当然、「副部長:」とあるのだが、横には誰の名も書かれていなかった。
 代わりに下方の空いたスペースに、俺を抜かした二年の部員全員の名が示されているのだが、ほとんどが二重線で消されている。
 残された名は、不二と大石。
「つまり、次期副部長を、僕と大石のどちらにするかで迷っているって事か。それで直接僕たちを呼ぶなんて、頭いいんだか悪いんだか、判らないね」
 不二は肩を竦めながら、俺のひとつ前の席に腰を降ろした。
「お前はどちらが副部長になるべきか、すでに判っているのか?」
「もちろんだよ。そして僕の答えは、君の出すべき答えと同じだと思うけど? だけど大石は違う答えを出すだろうから、呼ばない方が話が簡単に済んだんじゃないかな」
 不二はコピー用紙の上に置かれた、竜崎先生が残していった鉛筆を逆に手に取り、俺に差し出した。
「大石はきっと、僕が副部長に相応しいって言うよ。僕が君に次ぐ実力者だから、ね」
 それは容易に予想がつく事であったので、俺は黙って頷いた。おそらく不二の言う通り、大石は何の含みもない笑顔を浮かべながら、不二を副部長に薦めるだろう。はじめから他の選択肢が無かったかのように。
「でも僕は君の隣には立たない……立てないのかも、しれない。そう思うのは僕だけじゃないだろうね。きっと君の隣に平常心で立てるのは、大石みたいに君と違う土俵で戦う事を運命付けられて、そこで成果を上げている人だけさ。違うかな?」
 不二の笑顔が一瞬、鋭くなる。
 穏やかで、優美で――けれどはじめて試合をしたその日に見せたものと同じ、戦意を秘めた微笑み。
「さあな」
 その微笑みを初めて見た時、あの震えた手と握手をした時、俺は自覚したのだ。
 対等に戦う力を持つ存在がないのだとすれば、せめて後ろから追い上げてくるような存在を欲しており、そしてそのような存在は幸運にも、目の前にあったのだと。
 それが判っていれば、今の問題の答えは決まっているも同然だった。迷いは消え失せ、俺は差し出された鉛筆を受け取る。
「まあ、君みたいな性格の人をサポートできるのは大石みたいな人だけだと僕は思うけ……」
「すまん、手塚、不二! 待たせた!」
 大石にしては珍しく乱暴に扉をあけ、教室の中に入って来る。さきほどまで試合をしていた事がありありと判るウェア姿で、タオルを首にかけて。
「やあ、大石。試合はどうだった?」
「今日は勝たせてもらったよ。英二の調子がずいぶん悪かったみたいで、6−2だ」
「そんな完敗しちゃったら、英二は余計に苛立ってるんじゃない?」
「だからって俺がわざと手を抜いたらもっと機嫌悪くなるだろう? 英二はそう言うところ、カンがいいからな――っと、それで? 一体何の用だ?」
 大石は俺たちに歩み寄り、俺の隣の席に着くと、「なになに?」と呟きながら、コピー用紙を覗き込もうとした。
 すると小さく耳に届く、不二の笑い声。
「ほらやっぱり」
「何笑ってるんだ、不二? 俺、何か変な事したか?」
「別に。ただ……僕たちって無意識にお互いの位置関係を理解してたんだなあと思ったら、少しおかしくなってね」
 正面から俺と向かい合う不二は、そう言っていっそう強く笑った。
「……何の事だ? 判るか? 手塚」
 訳が判らないとでも言いたげに、大石は隣から俺の顔を覗き込む。
 なるほど。そう言う事、か。
 無駄な時間を費やしたものだ、と俺は少々後悔した。俺なりに考えて出した答えが、こんなにも判りやすくここにあったのだから。
「大石、わざわざ呼び出した所申し訳ないが」
「ん?」
「お前が来る必要はなかった」
「……なんなんだ、それは」
 不満げに呟きながらも、「まったく、仕方ないな」と、大石は笑う。
「それじゃあ僕は練習に戻るよ」と、不二は微笑みながら席を立つ。

 俺は不二の名前を二重線で消し去ると、俺の名前の下に、大石の名前を書き記した。


テニスの王子様
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