「あれー? なんかいい匂いしません? 甘い感じの」 練習後、部室の中で着替えながら突然桃が言った。 今日の練習もいつもどおりキツかったから、腹が減ってるせいで幻覚(この場合、幻臭っつーのかな?)でも見てるんじゃねーの? と俺がツッコみ入れようかと思ったその瞬間、 「あ、そうだった」 って不二がぽん、って手を叩く。 「桃はすごい嗅覚の持ち主だね。僕、調理実習で作ったパウンドケーキ持ってるんだよ。すっかり忘れていたけど」 と、不二がバッグの中からラップとアルミホイルに包んだ物体(多分、パウンドケーキ。けっこうでかい)を取り出した。 「え? 不二、まだ食ってなかったん?」 俺たち三年六組では、確かに今日、調理実習があった。 メニューはオムライス、サラダ、スープ、デザート。サラダとスープとデザートの種類は班のメンバーで話し合って、好きに決めていいって事になってた。 ちなみにウチの班はグリーンサラダとコーンスープとコーヒーゼリーで、ゼリーは時間内に固まらなかったから、班の連中と五時間目と六時間目の間の休み時間で調理室に突入して、しっかり腹の中に納めてきたんだけど。 「うん。うちの班できあがるのが遅くてさ、持ちかえれるものは後回しにしようってご飯の方だけ食べてタイムリミット。片付けもしないといけなかったしね。あとで食べやすいように切ってはおいたんだけど」 「不二んトコはなにつくったんだっけ?」 「オムライスは当然だけど、ポテトサラダとオニオングラタンスープとパウンドケーキだよ」 「そんなめんどくさそうなの作っから、時間かかんだよー」 「ああ、そうだ!」 学ランのボタンを全部止めてから、大石が叫んだ。 「どったん? 大石」 「俺のクラスも昨日オムライスの調理実習だったんだよ。その時作ったクッキー、昨日持って帰って食べようかと思って忘れてた。バッグの中入りっぱなしだ」 と、大石はラップにくるんだ上で紙袋に入っているクッキーを取り出す。 それとちょうど同じタイミングで。 ぐうううぅ、と豪快な音を鳴らしたのは、俺の腹。 「あははははは! 英二先輩、スゲー音でしたよ、今の!」 皆笑っているけど、一番派手に笑いやがったのは桃のヤツだった。 「う、うるさいぞ桃! お前だって腹へってるから、他のヤツが気付かなかった不二のケーキの匂い嗅ぎつけたんだろっ」 と反論しては見たけれど、ちょっと恥ずかしかったのは確かだから、ぷいと目を反らして。 すると、大石が手に持ってるクッキーが目に入った。 「ねーねー大石、そのクッキー俺にくんない? 一枚でいーからさ」 両手を合わせて、上目使いでお願いするのが、俺のお得意のポーズだ。 「ああ、構わないよ」 大石は桃と違って控えめに笑いながら、クッキーの入った袋を俺に渡してくれた。 ……これって、丸ごと食っちゃっていいのかな? まあダメだったら大石が止めてくれるだろ、って事で、俺は袋の中に手を突っ込む。とりあえず一枚口に放り込んで(一枚がそれほど大きくないから、簡単に一口で食えた)。 「うまいよ大石、これ!」 甘さ控えめ、紅茶味のクッキーだった。 「だろ? 運良く同じ班に料理が上手な女の子がいたんだよ。オムライスもすごく形綺麗だったし。俺がやった事と言えば、クッキーがこげないように見張っているのと、サラダの野菜とか食器を洗うくらいだったなあ」 オムライスの形の綺麗さなら、俺も負けないけどね。 ま、こんないいタイミングでおいしいクッキー食べさせてくれた子に、はりあうのはよしとこ。名前知らないし。 「ずるいっすよ英二先輩! 俺だって腹減ってんのにひとりだけ!」 「へへーんだ、いーだろ? 悔しかったらお前も大石とゴールデンペア組んでみな〜」 俺は桃に見せびらかすように、クッキーの入った袋を振る。 「桃も食べるか?」 「えー!?」 「いいんスか? 大石先輩!」 「うん。よければみんなも食べていいよ。あんまり数がないから腹を満たすほどにはならないと思うけど」 「よくないよー、大石! 俺の取り分が減っちゃうじゃん!」 と、一応訴えてみたけど、大石は笑顔でさらりとながした。ちぇっ。 「大石副部長、ごちそうさまッス」 しょぼくれた俺の隙をついて、袋の中からクッキーを二枚奪ったのは、おチビ。クッキー口の中に入れて、ラケット担ぐと、「お先ッス」と部室を出ていった。 「じゃ、俺もいただきます!」 桃も遠慮なくとって、おチビのあとを追って部室を出る。 「俺ももらっていい? 実はお腹ペコペコでさ〜」 「もちろんだよ、タカさん」 「ふむ。この味わいからすると、小麦粉百グラムに対して、紅茶葉の比率が……」 乾なんか断わりもなくもう食って勝手に分析してるし。誰も聞いてねーっつの。あ、違うわ、大石が聞いてる。「よく判ったな、さすが乾だよ」なんて言ってるあたり、乾の分析はあってたみたいだ。 結局、手を出さなかったのは手塚と海堂だけだった。まあ、あのふたりにはクッキーなんてカワイイ食べ物、コレっぽっちも似合ってないけどさ。逆に食ってるとこ見てみたいかも。 あれ? ひいふうみい……もうひとり、手を出してないヤツがいるなあ。大石ははじめから数に入れてないし、あとは。 「あのさあ」 声聞いて思い出した。あ、そうだ、不二だ。 「どったん? 不二」 「これはどう言う意味なんだろう?」 パウンドケーキを手に持ったまま、にっこりと微笑む不二。顔は笑っているんだけど、全然笑っていない感じ。 部室の中の空気が、一瞬にして凍った。 「いや、だってほら」 俺は必死に笑いながら、その場をごまかそうとしてみたり。ちくしょー上手く逃げやがって桃とおチビめー、とか思いながら。 「だって、何さ?」 不二は恐怖の笑みを絶やす事なく、俺に迫ってくるんだけど。 「不二の作ったケーキなんて怖くて、いくら腹減ってても口にしたくない。ワサビ寿司みたいなのはもうゴメンだあ!」なんて、正直に言えるか! 怖いっつーの! 「あー……なあ不二、俺、今けっこう腹減ってるんだけど、クッキーは英二に取られてしまったし、もし良ければ、そのケーキ分けてもらえないかな……」 大石……。 大石、元々胃が弱いのにな。色々仕事抱えて、余計に弱ってるのにな。 そんな胃に、不二のケーキは辛いよな。だって、健康な俺の胃だって、拒絶反応起こしてるもん。 でも、ごめん、大石。「俺が食べる」って言い出す勇気、俺にはないみたいだ。 倒れたら、俺が責任持って、家まで連れ帰ってやるからなっ。だから……がんばれっ。 「もちろん構わないよ。どうぞ」 不二がアルミホイルをはがして出てきたパウンドケーキは、どうしてかほんのり赤かった。 赤い。激辛好きの不二が作ったケーキが。赤い。 ――死ぬなよ、大石っ! 「いただきます」 大石がケーキを口に運んで。 俺たちは真剣な目で(不二は笑ってるけど)、大石を見守っていた。多分みんな、心の中で、大石の無事を祈ったりしてるんだろうな。あ、タカさん手のひら合わせちゃってるよ。まだ大石は死んでないってば! 「……美味い」 え? 今何つった? 「すごく美味いよ不二。店に売っているやつみたいだ」 「そうでしょ?」 不二は今度は、ちゃんと嬉しそうに笑った。 「僕の班にも料理上手な子がいてね。調理実習なのに凝りすぎて時間ギリギリになっちゃうのがタマに傷なんだけど」 「それでも、こんなに本格的でおいしいケーキ作れるならすごいな。ところでなんで赤いんだ?」 「ニンジン入れたって言ってた」 「へぇ〜」 「そ、そんなにうまいの……?」 俺がビクビクしながら尋ねると、大石はぺろっと一切れたいらげて、微笑みながら頷いた。 「美味いよ。英二ももらえば?」 「食べる? 英二」 不二はあと四切れ残ったケーキを、俺の目の前に差し出してきた。 すげーいい匂い。甘くて、おいしそう。 そうだよな。このケーキ、不二がひとりで作ったもんじゃないんだし。何より、ウソのつけない大石がおいしそうな顔してるんだから、ホントにおいしいんだろう。 「じゃ、いただき〜♪」 俺はケーキを手にとって、ぱく、ってかじりついた。半分くらいをひとくちで。 そして、固まった。 口の中に広がる味は、美味いなんて到底言えるもんじゃなくて! 「あ、ちなみにこのケーキはその子と僕の合作で、ハズレ付きだから。ハズレはひとつしかないけど、気を付けてね?」 気を付けてもクソもない。つうか今さら言うなっつーの!! 部室をの壁を通りぬけ、青春学園の校庭中に俺の悲鳴が響き渡ったのは、言うまでもない。 |