幸福論

「不二はいつも、飄々としているって言うか……余裕があるよな」

 大石にそう言われたのは、いつの事だっただろう。
 そもそもどんなきっかけでそんな話になったのか憶えていない。確かその日は手塚が生徒会で、乾は委員会で、英二は夕飯作るからって早く帰って、タカさんも家の手伝いで。ああそうだ、僕は次の日に当たる英語の問題に自信がなくて、ひとり部室で残って部誌を書いていた大石に聞こうと、一緒に残っていたんだっけ。
 まあ、シュチュエーションはどうでもいいんだ。
 重要なのは、彼の言葉。ずしりと重く、僕の中に残った事実。
 彼は僕を傷付けようなんて思いを微塵も抱いていなかっただろうから、言葉の中には悪意の欠片さえ込めていなかっただろうけれど。
 うん、実際、僕も傷付いたわけじゃないんだ。驚いたわけでも、胸が痛かったわけでもなくて。
 ただ、そう、ほんの少しだけ、空しかった。

「そう言う君は、いつも色んなものを背負いすぎて、全然余裕がないよね」
 僕はからかうように返したけれど。
 たぶん、そこには、嫉妬に似た感情がこもっていたと思う。
「痛い事をはっきり言うな、不二は」
 なんて大石は、苦い笑みを浮かべていて。
 多分大石は、そこで気付いたんだろう。僕がいつも通りの笑顔の下、いつも通りの言葉の裏に、隠そうとした感情を。その機微を読み取ってしまうくらい、大石は苦労性の人間だから。
 そして、僕が気付かれたくないと思っていた事も、気付いてしまったのだろう。まあ、大石は嘘が下手だから、気付かないフリもあまり意味がなかったんだけど。
 うん、そうだよ大石。君が気付いた通り。君の目から見える世界は、きっと一生、僕の目には映らないから――自分の世界に飽きた時、ときどき、本当にときどきだけど、僕は君を羨んでいる。
 でも、それと同じくらい稀に、たとえば何もかもが上手くいかなくて疲れきった時。大石は何も見たくなくなって、僕を羨む事があるだろう。もしかしたらこの時も、彼はどこか疲れていて、嫉妬に似た感情を込めて話を切り出したのかもしれない。
「不二は、すごく大人びてる。同い年とは思えないくらい」
 うん、あんまり認めたくないし、嬉しくないけど、そうかもね。
「それを言うなら、大石こそ」
「そうかな?」
「そうだよ」
 だって僕たちは、気付いてしまっている。
 僕は僕で、大石は大石。その事実を判りすぎるくらい判ってしまっていて、何より、誇らしく思っていて。
 誰かのようになってみたかったかも、なんて、血迷った願望を口にする事すらできやしない。まだ、そう言って泣き叫ぶ事が許される年代だと思うんだけどね。
「それを言うなら手塚だろ、とか言われるかと思った」
 大石はめずらしく冗談を言って笑った。
 実は、その冗談はけっこう、ありがたかった。大石も、冗談でも言わないとやってられなかったんだろうな。冗談を口にせず、話を深く深く進めていったら……きっと僕らはこの時傷付いていただろうからね。
「手塚は大人びてるんじゃないよ。顔や言動が老けてるだけだろう? 内面は一番子供なんじゃないかとときどき思ってしまうけど、僕は」
「後先考えずに無茶ばっかりするからな」
「そうそう。そして僕は手塚のするままにまかせて、結局大石が気を回す事になるんだ。まあ、青学は手塚の恩恵を被っているから、本人を目の前には言えないけど……少しは回りの迷惑も考えてほしいよね、まったく」
 僕たちは秘密を共有していた。
 手塚の肘が壊れていて、思う存分テニスができないと言う、青学にとって致命的な秘密を、手塚本人とスミレちゃん含めて、四人で。
 大石はひとつだけ深いため息をついて、書き終えた部誌をぱたりと閉じる。
「それが、手塚だからな」
「そう、それが手塚なんだよ。残念な事に。どこがパーフェクト男だろうね?」
 僕も大石につられて、ため息を落とした。
「まあべつに俺は、たまには不二が気遣ってくれればいいんじゃないか? と思わない事もないけど?」
 ずいぶん確信を突く冗談を言うなあと、内心驚いたけれど、僕は大石と違って嘘が上手いから、よっぽど強く動揺していない限り、きちんと隠す事ができる。
 ああ、もしかして、今の冗談は結論を導き出すため、なのかな。
 そうだね大石。きっと僕らは、僕ら自身から逃れられない。常に、じゃなくて、ときどきしか誰かを羨まなくてすむ自分自身を、幸せだと思っていて構わないんだ。
「いやだよ。そんなの、僕のキャラじゃないだろ?」
 僕が静かに笑いながらそう言うと。
 大石も微笑みながら返してきた。
「そうだな、やっぱり俺がやるしかないか」
 そう。それこそが君のキャラだからね。


テニスの王子様
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