感謝

 ごめん、手塚。
 俺は多分、安心、したんだ。悔しいとも、辛いとも思わずに。お前のはじめての敗北を目の前に驚きもせず。
 終わってくれて良かったと、安堵のため息を吐いたんだ。

 いつか後悔する事になるかもしれないと、俺は考えた。「がんばれ」と簡単な応援をかけて、手塚をコートに送り出してしまった時に。
 そして。
 もし。もしも、だ。これが手塚の最後の試合になってしまったら、どうすればいいんだろうと考えはじめたら――つまり俺はほんの数分で、後悔してしまったと言うわけだ。
 俺は何かに祈るように試合を見ていた。
 陳腐な言葉しか浮かんでこない自分が憎らしいくらいに、切ないほど、戦い続ける手塚は美しい存在だと思った。そして俺にはけして理解できない、孤高の世界を見ているのだと。
 悲しかったけれど。
 辛かったけれど。
 俺には目を反らす事も、泣く事も、嘆く事も、許されはしないだろう。
 だって俺は手塚のわがままを聞いてしまったから――怪我をおして戦う事を望む手塚の背中を、押してしまったのだから。
 しょせん他人なのだから、相手の苦しみを背負う事などできるわけがないと、大人は言うけれど。
 それでも俺はできる限り、手塚の苦しみを、痛みを、背負わなければいけないと思う。それが背中を押した罪を償うための罰だと、俺は信じてる。
 手塚はそんな事を望まないだろう。それは判っているつもりだ。
 だけど、手塚は皆の望みに逆らって試合を続けた。だから俺が、手塚の望みに逆らって、責任を背負ってもいいじゃないか。

「ゲームセットウォンバイ氷帝学園跡部!! ゲームカウント7−6!!」

 それは、青春学園の皆にとって、これ以上無い衝撃を呼び込んだ響きだった。
 でも、俺は。
 ごめんな手塚。俺は安心したんだ。
 一秒でも早く終わってほしかった。ほんの僅かでも、お前の肩にかかる負担が、軽いものであってほしかった。
 もちろん、勝って欲しかった気持ちもあるけれど。
 それ以上に、お前に無事であって欲しかったから。

 俺は手塚のジャージを片手に、コートからこちらに向けてゆっくり歩いてくる手塚に近付く。
 手塚にかけるべき言葉は、一体なんだろう。
 残念だったな、とか? いや、それは俺が口にしていい言葉じゃない。
 でも他に、考えつかなくて。
「おつかれさま、手塚」
 俺は手塚の顔を見ないように、手塚の肩にジャージをかけながら、かすれた声で言った。それから、「ごめんな。そんな事言われたく無かったよな」との謝罪の言葉は、心の中だけで続ける。
 手塚からの返事は何も無くて。
 うん、手塚。お前はいつもどおり、何も言わなくていいんだよ。ただ静かに休んで、この長い試合によって積み重なった疲労を、痛みを、癒してくれればいい。
「大石」
 けれど、激しく繰り返される呼吸を割って、手塚の声は俺の名を紡いだ。そして――
「ありがとう」
 俺にしか聞こえないくらい、小さな声で。

 俺は、手塚の負担にならないよう、手塚の右肩に手を置いて。
 笑ったよ。笑うしかないじゃないか、そんな事言われてしまったら。
 お前がそれほど戦いたかったのなら。
 後悔するのもバカらしく思えてしまうよ。

 ふと顔を上げると、ゆっくりと階段を降りてくる越前の姿が見える。
 きっとこれが、「部長・手塚国光」がやらなければならない、氷帝戦最後の仕事。
 俺は彼らの世界に踏み込まないよう、手塚のそばを離れ、二人を見守った。


テニスの王子様
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