約束

「すまなかったな、手塚」
 俺が苦笑しながらそう言うと、手塚は相変わらずの無表情で俺に振り返るだけだった。
 手塚とはじめて出会ったのは中学に入学してすぐ。その時から同い年とは思えないほどクールな奴ではあったけれど、当時は子供らしく感情を爆発させる事もあったし、僅かながら表情が動く事もあった。しかし今はそんな様子を見せてはくれない。
 手塚の表情が変わらないなら、向かい合ったこちらが彼の内に秘められた感情を読むしかない。俺や不二などはずいぶん慣れたし、乾は二年間積み上げたデータからだいぶ判断できるようだが、英二は「さっぱりわかんないよ!」と手塚の相手をする事を完全に投げている。手塚に用事がある時は冗談なのか本気なのか、必ず不二か俺に「通訳よろしく!」って言うからな、あいつは。
「何の事だ?」
「色々だよ。理由はどうあれ、怪我をして皆に迷惑かけた事に間違いはないからな。どうせしばらくラケットは持てないから、大切な大会をすっぽかした罰にグラウンド百周くらいするよ」
 手塚は目を伏せただけで、俺の提案を肯定する事も否定する事もなかった。まあ、越前みたいに寝坊したわけではないし、普段だったら「走る必要はない」と言ってくれるんだろうけど、俺が走る以外にできる事はないって先手打っちゃったからな。卑怯な言い方だったかもしれない。
「それから、約束をやぶってしまった。全国に導こうって言ってたのに、見てるだけで導かれる方になってしまったよ」
「約束ならば去年果たしただろう」
「そうだけど、『俺達の代』って言ったらやっぱり今年だから、今年も果たしたかったんだよ。お前だってそうするつもりだろう?」
 大切な、約束だったから。
 手塚には判らないかもしれない。手塚は小学校の時からテニスをしていて、しかもすごく強くて、Jrチャンピオンだったりして。手塚は本当に自信があって、全国と言う言葉を口にしたんだろう。
 けれどあの頃の俺にとって全国はあまりに遠くて、口にするだけで怖かったのを覚えている。夢見る事も虚しい場所だと思ってた。約一年後にはその大舞台に立てるなどと考えた事もなかったんだ(一回戦突破がやっとだったとは言え、な)。
 手塚は俺に大きな夢を見せてくれて……だからこそ夢を実現する喜びを教えてくれたのも手塚と言っていいだろう。
 けれど、どれだけ感謝しているかなんて、悔しいから言わないけどな。おかげで手塚のサポート役押し付けられて多少なりとも苦労しているわけだし。
「謝りたい事はもうひとつあるんだよ、手塚」
 すると手塚は伏せていた目を開いて俺を見下ろした。彼に慣れていない人物ならば、睨まれていると勘違いして怯んでしまう視線で。
「俺は手塚の気持ちを判っているつもりで色々やっていたけど、本当は何にも判っていなかったんだって、今日思い知った」
 俺は右腕を掲げる。包帯のまかれた部分に、ふたり分の視線が集中する。
 怖くて、震えてしまいそうになった。
「病院でさ。妊婦さんのそばに着いていて、家族の人がやってきて、やたらと感謝された。俺はまだ第一試合に間に合うかもしれないと思って、全力で走ろうと、テニスバックを手に取った。いつもの癖で、右手でな」
「大石」
「当然持てなくて――取り落とした」
 あの時の絶望感は、俺の知っている限りの言葉を駆使しても語り尽くせない。テニスバックがひどくゆっくり地面に転がっていく様が目にやきついて、音が部屋中に響き渡った気がして、驚いた。
 利き腕である右手は酷く痛んで、ああ、今のこの腕では思う通りにラケットを振れないんだと思ったら――俺はこんなにもテニスが好きだったんだ、と気付いたんだ。
 俺は産婦人科と言う専門外とは言え立派な医者に見てもらって、二週間もあれば完治するよと言われている。たった二週間だ。それだけ我慢すればまた今まで通りにテニスができる。それでも正直、辛い。関東大会を戦い抜く仲間達を心から応援しているけど、同じくらい強く羨ましいと思う。
 手塚は、半年以上我慢した。
 半年以上もこの思いを抱えて過ごしてきたんだよな。やっぱり凄い。強いよ、手塚は。
 俺は手塚の苦しみを判ったつもりになって、できるだけ手塚の負担を軽くできるようにと動いてきたつもりだったけど、無神経だったかもしれないと今更思うんだ。手塚は何も言わなかったけど。だから謝りたくて仕方がなかった。
「どのくらいで治る?」
「え? この怪我の事か? 二週間くらいで完治するって言ってたよ」
「ならば全国には間に合うな」
 冷たく聞こえる短い言葉の中に、温かい想いが隠されている事を俺は知っているつもりだった。関東大会を見守る事しかできない俺に、全国では共にがんばろうと、手塚は言ってくれているのだ。
「もちろんだ。二週間で直して、二週間で調整する」
 俺は青学を全国に導く手伝いはできないけれど。
「では、約束の代わりに青学を全国一に導く手伝いをしてもらおう」
「こりゃタイヘン」
 言おうと思った台詞をそのまま手塚に取られた俺は、肩を竦めて苦笑するしかなかった。けれどまあ、全国ナンバー1を目指す上で、手塚が俺の力を少しは頼りにしてくれているって事だから、嬉しいんだけどな。
「怪我で不自由している事で、何か俺にできる事があるなら遠慮なく言え」
「え?」
「今までずいぶん世話になったからな、その礼だ」
 そんなに世話してきたつもりはないけれど――とにかく、今まで俺がやって来た事は迷惑じゃなかったって思っていいのかな?
 そうだとしたらとても嬉しいし、安心するんだけど。まあどうでもいいか。
「とりあえず全国大会につれてってくれ」
「当然だ」
「それから俺、乾に特別メニューつくってもらって腕を使わない基礎練習を個別でやるつもりだから、皆のそばを離れる事が多くなると思う。いつもみたいにグラウンド何周! とか怒鳴っているだけじゃなく、気を使ってやってくれよ。特に桃と海堂はほっとくとすぐに喧嘩をするし、英二は気分が乗らないとさぼるし、越前は無茶するし……」
「……」
 内心乾あたりにまかせようと考えてるな、絶対。まあ俺も言ってみただけでそのつもりだけど。
「あとノートのコピーももらおうかな。教科担任が完全に同じなの、部活内では手塚だけだし」
 同じだったとしても英二のノートは期待できないし、乾はきっちりしすぎていて怖いし……。別にクラスの友達にコピーさせてもらえばいいんだけど。
「よろしく頼むぞ、手塚!」
 無表情のまま微妙に困惑してそうな手塚がおもしろいし、せっかくの申し出だし、甘えさせてもらおう。


テニスの王子様
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