不安

 春休みに、大石先輩と動物園に行った帰り。
 その動物園は、最寄の駅からバス亭をみっつ行ったところにあって、行きはバスに乗って行ったんだけど、帰りは歩く事にした。
 三十分も歩かずに駅に着くって言われたし。
 行きがけに、バスの窓から太陽の光を浴びてキラキラ光る海が見えたから、寄って行きたくて。
 まだ水は冷たくて、泳ぐのは何ヶ月も先の事だけど(それに、当然水着なんて持ってきてるわけないし)、海は見ているだけでも好き。私も、もちろん大石先輩も。
「気持ちいいですね」
 私たちは誰も居ない砂浜に立って、海を眺めた。
「うん、そうだね」
 独特の爽やかな香りを浜まで届ける潮風の中。
 昼の強い日差しを浴びた水面を眺めながら。
 寄せては帰る波音に、遠くで鳴く海鳥の声に、耳を傾けて。
 地球上の生物の全ては海の中から産まれたと、確か理科の先生が教えてくれたっけ。だとしたら、さっきまで見ていた動物たちも、大石先輩も、私も、遠い昔はこの海の中に居たって事になるけど。
 こんなに広い広い海の中じゃ、私は大石先輩に出会えないんじゃないかな……?
 そんな事を考えはじめたら、急にすごく、不安と言うか、怖くなって、私は大石先輩を見上げる。
 少しだけ細めた真剣な眼差しが、一途に海へと注がれていた。
「大石先輩」
 先輩の手に、ほとんど触れるだけと変わらないくらいの力で指を絡めて。
 そうすると先輩はちょっと驚いて目を開けて、優しい視線で私を見下ろしてくれる。
「どうしたの? 桜乃ちゃん」
 優しい声。手から伝わってくるぬくもり。
 いつも変わらない、大好きな、大石先輩。
「いえ、あんまり意味、無いんですけど、ちょっと怖くなって……」
「怖い?」
「はい。なんて言うか、その、海ってすごく、広いじゃないですか。だから、だと思うんですけど」
「……」
 先輩はしばらく考え込むそぶりを見せて、それから私の手を放す。
 ぬくもりをなくした一瞬、私は目の前が真っ暗になったみたいに、本当に怖くなって、戸惑ってしまったけれど。
 先輩の大きな手は、私の手から離れた代わりに肩に回って、私を抱き寄せてくれる。
 突然の事で最初はびっくりしたけど、びっくりがおさまったら、今度は私の顔が真っ赤になっていくのが、鏡を見なくても判った。だって、明らかに熱くなってるもの。
「大丈夫だよ」
 耳元で、囁くように、先輩の声が響いた。
 大丈夫って先輩が言ってくれたのは一回だけだけど、頭の中でぐるぐる回って繰り返されて、何度も何度も言われたみたいに、染みてくる。
 先輩の声で聞くと、安心するの。ああ、本当に、大丈夫なんだなあって。
「桜乃ちゃんは、色々不安があるの?」
「え、そ、そう……ですかね?」
「これは俺の話だけど、たまにわけもない不安を抱えている時、絶対に敵わない存在を目の前にするとさ、不安が増してどうしようもなくなる時があるんだ。今の桜乃ちゃんがそんな感じに見えたから、つい。違ったらごめん」
 先輩も、不安になる時、あるんだ。
 そうだよね、それは当然なんだけど。なんか、私の前に居る大石先輩は、いつも大人で、しっかりしてて、迷いなんて無いように見えるから。
 私が頼りないから、不安がっているところとか、見せてくれないだけかもしれないな。
 あ、なんかちょっと、それは、さみしい……かも。
「俺がさしあたって不安なのは、高校に上がる事かな、やっぱり」
「そうなんですか? 先輩なら何も問題なさそうですけど」
「いやー……ほら、今まで俺たちは最上級生だったけど、高校に入ったら新入生だろう? あいつら、部活とかで新人らしく控えめにしてくれるかなあ、とかさ」
 先輩はきっと今、ひとりひとり、テニス部の仲間たちの事を思い出してる。それからふう、ってため息ついて、笑った。私もつられちゃって、一緒に。
「あと、こっちは心底本気なんだけど」
「はい」
「俺の目の届かないところで、桜乃ちゃんに言い寄ってくる奴が出てきたら嫌だな、って」
 大きな手が、くしゃって、私の頭を撫でる。
 それは、大石先輩が照れ隠しをする時によくする癖みたいなもの。
「さ、日が傾きはじめたから、そろそろ行こう。あんまり遅くなったら家族の方が心配するだろ?」
 先輩は私の手を引いて、砂浜に足跡を残しながら、駅に向かって歩きはじめる。
 私は先輩のあとを歩きながら、あいてる片手で頭を抑えて、ちょっと呆然としてた。
 どうしよう。
 こんな事思うの、おかしいかなって思うんだけど。
 ……うれし、かったり、して。
 先輩が不安を打ち明けてくれた事と、先輩の不安の原因が私だった事。それから、先輩も私とおんなじだった事が。
 私だって不安だったもん。先輩は高校行っちゃって、私は中学生のままで。私の知らないところで、先輩が女の人に人気が出たらイヤだな、とか。
 あと、生活する敷地が違っちゃって、先輩だけどんどん大人になって、私だけ取り残されちゃう気がしたの。あの海の中で、ひとりぽつんと佇むみたいに。
 だから不安で、怖かった。
 でも。
「大丈夫です、先輩」
 先輩が、大丈夫だって言ってくれたから。優しい声で、優しい笑顔で。
 だから、大丈夫だって、信じられるの。
「万が一言い寄ってくる人が出てきても、私、絶対に大石先輩以外見ませんから!」
 私が精一杯そう叫ぶと、先輩は歩く足を止めて、ゆっくり振り返って。
 また、私の頭をくしゃくしゃ、って撫でた。
「そりゃ、光栄だな」
 先輩の照れ隠しの合図は、嬉しかったけど。
「……それだけ、ですか?」
「それだけって?」
「先輩は、どうなんですか?」
 私が上目使いで先輩を見上げて尋ねると、先輩は柔らかく微笑みながら、私の頭をコツンって、触れるのとほとんど変わらない勢いで叩いてきた。
「聞くまでも無いだろ? 俺も、同じ」
 それが、答え。
 何よりも判りやすい、何よりもはっきりとした。
 やだなあ、もう。私も先輩みたいに頭良かったら、嬉しい以外に今の気持ちを表現する言葉、出てきたかもしれないのに。
「嬉しい、です」
「そう?」
「はい! もちろんです!」
 私はぎゅっ、て先輩の腕にしがみつくように抱きついて。
 たわいもない話をしながら歩く帰り道が、もっと長ければいいのになあ、なんて考えていた。


 気に入らないわけでは、けして、ないのですが。
 あまりの恥ずかしさに、更新履歴に載せる勇気がありませんでした……ここならこっそりアップできますからね(笑)
 もう、このふたりは、私にはまぶしすぎます。爽やかです。ラブラブです。
 海朋や石杏みたいに、くだらない事でケンカしたり、嫉妬したり、どんなカップルでもそう言うところがあるに決まってるのに、このふたりだとまったく想像つかないので、書くとやばいくらいに甘くなってしまいまして、ホント、もう、恥ずかしいです。
 私はこのふたりを書くには、汚れすぎているのかもしれません……(T_T)>(笑)


ゴミ箱
トップ