日頃の行いは、割と良い方だと思っていたのだけど。 先日、日曜日に桜乃ちゃんの誕生祝も兼ねて遊園地に行く約束をしたので、微妙な空模様の日曜朝九時、彼女の家まで迎えにきた。 ピンポーン、とインターホンを鳴らすまでは、問題なかったんだ。 「大石先輩!」 桜乃ちゃんは玄関前で待ち構えていたんじゃないかと思うくらいの素早さでドアを開けて、晴れやかな笑顔を俺に見せてくれた――時には、天候はがらりと変わっていて。 冷たい大粒の雨がしきりに俺の体に降り注いできた。いや、ほとんど叩き付けられている、に近い。 念の為、と折りたたみ傘を持ってはいたけれど、開いている暇もないほどの急激な天候変化。被害に遭っている俺よりも見ている桜乃ちゃんの方が慌てたようで、サンダル履きで飛び出してきたかと思うと俺の腕を引き、玄関の中に入れてくれた。 「だ、大丈夫ですか? 今、タオル持ってきますね!」 走り方まで慌ててる。ドタドタドタ、と足音を立てて奥に姿を消してしまった。 俺は竜崎家の玄関先で水びたしのまま立ち尽しているのもどうかと思い、とりあえず手と顔だけ自前のハンカチで拭いてみる。とてもじゃないけど拭ききれない。焼け石に水とはまさにこの事だ。 「いやー、焦った焦った。急に降り出すから何事かと思ったよ」 聞き慣れた女性の声がドアのすぐ向こうから聞こえ、あれ? と思って振り返ると、ドアがガチャリと音を立てて開く。 俺と同じように雨に濡れた、とても見覚えのある顔が、外から竜崎家へと入って来た。 「……大石?」 「竜崎先生……」 「お前、なんだってこんな所に居るんだい」 それはごもっともな質問なのですが。 なんででしょう。俺も聞きたいです、竜崎先生。 答えに詰まっているうちに、桜乃ちゃんがとてとてとタオルを抱えて戻ってきた。 「お待たせしまし――おばあちゃん!?」 桜乃ちゃんはとてもきまずそうにその場に立ち尽くしていて。 俺もこんな形で、しかも何の心構えもなく、まだ俺たちの仲について知らないだろう桜乃ちゃんの身内にばったり会ってしまうのは気が引けたのだけど。 とりあえずそんな事はあと回しで、桜乃ちゃんが手にしているタオルを竜崎先生に渡した。 「竜崎先生、どうぞ。そのままじゃ風邪ひいてしまいますから」 「あ、ああ、ありがとうな、大石」 竜崎先生は不思議そうな顔をしていたけれど、とりあえずタオルで顔や頭をふいて、竜崎家の中へ上がっていった。 なんとなく、上がってお茶でも飲んでいかなければいけないような雰囲気で。 冬の雨に濡れてしまったので、体の中から温まれるのは、ありがたい事なのだけれども。 たまたまその日桜乃ちゃんのご両親は出かけているとの事で、桜乃ちゃんがお茶を入れている間、ダイニングに竜崎先生と向かい合わせで座る事になってしまった。 なぜか、妙に……気まずい。 お盆に三人分のお茶(竜崎先生は緑茶、俺と桜乃ちゃんは紅茶、らしい)をのせて桜乃ちゃんが来てくれた時は、本当に救いの女神に見えた。 「それで? 大石」 竜崎先生はずず、とお茶を一口すすってから話を切り出してきた。 「はい、なんでしょう、竜崎先生」 「あたしはまだ質問に答えてもらってないんだけどね。なんでお前がここに居るんだい」 ですから、俺も聞きたいくらいなのですが……。 まあ、竜崎先生が聞きたいのはそういう事ではないだろう。なぜ竜崎家に上がっているのかと言うより、なぜ俺ひとりで竜崎家に来ているのか、の答えを知りたいのだ――いや、竜崎先生はおそらくもう気付いているから、俺の口から言わせたいだけだ。 俺は大きく深呼吸し、軽い緊張をほぐしてから、 「実は先日から、桜乃さんとお付き合いさせていただいてます」 他に説明のしようがなかったので、真っ直ぐ竜崎先生の目を見つめ、俺は真実を伝えた。 竜崎先生は聞いているのかいないのか俺から目をそらし、再びズズ、とお茶をすする。 長い沈黙。ものすごく強い心理的圧迫感。 ひとつの湯のみとふたつのティーカップから立ち昇る湯気が、俺たちと竜崎先生の間に高い壁として聳え立つようだ。 俺は身動きひとつ取れず、桜乃ちゃんがせっかく入れてくれた紅茶が覚めて行く様を眺めているしかなかった。 「どこからどうなったら大石になるんだい?」 それがようやく竜崎先生が紡いだ言葉。 疑問はごもっともです、竜崎先生。俺たちを繋ぐものがあるとすれば、それは竜崎先生以外に考えられないのに、その竜崎先生が知らないところで話が進んでるんですから。 正直なところを言えば、俺もどうしてこうなったのかと思う。度重なった偶然に感謝するしかない。 「えっと……それは……だ、だめ、かな? おばあちゃん。一応、その、お母さんには、まだ先輩は紹介してないんだけど、話はしてあるんだけど」 桜乃ちゃんは目をうるませて、こころもち声を上ずらせて、竜崎先生の目を覗き込んだ。 「駄目と言うか……あんたにはまだはやいかもしれない、とは思ったけどねえ。つまらないねえ」 「え?」 桜乃ちゃんは不安げに声を震わせて、俺の服の裾をぎゅっとにぎりしめた。 それにしても「駄目だ」ならともかく、「つまらない」とはどう言った意味だろう。かなり気になる。 「いやいや、せっかくデートに浮かれる若い恋人たちの前に運悪くいじわるな婆さんが立ちはだかったんだから、邪魔のひとつもしてやりたいじゃないか。でも、大石じゃねえ」 「俺だと、なんなんでしょう? 駄目でしょうか?」 竜崎先生の声の中に悪意は少しもこもっていなかったけれど、不満が少しこもっているように思えた。 「なんて言うかねえ、ほら、祖母の目から見て、孫娘の恋人としてのお前には文句の付け所がないじゃないか。成績優秀・品行方正・清潔で爽やかで人当たりのよい真面目な好青年ってね。他の連中ならひとつやふたつケチつけられるんだが……桜乃をヘンなところに連れていきゃしないかとか、桜乃の勉強の妨げにならないかとか、桜乃とふたりで会話ができるのかとか」 最後が誰を示しているのか判りやすすぎます、竜崎先生。確かにそれは、俺も友人として心配ですけど、今は笑っていい所ではないので、笑いをこらえるのが辛いです。 「だが最近桜乃の成績が上がったのは大石のおかげのようだし、大石なら今時ありえない中学生らしい健全な交際とやらをやってくれそうだからね、安心だ」 どうも全面的に許されているようで、それはとても嬉しいけれど。 誉められているのか、釘を刺されているのか判らない竜崎先生の物言いは、少々心臓と胃に悪い。 「じゃあ、いいの!?」 「いいも悪いも、あたしが堂々と口出せる問題じゃないからね。でも大石なら誰も反対しないだろうさ」 「わーい、ありがとう、おばあちゃん!」 桜乃ちゃんはおれのそばを離れ、テーブルを迂回して竜崎先生のそばに駆け寄ると、ぎゅっと抱き付いた。微笑ましい、祖母と孫娘の図だ。 それにしても、ほっとした。もちろん、反対されたからと言って安易に別れを選ぶつもりはなかったけれど、認めてもらえた方がいいに決まってる。 俺は安堵の笑みをこぼし、ようやく紅茶に口を付ける事ができた。いい具合に冷めて、飲みやすい。 「ところで大石、親が出かけている隙を突いて恋人の家に来るってのはどう言う了見だい?」 すっかり油断している時にそんな事を訊ねられたので、俺は紅茶を吹き出しそうになった。それは何とかこらえたけれど、紅茶は気管に入りこみ、噎せこんでしまう。 「ど、どう言う了見も何も、今日ご両親が不在だなんて、俺、知りませんでしたし! それに今日は遊園地に行く約束をしていて、それで迎えに来たら突然雨が降ったので、タオルを借りただけですよっ!」 「ムキになって言い訳するのは怪しいぞ、大石」 「りゅ、竜崎先生!」 「そんなに慌てんでもわかっとるよ、お前にそんな甲斐性がない事くらい」 「……」 馬鹿にされているんだろうか、俺は。妙に虚しさを覚えるのだけれど。いや、信頼されていると思っておこう。 「それにしてもせっかくの遊園地に雨だなんて、お前たちもついてないねえ。家族に邪魔されなくても天気に邪魔されちゃあしょうがないじゃないか」 竜崎先生の言葉に、俺と桜乃ちゃんは自然と視線を合せ、苦笑しあった。 ……まったくごもっともです、竜崎先生。 |