独占欲

 こう言う感情を、いわゆる独占欲、と言うのだろうか。
 他人なんだからあたりまえなんだけど、あまりに他人行儀にお礼を言い続ける彼女の姿が少し辛くて、俺はつい変な事を言ってしまった。
「また判らない事とかあったら、俺で判る事なら教えるから……いつでも聞きにきて?」
 おかしな言い分だな、と今更思う。俺が彼女に英語の宿題を教えたのは、たまたま偶然一緒におかしを食べる事になったからで、普段判らない事があれば、クラスの友達とか、教師に直接聞くとかが普通だろう。
 だいたい普通、一年生ってなかなか三年に会いにこられないものじゃないかな? 職員室前とか特別教室は共通フロアだけれど、三年の教室ばかりが並ぶフロアに足を踏み入れるのって、結構勇気が必要な事だと思うし。俺も部活の用事とかで先輩に会いに行くの、しりごみした記憶がある。
 なのに俺は、竜崎さんに頼ってほしくてそんな事を言ってしまい――そして彼女は少しだけとまどったあと、
「じゃあ……よろしくお願いします!」
 と言って頭を下げてくれた。
 こんな些細な事で一喜一憂している自分はどうかと思いつつ、嬉しいと正直に思った。
 少しは受け入れてもらえたって事なのかなとか。とりあえず拒絶されなくて良かったなとか。なんだか情けない事を考える自分が少し腹立たしいけれど。
 彼女と過ごせる時間ができるのかと思うと、やっぱり嬉しいんだ。

 竜崎さんが苦手な教科は、どうやら数学と英語らしい。ある意味で二大嫌われ教科なので、まあ納得と言えば納得だ。
 金曜日の三時間目の数学の授業では必ず宿題が出るらしく、金曜日の昼休み、それから女子テニス部が休みの火曜日の放課後に、俺たちは定期的に勉強会を開く事になった。わざわざ三年の教室に俺を呼びに来るのは辛いだろうと思って、あらかじめ日付を決めて図書室で待ち合わせするようにしたのだ。
 俺は特別数学が得意と言うわけではないけれど、一年の数学を教えるくらいならまず問題ない。
「この問題の解き方が判らないんですけど……」
 そう言って竜崎さんが示す問題の回答のヒントを出してみる。
「あ、なるほど! さすがです、大石先輩」
 彼女はヒントを元に、眉根を寄せてひたすら考え込んで、ようやくノートにシャープペンを滑らせはじめた。途中計算を間違えていたのでそれを指摘して、とりあえず一問終了。
 テスト期間ならともかく、宿題程度ならばそれほど広範囲の問題は出ない。つまり一問自力で解ければ(計算ミスをしない限り)、全て解けるも同然だ。数学に関して言えば。
 それでも彼女は不安なようで、俺が居るうちに片付けたいらしい。ひたすら問題を解き進める。
 俺は時々色んな指摘をしながら、一生懸命な彼女の横顔を眺める。自分も数学の宿題があるにはあるのだけれど、これは家でもできる事だから(いや、本来宿題とは家でやるものなのだろうけど)、少しでも竜崎さんとの時間を噛締めたかった。
 予鈴まであと一分の時だったか。彼女は腕時計にちらりと視線を送り、「あ!」と声を上げると、いつも昼休みは持ち歩いていない(昼休みの勉強会は、筆記用具と教科書しか彼女は持ってこない)鞄の中を漁りはじめる。
「どうしたの?」
「い、いえ、その、お口にあうか、判らないんですけど……」
 竜崎さんは鞄の中から取り出した袋を俺の目の前に差し出した。女の子らしいシールで封をしてある、ギンガムチェックの紙袋。
「大石先輩、アーモンドとか平気ですか?」
「うん、けっこう好きだけど」
 素直に答えると、竜崎さんはふわりとほころんだ笑顔を見せてくれた。
 無防備で、かわいくて、綺麗な笑顔。時折見せてくれるそれを見ると、役得だなあと思う。
「よかった。これ、昨日家で作ったクッキーなんです。アーモンド入れちゃってから、大石先輩が嫌いだったらどうしようかなって気付いて。ひとりで作ったから、このあいだのマドレーヌみたいにおいしくないかもしれないんですけど、よかったら……」
 ぽん、と、袋は俺の手の上に置かれた。
 竜崎さんの、手作りクッキー?
 わざわざ俺のために作ってくれた、と言う事だろうか。もしかすると、俺「だけ」のためじゃないのかもしれないけど。
「あ、ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、いつもありがとうございます」
 ぺこりとお辞儀をする姿も、一生懸命で。
 そんな一生懸命なところがかわいくて……改めて好きだな、と思う。
 まいったな。
 本来ならば滅多に会う事が無いだろう君と、こうしてむりやり会う機会を作って、一方的に喜んでいる俺にこんな事までしてくれるなんて。
 笑ってくれるだけでいいと思っていたんだ。時々そばに居られるだけで満足しようって。
 だけど……同じ時間を過ごすたびに、ますます君が好きになっていく。君を完全に独占したいと、思いはじめている自分に気付く。
 俺は自分にそんな一面がある事を、初めて知ったんだ。
 君に出会って、自分も不安定なただの子供だと言う事を、はっきり自覚できたんだよ。
「竜崎さ……」
 キーンコーンカーンコーン……。
 俺が何かを伝えようと口を開くと、狙ったようなタイミングで予鈴が鳴り響く。
 竜崎さんは振り返ってくれたけれど、予鈴が鳴り終わる頃には勢いがすっかり削がれてしまっていて、俺は彼女に何を伝えようとしたのかも判らなくなっていた。
「大石先輩?」
 俺はむしょうに情けなく、そして恥ずかしかったので、少し不思議そうに首を傾げる彼女に対し、あたりさわりのない事しか言えなかった。
「いや、その……じゃあ、また来週の火曜日に」
 竜崎さんは鞄を胸に抱き締めて微笑み、肯く。
「はい、よろしくお願いします!」
 図書室からは一年生の教室の方が遠いから、竜崎さんはちょっと急ぎ足で図書室を出て行った。
 俺はゆっくりと教室に向かって歩きながら、手の中にある竜崎さん手作りクッキーをじっと見つめる。
 きっと色々とドジを踏みながら、一生懸命作ったんだろうな。
 想像すると、微笑ましすぎて笑いをこらえきれなかった。
「焦る事はない、よな」
 俺は自分にそう言い聞かせる。もう少し、このままで居よう、と。
 竜崎さんの微笑みと向かい合いながら、「じゃあまた」なんて約束できる日々を、大切にしたいと思うから。


テニスの王子様
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