「桃城、池田」 部活開始時間から少し遅れて現れた手塚は、コートに入るなり、近くで柔軟をしていた1年生のふたりに声をかけた。 少し離れたところで同じように準備運動をしていた大石はそれに気付いて、身体を動かすのは止めないまま聞き耳を立てる。 「は、はいっ! なんですか、手塚部長」 引退した3年生から役職を引き継いだばかりの新米部長とは思えないほど、彼の声と立ち姿は威厳に満ちていた。桃城と池田は緊張した面持ちで手塚の元に駆け寄ると、慌てて姿勢を正して返事をする。 手塚はジャージのポケットから折りたたんだ紙と封筒を取り出すと、ふたりの後輩に手渡した。 「練習の途中で悪いが、買い出しに行って来てくれないか。買うもののメモと費用は、この封筒に入っている」 「この紙は……地図ッスか?」 「そうだ。その丸がついている店、そこで買って来てくれ。少し遠いが、竜崎先生の紹介でだいぶ安くしてもらえるらしい」 わかりました! と元気良く返事をして、ふたりは足取りも軽くコートを出ていった。 堂々と練習がサボれることに喜んでいるのかもしれないが、メモに書かれた品物を全部買って、たったふたりで学校まで運んでくることの大変さに気付いたら、あんな風に嬉しそうに笑うことはできなくなるだろう。手塚はそんなに甘くないのだ。 指示を終えて、手塚は大石の方へと歩いてくる。その姿を見てふとあることを思い出し、大石は小さく笑いを漏らした。手塚が気付いて不信げに眉をひそめる。 「……どうかしたのか、大石」 「ああ、ゴメン。思い出したんだよ、去年のこと」 「去年?」 「先生に頼まれて、ふたりで買い出しに行ったことあっただろ? あんな風に」 「買い出しなら何度も行っただろう、別に特別なことでも笑えるようなことでもない」 憮然としたように手塚は言う。かつて自分たちが経験した、そしてこれから後輩たちが経験するであろう苦労を思い出したのだろう、ほんのわずかだが苦い表情をしている。 「ああ――そうだな。別に大したことじゃないんだ。だから、手塚が覚えていなくても無理はないよ」 ――でも、俺にとっては大きな出来事だったんだ。 心の中でだけそう呟いて、大石はその会話を打ちきった。 「手塚、大石。ちょっと来てくれるかい」 それは今から1年ほど前のこと。 部活の途中で、当時1年生だった手塚と大石は、顧問の竜崎スミレに手招きで呼び寄せられた。 「悪いがお前たち、これから買い出しに行ってきてくれないか」 「買い出しですか?」 「ああ。2年に手の空いている奴が居なくてね。1年の中じゃお前たちがいちばんしっかりしてそうだから、任せても大丈夫だろう」 そう言って、スミレは大石に封筒、手塚に四つ折りの紙切れをそれぞれ手渡す。 「これがお金と買うもののメモ。落とすんじゃないよ、大石」 「は、はい!」 「それから手塚、そっちが地図だ。印のしてあるのがアタシの馴染みの店だから、そこで買って来ておくれ。青学のテニス部ですって言えば、向こうも解ってくれる」 「解りました」 「よし、それじゃあ頼んだよ!」 スミレは大きな手で、子供たちの背中をばん、と叩いた。 大石はジャージの内ポケットにしまった封筒を何度も何度も確かめながら、地図を手に先に行く手塚の背中を追った。ただの買い出しとは言え、部費から出た大金を預けられ買い物を任されるという重要な任務に、大石は誇らしげな気持ちを感じていた。 手塚くんはどう思っているんだろうな。 大石はふとそう思う。こんな雑用をする暇があったら、練習に使いたいと不満に思ったりしているのかな。いや、そんなはずはないか。部活をやっていくうえで必要な雑務の大切さを、解らないような彼ではない。 任された仕事は責任を持って引き受ける。ついでに行きかえりの道のりを急いで歩けばトレーニングになるな、くらいのことは考えているのかもしれない。ずいぶん早足だし。 ……それにしても、けっこう歩いたよな、さっきから。 大石は手もとの腕時計に目を落とし、ずいぶん時間が経っていることに気付いて驚いた。知らぬ間にあたりはすっかり見覚えのない町並みに変わっている。 竜崎先生の馴染みの店、とかいうの、ずいぶん遠いんだなぁ。 「ねえ、手塚くん」 大石が声をかけると、手塚は弾かれたように立ち止まり、大石を振り返った。 「ぼくたちの行く店まで、あとどれくらいなの?」 「……」 手塚は大石の問いには答えない。黙ったまま、地図とあたりの風景に交互に視線を移している。 「手塚くん?」 「……」 「……てづか、くん……?」 「…………どれくらい、だろうな」 「……え」 地図に目を落としたまま、手塚はぽつりと呟いた。何やらとても嫌な予感がして、大石は手塚の手にした地図をのぞきこむ。 「ぼくたち、いまどこにいるの?」 「ここじゃないかと思う――たぶん」 「えぇっ?!」 大石は慌てて手塚の手元から地図をひったくる。手塚が「たぶん」と行って指差したポイントは、丸がつけられた目的地の店からはずいぶんと離れたところにあった。 「な、なんで、こんなトコに……方向全然違うじゃん……」 「学校を出て、この道をずっと真っ直ぐ歩いてきただろう。ここで曲がって、横道に入って」 「うん」 呆然とする大石に、手塚は指で道を辿りながら説明をする。 「ここの信号を渡って、このビルのある角で曲がればいいはずだった。でも、この地点に無かったんだ、どっちも」 「目印が無かったってこと?」 「ああ。それで、地図で見るよりももう少し遠くにあるのかもしれないと思ってもう少しまっすぐ歩いてみた。だが、やっぱり見当たらなくて」 「うん」 「見逃して通りすぎてしまったのかもしれないと思った。だから少し遠回りになるが、ここのT字路を左に行けば方向的には合っているだろうと思った」 「うん」 「だが、このT字路も無かったんだ」 「……うん」 「それで――」 「……解った。ちょっと待って、手塚くん」 淡々と続く手塚の説明をいったん静止し、大石は地図と周囲の方向を照らし合わせてみる。そして、ふと気付いた。 「……この地図、すごく古いんじゃないか……?」 「古い?」 「うん。だってここ、見てみてよ。ここ、いつも下校する時に通る道。ここの××商店なんて、今はもうないだろ? 空き地になってるじゃないか」 「……そうだな」 「ビルも信号も取り壊されたんだよ、きっと。道も増えたんだろうし。だってここの広告見てよ、郵便番号3桁だよ? けっこう前のことじゃないか。そりゃあ、町並みも変わるはずだよ」 大石は頭を抱えた。……竜崎先生、こんな古い地図で、それで本当にぼくたちが目的地に辿り着けると思ってたんですか。 はあ、と溜め息をついて、大石は頼りにならない地図を折りたたむ。そして、手塚の肩を軽く叩いた。 「そこのコンビニで地図見せてもらって、道を聞いてみよう。たぶん、それが一番早いよ」 そのコンビニから15分ほど歩いて、ようやく二人は目当ての店に辿り着いた。店主はスミレから連絡を受けていたようで、二人の到着が遅いのをずいぶんと心配していた様子だったが、大石が事情を話すと、あの人らしいな、と豪快に笑った。こっちは笑い事じゃなかったんだけど、と少しだけ腹が立ったが、さすがに口にすることはできなかった。 ようやく買い物を済ませ、大量の紙袋と店主にコピーしてもらった最新の地図を手に帰路につく。その途中で、大石は、さっきからずっと黙ったままの手塚に声をかけた。 「手塚くん、無言でどんどん歩いてくから、てっきり道解ってるもんだと思ってたよ」 あ、別に怒ってるわけじゃないからね、と慌てて手を振る。 「ただ、迷ったと思ったなら、相談してくれても良かったんじゃないかな、と思って」 手塚はちらりと大石を見やり、深々と息をついた。 「大石くんはお金を預けられていただろう」 「うん?」 「それを守るのが大石くんの責任だ。だから、大石くんを店まで連れて行くのが、俺の責任だと思ったんだ」 「……」 「結局、俺は責任を果たせなかったな。すまなかった」 手塚の声は心なしか、ふだんよりも力が無いように聞こえた。大石は隣を行く生真面目な友人の横顔を見つめながら、口を開いた。 「それは違うよ、手塚くん」 「……」 「この仕事は、ぼくたち二人に任されたものだろ? だから、手塚くんひとりで背負いこむこともないし、責任を感じることもない。困ったらぼくに相談してくれて構わなかったんだよ。……もちろん、ぼくだってひとりで無理だと思ったら、手塚くんに頼らせてもらうし」 「そう……か?」 「そうだよ。だから、謝ったりしないで」 大石はにっこりと笑う。その笑顔を見て、手塚もかたくなだった表情をほんの少し緩めた。 「……ありがとう」 まだ幼かったあの頃から、誰よりも強く、誰よりも努力家だった彼。大石はそんな手塚に、強い憧れと尊敬を抱いていて。 全国へ行こうと誓った、あの約束を果たすために、ひたすらその背中を追っていた。 彼ならばきっと、自分たちを導いてくれる。だから自分は置いて行かれないように、必死でそのあとに続いていこう、と思っていた。 けれど、それだけでは駄目なんだと、初めて気付いたのがあのときだった。 彼だって時には迷うことも、行き詰まることもあるのだろう。 そんなとき、自分の存在が彼の役に立てることもあるのかもしれない。ほんのささやかな、ちっぽけなことでも、彼にはできなくて、ぼくにはできることがあるのかもしれない。 手塚くんの後ろについていくだけじゃなくて、肩を並べて歩きたい。お互いに助け合いながら進んでいけるように。 あのとき初めて、そう思ったのだ。 「手塚部長、今日の練習メニューのことなんですけど」 回想を終えて、大石は意識を現在に戻す。見ると後輩たちが手塚のところに寄ってきて、練習の相談を持ちかけていた。 あれから1年が経ち、多くのことが変わった。互いに呼び捨てで呼び合うようになり、学年が変わって後輩ができ、背が伸び、テニスの腕もあがり、レギュラーとして試合にも出られるようになった。 しかし、あのときの気持ちは今も変わらない。 「……そうだな、その点については俺よりも、大石のほうが詳しいはずだ。大石に聞いてもらえるか」 ほんの少しでも彼の役に立てるように。 その支えとなれるように、肩を並べて、彼の隣に居たい。だから、 「――大石副部長!」 与えられたばかりのその肩書きで呼ばれるのはまだ少し、くすぐったいようで恥ずかしいけれど―― そう呼ばれることに、今、俺は強い誇りを持っているんだ。 こちらに視線を向ける手塚に、解った、というように頷いてみせると、大石は自分を待つ後輩たちの元へと一歩踏み出した。 END. |