大切な時間

「ああもう、信じらんねぇ!」

 関東大会を間近に控えて、青学テニス部の練習は日々、過酷さを増していく。
 その日は特に練習時間が長引いて、部長の手塚がようやく練習終了を告げた頃には、すでに空の端は夕焼けで赤く染まりかけていた。
 ぐったりと疲れた体を引きずって、部室へ戻るその途中。
 頭にかぶったタオルの下から、菊丸英二が恨めしそうに自分に告げた言葉に、不二周助は不思議そうに首を傾げた。
「何が? 英二」
「不二はさ、疲れてないわけ?! あれだけ動かされてさぁ!」
「もちろん疲れてるよ」
 指を折って数えながら、不二は今日の練習を振り返った。――いつものように準備運動があって、ランニング、基礎練習、そのあと紅白戦――
「まぁ、英二相手には2ゲームしか落とさなかったけど」
「う」
「ああ、その前に乾の考案した新メニューがあったんだっけ。あれはキツかったよね、まさかあんな方法で瞬発力を鍛えるなんて――」
「それが信じらんないって言ってんの!」
 不二の言葉を遮って叫んで。そこで力尽きたのか、菊丸はがっくりとその場に座り込む。
「……疲れてる、って言うのにさ。なんで不二はそんなふうに、笑ってられるワケ? 俺なんかもーヘトヘトでグッタリで死にそーなのにっ」
「……」
 少しの間のあと。
「さぁ、なんでだと思う?」
 からかうようにそう言い残し、テニスバッグを右肩にかつぎ直すと、不二はへたりこんだままの菊丸に背を向けて歩き出した。その背中に、抗議の声がかけられる。
「またそうやってゴマかす〜!! ほんとは疲れてなんかいないんだろっ。おチビの言う通りだ、不二のバケモノ〜!!」
 それだけ叫べるくらいなら、英二だって十分余力があるじゃないか、と思ったが、不二は口には出さなかった。代わりに、
「いつまでもそうやってると、せっかく練習終わったのに、また手塚に走らされるよ?」
 浴びせかけられていた罵声は、それでピタリと止んだ。



 ――別にごまかしたわけじゃなくて。
 どうしてなんだろうって、ちょうど僕も同じことを考えていたんだよ、英二。




 ぼんやりと自問している間に、疲れ切った部員達はさっさと帰って行ってしまったようで。着替えを終えて気付けば、部室内に残っていたのは、不二を含めた3年レギュラー5人のみになっていた。
「それじゃあ、帰るね。みんなお先に」
 声をかけると、部室の隅で何やら話し込んでいた手塚と大石が振り返って、
「ああ」
「お疲れ様、不二!」
 片方はごく簡潔に、片方は爽やかな笑顔と共に、それぞれ挨拶を返してきた。
上はジャージ、下は学生服という着替え途中の中途半端な格好のまま、分厚いデータノートを真剣にのぞき込んでいた乾と菊丸も顔を上げて、
「また明日な」
「次の試合は絶対負けないかんな、フジっ!」
 口々に言葉を返す。
4人に微笑みながら手を振って、不二はひとり、部室を後にした。

すでに日は落ちて、見上げた空は夜の色になりかかっている。
 汗だくになった少年達が集まっていたせいで蒸し風呂状態になっていた部室に比べると、外はずいぶんと涼しい。静かな風は、ほどよく疲れた体には気持ちよかった。
 こんなに遅くまで練習したのは、久しぶりだった。急いで帰らなきゃと、早足で校門へ向かおうとして、数歩足を進めて。
 何気なく顔を横に向けた不二の瞳に、空っぽのテニスコートが写った。
 広いコートには、もちろん誰もいない。綺麗に片付けられて、ボール一個も転がっていない。薄暗い中、まっすぐ引かれた白いラインだけが、くっきりと浮かび上がっているように見えた。
 見慣れたはずのその場所が、何故だかひどく遠いところのように思えて――目を離せないまま、不二はふらふらとそちらに近寄って、フェンスに手をかけた。
 部員達の声が聞こえないだけで、自分たちがその上にいないだけで、この場所はこんなに違って見えるのか。
 唐突に去来した感情に胸が痛くなって、ぎゅっと指に力を込める。頭に浮かんだのは、いつも無意識のうちに遠ざけて、考えないようにしていた事実だった。
 ――いつか、僕達はこのコートを去ることになる。
 それはけしてテニスそのものとの別れではないのだし、部の仲間や後輩達と永遠に会えなくなるというわけでもない。けれど、一度引退してしまったら、「青学中等部テニス部員」としてここに集まることは、もう二度となくなってしまう。
 自分たちの「引退」の日は、遠くない未来に必ずやって来るはずで。一日の練習が終わって、こうやって夜が来るたびに、その日は少しずつ、確実に近付いてくるのだ。
 言葉よりもはっきりと、その事実を突きつけられたような気がした。


 不意に、頭の中に甦る問いかけの言葉。
(なんで不二はそんなふうに、笑ってられるワケ?)


 ――それは。


「……あれ、不二?」
 突然、聞こえるはずのない声が聞こえて、不二はびくりとした。それでも動揺を隠して、声のした方に振り返る。
 そこに立っていたのは、用事があるとかで、とうに帰ったはずの河村隆だった。
「タカさん、帰ったんじゃなかったの?」
 河村は困ったように頭を掻きながら、こちらに近付いてきた。
「いや、それがさ。学校出て少し行ったとこで、部室に忘れ物してたのに気付いて」
「そっか」
 不二がクスっと笑うと、河村は彼の顔をのぞきこんで、質問を返してきた。
「不二こそ、こんなところで何やってんの?」
「うーん。ちょっとね」
 曖昧に呟いて、不二はコートに視線を戻す。質問の答えにはなっていなかったのだが、河村はそれ以上何も聞かずに、不二の視線の先を目で追った。彼はそのまま、しばらく黙って立っていたが、ふと、
「誰もいないコートって、何か寂しいね」
 ひとりごとのように、そう呟いた。
 不二は答えずに、遠くを見つめる河村の顔を見上げた。
 きっとタカさんも、さっきの僕と同じようなことを考えているんだろうな。
 そしてタカさんのほうも、僕が考えていたことに気付いているんじゃないだろうか。気付いているからこそ、言葉に出して何も言わないのかもしれない。
 ほとんど直観で、不二はそう思った。今ここにいるのが彼で良かった、とも。
 ラケットを持たない河村は、大きな体に似合わず気弱げで、頼りなく感じられるところもある。けれど不二は、彼ほど一緒にいて落ち着ける人物を知らなかった。彼はいつも上手に相手の気持ちを汲んで、必要以上に深入りも遠ざかりもせず、適度な距離を置いて隣にいてくれる。他の人ならこうは行かないだろう。あれこれ聞かれずに済むのが、今の不二にはとても有り難かった。

「さっき、英二が言ってたこと、俺も聞いてたんだけどね。不二」
 と、前触れもなく、河村が話し出した。
「え?」
「ほら。なんで不二は笑ってられるんだ、って言っただろ、あれだよ」
 ああ、と不二は頷く。突然彼がそんなことを言いだしたのに、少なからず驚きながら。
「俺、どうしてなんだろうって考えてみたんだよ。それで、もしかしたらそうじゃないのかなって思い当たったことがあるんだ」
不二を見下ろして、河村は照れたように笑って言った。
「不二はさ、きっと、すごく好きなんだよね。この場所で、みんなと一緒に、ああやってテニスをすることが。確かに練習辛いし、めちゃめちゃ疲れるけどさ。それよりも好きだって言う気持ちの方が強いから、笑っていられるんじゃないのかな」
「……」
「俺もそうだから、不二も同じなんじゃないかって。なんとなくそんな気がしたんだ。ああでも、俺は練習後はどうしても疲労感の方が先に立っちゃって、笑っていられるほどの余裕はないな。英二と一緒で」
彼の素直な言葉が、すとんと胸に落ちた。
 ああ、そうか。
 良きライバルでもある頼もしい仲間達と、曲者揃いの後輩達と一緒に、頂点を目指して戦う日々は、もう残り少ない。そのことを考えると、寂しさで胸が詰まってしまいそうになる。
 けれど、限られているその時間が好きで、かけがえのない大切な物だと解っているから、だから僕は笑っていられるのかもしれない。
「そう、かも。……タカさんもなの?」
「うん。それにきっと、他のみんなも。英二は不二にあんなこと言ってたけど、同じこと考えてると思うよ。乾だって、大石だって。ここにいることが好きでしょうがないんだよ。手塚だってそうだろうな。……手塚は何がどうなったって多分絶対笑ったりなんかしないだろうけど」
 優しい微笑みを浮かべる手塚を想像して、不二はつい吹き出してしまった。
「……そうだね」
 今という時間を愛する気持ちも、いつか訪れる別れへの恐怖も、みんな同じなんだろうね。
 それなら。
 僕は勝ち続けたいと思うんだ。関東大会はもちろんのこと、さらにその上の全国大会へ、そしてその頂点へ。
 勝てば勝つだけ、別れの日は遠ざかっていくから。
 その瞬間はいつかかならず、僕達の前にやってくるのだろうけれど――できるならばほんの少しでも先にあるといいな。
 そのときに、誰もが笑っていられるように。何の後悔も、残さずに済むように。

「ねぇ、タカさん」
「ん?」
「次の試合のあとの打ち上げは、どこ行きたいと思う?」
 片手でフェンスに掴まったまま、不二は河村を向いてにっこりと笑う。体重がかかって、ぎしっとフェンスは軽い音を立てた。
 河村は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに、穏やかな微笑みを返した。
「そうだなぁ。またうちに来てくれてもいいけど、前と同じじゃつまらないかな?」
 思った通り、何気ない言葉に隠した意味に、彼はちゃんと気付いてくれたようだ。

 ――勝とうね、タカさん。

「お寿司を食べさせてもらったお礼に、今度は僕らがなにか作るっていうのはどう? みんなで料理持ち寄って、ホームパーティみたいなのも楽しそうじゃない? 僕も姉さんに頼んで、デザートの作り方でも教えてもらおうかな」
「え…………それは。……その……」
 不二の提案に、どうしたわけか突然河村は口ごもる。懸命に言葉を探す彼をにこにこと見守っていると、
「あっれ、不二? タカさん? まだ居たんだ、ふたりとも」
 夕闇に、呆れたような菊丸の大声が響いた。
 会話を中断させて振り向いて見ると、ちょうど部室に残っていた4人が出てくるところだった。
「ま、いーや。タカさーん、忘れ物! 数学の教科書〜!」
「……一方的に借りておいて、返し忘れていたのはお前だろう。英二」
 乾の低い呟きも耳に入らない様子で、菊丸が片手をぶんぶんと振り回しながら駆けてくる。彼がその場に放っていった荷物を、苦笑しながら大石が拾いあげる。その後ろに、腕を組んだ手塚が立っている。
 見慣れた、いつもの光景。
 不二と河村は、4人に向けて大きく手を振った。



 別れを惜しむのは後でいい。今はただ、上だけを見ていよう。

 今はまだもう少し、ここにみんなでいられる幸せを感じていたいんだ。


 えぬはらさんから素敵SSをいただいてしまいました! 転がるようにテニプリにはまってくださった(笑)だけでも嬉しいのに、SSまで書いてくださるとは夢のようでございマス(T_T)
 タカさん&不二のコンビが大好きとおっしゃるだけあって、すごくいいですよね〜、ふたり間に流れる空気が(^0^)! 私もこのふたりセットで好きなのですが、イメージしていたものをまんま形にして見せていただいた感じで嬉しいです♪ 和みます。不二と替わりたいかも〜>あ、本音が(笑)
 そしてちゃっかり、一言でも爽やかさが伝わってくる副部長にもメロメロしちゃいました(笑)部長とセットなのも嬉しいですし、三年一同が仲良しなのも嬉しいです(T_T)!>なんでも嬉しいんかい!>嬉しいんです!
 えぬはらさん、本当にどうもありがとうございました!

 えぬはらさんの素敵サイトはこちら→N-ZONE


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