驚愕。 それから、一瞬だけ呼吸停止。 次いで、目を逸らした。 「神尾?」 先を急いでいたことなど彼の頭の中からはすっかり抜け落ちていく。 動揺していた。それがわかるのが腹立たしい、そんな動揺の仕方だった。 (……なんでよりにもよってこんなタイミングで会うんだよ……) こういうときは神様なんていうものを恨んでみたくなる。 けれども、最終的に何とも言いがたい理不尽な気持ちで胸をいっぱいにしながら責めるのは、現実にいるかいないかの“それ”ではなくて、突然のこととは言いながらも何一つ取り繕うことができなかった自分自身。 どうして普段は絶対に人とすれ違わない教室の前で。 どうして昨日の練習試合を思い出していたこの瞬間に。 どうして顔を会わせづらいとか考えていた橘さんと。 バッタリ遭遇した、それだけでいつもどおりに話すこともできずに目を離してしまったのだろう……。 (どうして、だって?) 自問に対する自答に時間などかからなかった。 ――恥ずかしかったからだ。橘さんと会うのが。 わずかに目を伏せ、神尾は前日のことを思い出す。 自分たちで作ったコート、そこで行った1ゲーム。 結果なんてものは最初からわかっていた。橘さんに勝てるわけはない、と神尾にはわかっていた。だから、完敗を喫したことで落ち込んでいるわけじゃない。 ……そう、負けたことがショックなんじゃなくて。 ショックなのは何もできなかったという事実に対して、だ。 「なんで、こんなときに会うんだよ……」 口内でひとりごちて、軽く小さく神尾は唇を噛む。 もっと思ったとおりのプレイができるはずだった。――そんな言葉はただの言い訳にすぎないから、絶対に間違っても口になんか出さない。ただ、そのままで無言でいるのは、少しだけ怖い。 橘さんに見捨てられそうで、怖い。 この人は自分たちを見下さない人だとわかっているのに、それでも、わかっていても、「あの程度のプレイしかできなかったのか」と思われたかもしれないという恐怖が昨日から消えないで残っている。 (……あんなはずじゃ、なかったんだ) ――誉められたかった。 誰かじゃなくて、他の誰かじゃなくって、橘さんに誉めて欲しかった。 橘さんに、どんな言葉でもいいから、誉めてもらいたかった。 でも、結果はスコア上で完敗、内容で言っても惨敗。数え切れないほどネットに引っ掛けて、思い返したくないほどダブルフォルトのコールを聞いた。試合終了時、橘さんの苦笑が目に痛かった。 「神尾、昨日の試合だが……」 昨日の試合。 尊敬している人の言葉で神尾は我に返る。そして、反動的に顔を上げてしまった。 視線が、すぐさま合った。 まっすぐな眼差し。ただ、口元には微かな笑みが浮かんでいる。 ――誉められたかったのに。 ――この程度、なんて思われたくなかったのに。 ――笑われたかったんじゃなくて、笑わせたかったんだ。 頭の中をぐるんぐるんと色んな思いが駆け巡って、逃げるように神尾は声を上げる。 「すみません、俺、次の授業って移動なんで」 「神尾」 すれ違いざまに耳に滑り込んでくる声。 聞きたくなんてなくても耳は塞げず、誰に対してかわからないけれども「くそう」なんて言いたくなりながら向けた背に、彼から言葉が降ってきたのは間を置かずして。 「昨日の試合、お前の勝ちだ」 驚愕。 それから、一瞬の呼吸停止。 次いで、振り返って目を見つめる。 笑んでいる、優しい目を。 「勝ちって……俺……」 負けましたよね、と発しない言葉の代わりにニュアンスで伝える。 すると橘さんは手にしていたノートと教科書でトントンと自分の肩を叩きながらわずかに目を細めた。眩しいはずなんてないのに、眩しいものでも見るように。 「お前は昨日、たくさんのことを吸収しただろう? 俺が勝って吸収したことの何倍も、だ。だから、お前の勝ちだ」 「……でも……」 「神尾、負けることは終わりじゃない。強くなることの始まりだぞ」 「強くなることの始まり……」 あぁ、と頷く声は落ち着いた低さで、心の内側の靄を吹き払うように力強い。そうやって俺は強くなってきた、と言わんばかりに……。 「橘さん、俺……」 強くなれますかね、と聞きかけて神尾は口を閉じた。 違う。 言うべきことは“それ”じゃない。 大きく、息を吸う。 「俺――これからも、よろしくお願いします!」 深々と頭を下げれば同時にチャイムの音が廊下に響き渡る。 告白の返事を待つようにしていると、困ったような橘さんが言ってきた。 「次、移動じゃなかったか?」 「――あっ!」 不覚にも言われて気づき、踵を返す。 チャイムの余韻が消えるまでには教室に入らなければならない。それをにわかに思い出してしまい、大慌てで走り出す。 振り向いて、言いかけた礼はすぐさま引っ込めた。 橘さんも、もう、歩き出していたから。 「……よっし!」 気合を入れるように神尾は大声を出す。 目的の教室は2階上。 でも、なぜか、段数などまるで気にならなかった。 |