いつ降りだしてもおかしくない、そんな気配の空だった。 立ち止まり、手塚は仰ぐように窓の外を見つめていた。言葉はない。ただ、その代わりとばかりに、吐き出す息が冬の色をしている。 廊下を行き交う者は数少ない。いつもであれば賑わう昼休み、珍しい光景とも言えた。ひとえに、この冬一番と言われる寒さのせいかもしれない。 「手塚!」 不意に、呼ぶ声がした。 さほど大きいものではなかったが、静けさを湛える廊下にわずかながら響き渡る。それが誰のものであるか、悩むこともなく、また、驚くこともなく、彼は顔を向けて声の主に応じた。 「大石」 「教室にいるかと思っていたよ……掴まえられて良かった」 その口調から察するに、彼は自分を探していたのだろう。ならば、かなり色々見て回ったはずなのに、そんな恨み言を述べず、おくびにも出さぬのが大石らしい。 思えば、手塚は彼の人の好《よ》さにいつも助けられていた。 自分は世辞にも人付き合いが上手いとは言えぬ性質である。それでも、二年弱というさして短くはない間、手塚は大石と共にテニス部にいた。昨夏からは、部長・副部長の間柄だが……自分が一プレイヤーとしてではなく他を率いる者として存在していられるのは、目端の行き届く大石がいるからだ。 今も、きっと彼は部活の事柄について話に来たのだろうと手塚は予想した。そして、その予想どおりだった。 「手塚、今日の部活のことなんだけど……」 「――中でやろうと思っている」 「そう言うと思って、さっき竜崎先生に許可をもらってきたんだ」 天候が悪い日、屋外の運動部は別の場所で基礎トレーニングを行う。体育館の片隅を借りることもできるが、空きスペースや人数の関係上、テニス部は校舎内で練習を実施することが多かった。昇降口近辺でラケットを振ることもあるが、階段や踊り場を使って足腰を鍛える方が主である。 練習メニューの組み立ては部長である手塚に一任されている。しかし、本来とは異なる場所での活動には顧問への連絡が必要だ。ちょうど今しがた、竜崎先生の元へ行こうと手塚は思っていたところである。 「すまない」 助かる、という意味合いを込めて一言告げれば、意図を汲み取った彼は微笑で答えた。 「いや……これで降らなかったら大変だ」 朝練のときにも話は出ていたが、誰が見てきた予報でも「正午過ぎには降る」と言っていたらしい。予報は予測、要するに、外れぬことがないわけではない。 ただ、雨が降ろうが降るまいが、放課後の部活は屋内で行うつもりでいた。 寒いときには怪我が増える。――だから大石は、中を選んだ。自分と同じく、いや、自分以上に部員一人一人のことを考えているから。 「ところで……」 思い出したように話題を転じようとした大石が、しかし、急に口を噤んだ。 手塚も無意識に耳を傾ける。 外から――おそらく、階上の音楽室から。美麗、と称するには若干ためらわずにはおれない歌声は合唱部のものではないだろう。 3年のどこかのクラスが練習しているに違いない。曲目は、「仰げば尊し」。 「そういえば、もう卒業式なんだな」 大石が言う。手塚は数十分前までその打ち合わせに生徒会室へ行っていた、今さらの話である。 もっとも、本番は一ヶ月以上先のこと。意識しなくて当たり前だ。強制登校日だから、と今日は音楽教師が特別に歌の練習をしている。 「卒業式が終われば俺たちもいよいよ三年」 後背にある階段を顧み、大石が独白じみた呟きをこぼす。手塚はあえて「あぁ」と返事をした。 三年……全国優勝を成すには、これが最後のチャンス。 平易な道などとは思っていない。強豪と呼ぶに相応しい学校は1つや2つではないのだから。 加えて、自分には“肘”がある。 左肘という瑕《きず》。 刻時を明示させない爆弾。 全国優勝が、望めば叶う楽な道などと思ってはいない。 ただ――それでも、最後の一年、悔いを残すことはしたくなど、ない。 「……大石」 呼べば、眼前にいる彼が真摯な表情をして振り向いた。 深くは語らず、多くは語らず。応えるのは眼差しのみ。 ただ、意図するところはわかってくれたらしい。大石は首を縦に、力強く振った。 たぶん、言葉に出さずともわかっているのだ。同じことを考えているのだ。 目の前に立っているのは、彼。 下校時、こぼした本音に笑うことも呆れることもしなかった大石秀一郎。彼なのだから。 「おいおい、雪だぜ!」 前触れもなしに、どこかの教室から叫ぶような大声が聞こえてくる。 相変わらず森閑とした廊下に佇みながら、手塚は大石と同時のタイミングで校庭へ目を向けた。 表情を変えぬ曇天から無数の粉雪が舞い降りている。息よりも、もっともっと白い雪。 「――去年も、卒業式の前に降ってたよな」 「あぁ、そうだな」 「ということは、来年、俺たちの卒業式の前にも降るのかな?」 手塚は無言で通す。 ただ、もしも来年、やはり同じように雪を見るのであれば……そのときの自分は、胸を張っている自分でありたい。 密やかな決意を胸に抱き、手塚は口を閉じたまま見つめていた。しばらくの間、大石と2人で。 降り始めた雪を――世界を白く染め上げていく、雪景色を……。 |