夏の残像

 ふりそそぐ晩夏の大陽は熱く輝き、その光を肩まで伸びた金の髪が反射して、千歳の瞳にちりちりと焼き付く。
 今日が夏中見慣れたこの眩しさを味わえる最後の日なのだと言う非情な現実は、千歳の中に重くのしかかり、気持ちの沈みは千歳の頭をも垂れ込ませた。
 そうする事で視界に飛び込んでくる、短く伸びた影の中にちかちかはじける残像は、なぜか固く引き締められた唇をこじ開ける力を持っていたようだ。千歳は不思議な残像を残した本人に対して、無意識に正直な気持ちを吐露していた。
「桔平のおらん九州は、つまらん」
 迷いの無い凛々しい瞳を千歳に向けるは、この広い九州で千歳と肩を並べて語られる、唯一の少年。
 彼がこの夏を最後に九州を離れる事は、少し前に本人の口から聞いて判っていた。心の準備をする時間は充分にあったのかもしれない。
 しかしいざその時を向かえると、素直な気持ちで送り出してやろうとは思えず、みっともなく引き止める事もできず。
「千歳……」
 千歳の名を呼びながら、橘は少し困ったように笑った。
 橘が喜んで九州を離れるわけではないのだと、千歳は知っていた。だから本音を吐き出せば橘が困るだろう事も。
 だが謝罪するつもりは毛頭ない。千歳はただひとり残されるのだ。それに比べれば、多少の困惑など痛みにすらなるまい。
「そげんこつ言っとーと、知らん奴に足掬われるばい」
 迷った末に橘が口にしたのは、千歳を諌める言葉だった。
「俺がその辺のに負けると?」
「そげん言ってなか」
 語気を強めた千歳の言葉を、橘は静かに否定する。軽く握った拳で、とん、と軽く千歳の胸を叩いた。
 それ以上言葉を発する事は無かったが、見上げる強い眼差しが語る。
 また、戦おう。
 今までに比べてしまえば戦う機会は圧倒的に減るだろう。だが、己を高め戦い続ければ、勝ち続ければ、自分たちは再び全国と言う舞台のどこかで必ず出会うのだ。その時再び、互いがネットを挟んだ時にだけ味わう事ができるあの昂揚感を、取り戻す事ができるだろう。
 その時まで己を高め続けよう。最高の舞台で、最高の試合を。
 そうして無言で結ばれた約束だけが、空虚に支配されかけた千歳を支えるすべてであったのかもしれない。

 しかし橘は転入先の学校で暴力事件を起こし、数少ない機会である新人戦と言う舞台には現れなかった。
 


 第二次成長期を迎えたのは、人よりも早かったと千歳は記憶している。加えて、限界値が常人とは違うらしい。
 どんな遺伝子のいたずらか、初見で他人に怯えられるほどにすくすくと成長した体を、千歳はだらしなく畳の上に放り出していた。
 他人よりも長い腕、高い上背、それらが導き出すパワーは、今現在千歳が全身全霊を傾けるテニス――おそらくは、テニスだけではなく大抵のスポーツにとって――において、実に有利に働いてくれている。これもひとつの才能である事は間違いないのだと、千歳は己の四肢をずっと誇らしく思い続けていた。
 それなのに今は、こころもち持て余しぎみだ。
 大人並――すでに並の大人を凌駕しているが――の体よりも、大人と認められるだけの年月が、今の千歳の救いになるのかもしれない。
「つまらん……」
 ここに居る誰に投げかけたわけでもない言葉に、無数の蝉が元気よく応えた。
 夏の蒸し暑さをいっそう強める雑音や、じわじわと滲み出る汗の感触。それらが与えてくる苛立ちを少しでも掃おうと、千歳は畳に拳を叩きつけながら半身を起こした。
 どうやら少し眠ってしまったようだと気付いたのは、その時だった。
 大陽の位置が、千歳の記憶の最後に残る場所からずいぶん動いている。畳の上に転がったその時は、強い日差しが千歳の体に触れる事はなかった。今はオレンジへと色を変え柔らかくなった光が、千歳の左半身を容赦なく射している。
 立ち上がるのも億劫で、千歳は両腕で己の体を引きずり、未だ日の当たらない位置まで体を避難させた。
 日影に移動しても判るほどに、体中が渇きを訴えている。深い息を吐きながら汗で輪郭にへばりつく髪を掃い、転がる前に飲んでいた麦茶のポットとコップに手を伸ばしたが、空のコップは寝ている間に蹴り飛ばしたのか遠くまで転がっており、肝心の麦茶の残量も、喉を潤すには到底足りない事が一目で判る。
 一瞬、乾いた喉を酷使して家族の誰かを呼び寄せようと考えたが、それはしなかった。千歳の脳が寝ぼけを知る事なく活発に働いたため、今日は夜遅くまで家族の誰も帰ってこないと言う事を、すぐに思い出せたからだ。
 小さく舌打をして、千歳は重い腰を上げた。
 朝からずっと暗闇に包まれていた台所は、それまで千歳が寝転がっていた部屋とさして温度は変わらないはずなのだが、妙に冷たく感じられた。
 裸足のままぺたぺたと冷蔵庫に近付き扉を開けると、開放されるのを待っていましたとばかりにひんやりとした空気が外へ飛び出してくる。目を伏せ、数秒だけ冷気で涼んでから、千歳は麦茶を取り出して冷蔵庫を閉めた。転がったままのコップを拾ってくるのを忘れていた事に気付いたが、拾いに行く気にはならず、新しいコップを取り出してまず一杯喉に流し込む。
 冷たい液体はあっと言う間に体の中心を走り抜けたが、胃に到達する頃にはすっかり体温と交じり合っていた。渇きも、たった一杯だけでは潤せそうにない。
 何かに似ている。
 そう思った。この熱や渇きは、千歳が良く知る感情に似ている。
 それが何であるのか、千歳は判っていながら気付かないふりをした。
 自覚してしまっては、怒りにふるえて耐えきれそうにない。喉の渇きのように、麦茶をあと数杯飲めば満たされるような、簡単なものではないのだから。
「……き」
 熱に溶けかけた意識は、誰かの名を呼ばせようとしたが、家中の空気を引き裂くような電話のベルが、千歳の意識を現実に引き戻した。
 それ自体はありがたい事かもしれないが、だからといって電話に出る気分にはなれない。どうせ家族の誰かか、くだらない勧誘電話に決まっている。
 放っておくと、十回ほどのコールで一度切れた。しかし大して間もあけずに再び電話が鳴りはじめたので、千歳は受話器を取った。しつこい、と文句を言ってやるために、だ。
「……はい」
 言って、大きく息を吸う。準備は万端だ。
『千歳か?』
 しかし受話器から届く久方ぶりに聞く声は、怒鳴りつける気力を一気に萎えさせた。
 家族の誰かからでも、勧誘電話のたぐいでもない。
 力なく手にして居た受話器を、あまりの驚きに取り落とした千歳は、日頃鍛えている反射神経を生かして床に衝突する前に拾う。慌てて握りなおし、再び受話器を耳に当てると、懐かしい名を口にした。
「桔平か!?」
『やはり千歳か。反応がないから間違えたかと思ったぞ。驚かせるな』
「それはこっちの台詞ばい。いきなり電話かけてきおって」
『なんだ? 今度電話する、とでも事前に手紙を出しておけばよかったのか?』
 電話の向こうから伝わってくる、朗らかな笑い声。
 懐かしい気がする。全力を尽くしあった良い試合の後、彼は必ず満足そうに笑っていた。
 それと同時に、知らない声のような気もする。なぜ今彼は、そんな声で笑えるのだろう。自分はこんなにも――そう、こんなにも、渇いていると言うのに。
『そっちの調子はどうだ。全国、決まったんだろう』
「当然ばい。楽勝やったと」
 久しぶりに聞いた好敵手の声が千歳に与えたものは、大きな喜びと、試合をする時には及びもしない若干の昂揚感と、微量な不安感。
 いや、不安とは少し違う。あえて言うならばごく微量の嫌悪とでも言うべきか。
『さすがだな。うちも次に勝てば全国が決まるぞ。負けてもコンソレーションに残れば……』
「桔平」
 よどみなく交わされる会話を、言葉では説明しきれない己の感情が制止する前に、千歳は確かめる事を決めた。
「桔平のおらん九州は……つまらん」
 一年近く前にも告げた、今でも変わらない素直な気持ち。
 それがすべての答えを教えてくれる予感がした。
『……千歳』
 受話器の向こうの橘は、千歳の名を呟くと、しばらく何も言わなかった。
 あの時と同じ反応だ。あの時は困惑を強く訴えた笑みを浮かべていたが、今はどうなのだろう。同じなのだろうか。
『そんな事を言ってると、今まで歯牙にもかけていなかった相手に足を掬われる事になるぞ』
 あの時とほぼ同じだけの間を空けて、同じ意味を持つ言葉を、橘は口にする。
 それは彼が遠く離れた地に移り住んでも本質的には何も変わっていない証に思えた。
「そげんこつ、なかよ」
 大きな喜び、若干の昂揚感、ごく微量の嫌悪。それらに大きな落胆や小さな怒りが急激に交じり合う。
 なぜ、橘は変わらずに居られるのだろう。千歳の居ない遠い地へと移り住んだのに。
 なぜ、そんなにも満たされた声をしているのだろう。千歳はこれほど乾いている。ならば橘も、千歳と同じだけ渇いていなければならないのではないか?

 他愛もない世間話や青学の手塚が今九州に居るだとか、いくつもの言葉を交わした後で、惜しみながら受話器を置いた時には、無数の星が闇の中で輝いていた。
 星の輝きはどことなく、瞼を閉じると蘇る、橘が最後に残した残像に似ている、と千歳は思う。
 楽な姿勢で空を見上げようと、再び畳の上に四肢を投げ出すと、少しだけ涼しくなった風が千歳の肌を撫でて走り去っていった。
 音も光もない無限の暗闇の中に落とされた気分だ。月や星や電気の明りがあちらこちらに灯り、ときおり風鈴が可憐な音を響かせ、大勢の虫が泣き、風が草木を合唱させていると言うのに。
「情けなかね」
 千歳は己を淘汰するように呟く。
 正確な時間を量ってはいないが、それなりに長い時間語り合っていたはずで、それなのに一番聞きたかった事は最後まで聞けなかった。
 なぜ、去年の新人戦に出てこなかったのだ、と。
 橘が千歳と戦う前に、途中で他の学校に負けたと言うのなら、わだかまりは無かっただろう。その弱さに対する怒りをぶつける事になっても、それで終わりにできた。
 千歳が気に入らないのは、橘が出場する権利をはじめから放棄した点だ。
 暴力事件を起こして出場停止になったと言う話は聞いている。だがそんな事は言い訳になりはしない。千歳との約束を反故にしてまで殴らなければならない相手がどこに居る。
 居た、と言うならば。
 千歳との約束よりも情熱を与えてくれる存在が、今橘のそばに居ると言う事ではないか。
「桔平は、ずるか……」
 つぶやいて、千歳は静かに目を伏せた。
 星明りが瞼に残したいくつもの残像は、肯定される事を恐れた千歳を嘲笑うかのようにきらめく。
 輝きは、刺し貫くような痛みを千歳に残した。


 九州二強本のために書き下ろしたSSなのですが、原作との大いなる矛盾をはらんでしまったため、ボツにしました。
 いやあ、先走りって良くないですね!(泣笑)
 色々夢を見ていました。九州二強本のお仲間さんがみなさま橘受さんなので、多少それナイズされているようないないような感じです(笑)


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