兄として

 練習後、部長の橘さんが部誌を書いているその回りで、いつも通り不動峰テニス部二年一同が雑談を交わしていた。
 皆さっさと帰ればいいのに……いや、それを言うなら俺もなんだけど。
 なんとなく橘さんの居る場所ってのは安心して居心地いいし、俺たち二年はほとんどクラスが違うから、世間話ができるのなんて今だけだし?
 習慣になっちゃったモノだから、やめるのもなかなか難しい。
 しかも俺は、「もしかしたら橘さんに会うために(一緒に帰るために)杏ちゃんがくるかも」なんて不順な動機を抱いていたりもするのだ。
「ところで橘さんは」
 そんな中、話の流れをまったく無視し、突然深司が橘さんに話しかけた。
 橘さんは(俺たちもだけど)疲れているんだから邪魔するなよ、って言おうかとも思ったけど、深司が橘さんに何を言うのかとの興味もあって、俺も、皆も傍観に徹する事にする。
「どうした深司?」
「兄として杏ちゃんの異性関係に口を出したりするほうなんですか?」
 どがしゃっ!
 俺が深司の座る椅子をおもいきり蹴ると、椅子は深司から離れて転がり、当の深司はバランスを崩して、倒れないように机にしがみつく。
 机が揺れたせいか、もしかしたら動揺しているのか、橘さんのボールペンは激しく滑り、部誌には斜めに直線が走っていた。
「ひどい事するなあ神尾。前フリもなくこんな事するなんて、ムカつくなあ」
 あ、ちょっとボヤきだした。でも桜井が倒れた椅子を拾い上げてフォローに入ってくれたから、平気かな?
「お前こそ前フリもなく橘さんにヘンな事聞くなよ! 迷惑だろ! ですよね、橘さん!」
 それまで少し呆けていた橘さんは、瞬きをして正気に戻る。
「いや、迷惑ではないが……。深司、逆に俺が聞きたいのだが、もし俺が肯定したとすれば、お前はどうするつもりだ?」
「別にどうもしませんけど。ああでもあえて言うなら」
「言うなら?」
「橘さんに干渉されて困る奴に忠告しようかな」
 かわいらしさとアピールしているのか(これっぽっちもかわいくないんだけど)、「かな」と言ったと同時に首を傾げる深司の椅子を、また蹴ってやろうかと思った。
 けどそうしたら「橘さんに干渉されて困る奴」が俺だってバレるからなんとか我慢してみる。
「ううむ……難しい質問だな」
 橘さんはボールペンを置いて、腕を組み、目を閉じる。それは橘さんが本気で考え込んで居る時の態度だ。
 そんなにマジに考えなくても……とか言おうかと思ったけど、とても声をかけられる雰囲気じゃない。自分の世界に入り込んだ橘さんを止められるとは思えないし、止めたら止めたで、深司が橘さんの前で決定的な事言いそうだし。
「俺がわざわざ口出すほど杏ももう子供ではないと思うのだが……万が一ろくでもない男が恋人だと知ったら、口のひとつも挟まずにはいられんだろうな。杏がそんな男を選ぶとも思えないが」
 実に橘さんらしい、杏ちゃんを信頼した、ほんの少しの不安を混ぜた、「兄」の台詞。
「どんな男だったらろくでもないと判断しますか?」
「……なぜ、そこまで聞くんだ? 深司」
「いえ参考にしたい奴が居たら教えてあげようと思いまして」
 深司、お前絶対わざとだな。わざとだろう。チクショー、殴りてえ……。
 俺は机の下で拳を作ってふるわせる。
 そんな俺には気付かず、橘さんは再び腕を組んで目を伏せた。
 なんて答えるんだろう。
 俺はさっきほど冷静になれず、ドキドキ緊張しながら橘さんの発言を待ってたりして。
 どうする? 「俺より背が低い奴は駄目だ」とか「俺よりテニスが下手な奴はろくでもない」とか言ったら。
 いやむりむり、そんな奴滅多に居るわけないって橘さん! 橘さんより上手いとは認めないけど、とりあえず全国区の選手で、橘さん以上の身長の奴なんて、俺が知る限り青学の手塚さんや、立海大付属の真田さんとか柳さんとか、その辺だけだって。あんなフケ顔連中に杏ちゃん取られていいんですか、橘さん! 相手の男、エンコーと間違えられて捕まっちゃいますよ!
 はっ、答えも聞いてないのに先走っちまった。やばいやばい。
 少しばっかり長い沈黙の中、俺は他の奴らはどう思っているのか気になって見渡してみたけど、別段おかしな様子は見せてない。でもはっきり言って森以外の奴らは、内心動揺してても上手く隠しそうだからなあ。信用できない。
「そうだな……やはり」
 やはり!?
「亜久津や……跡部ならば、黙ってはいられないだろう」
 暴力沙汰は数知れず、コート内で煙草を吸う判りやすい問題児亜久津。
 杏ちゃんを力ずくでデートに連れ去ろうとしていたナンパ野郎跡部。
 ……なんだ。あんな判りやすい、キョーレツなレベルか。
 そうだよな、そうだよな。橘さんほどの人が無害な俺みたいな奴を問答無用でろくでなし扱いなんかしないよな。跡部のヤローだって、杏ちゃんのデートをかけて戦え事件がなければ、さすがに亜久津と同じレベルで扱いはされなかっただろうしな。
 俺はものすごーーくほっとしたけど、ほっとした事を気付かれたくなくてため息つくのを我慢した。
「そーですか。それは良かったです」
 すかさず返事をするのは深司。
「良かった? なにがだ?」
「いえ、良かったと思ってる奴がこの世のどこかに居るだろうなと思って、代弁してみただけです」
「……そんなものか?」
「そんなものです」
 深司はうっすらとした笑みを橘さんに向けたが、視線だけを俺に向ける。
「そんなものか。とにかく、杏には幸せになって欲しいよ」
 橘さんはそれで納得したようで、再びボールペンを手に取り、部誌の続きを書きはじめた。

 ……深司め。
 あとで絶対、殴ってやる。


テニスの王子様
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