君の特別

 キンキンに冷やされたスポーツドリンクの缶が、頭上から降ってきた。
 授業が終わってから約二時間半、途中十分の休憩を挟んだものの、厳しい練習を終えたあとには何よりも嬉しいご褒美だ。橘さんと新生テニス部作って、まともに練習ができるようになってからずいぶん体力がついたけど、それでもやっぱりヘトヘトな俺は、「サンキュ」とてきとうに礼を言う事しかできず、スポーツドリンクをあおる。
 ……そう言えば、誰がわざわざ持ってきてくれたんだろ。こんな気の聞いた奴、ウチの部にいたっけか?
「はい、深司君も」
「どうもありがとう杏ちゃん」
 隣で繰り広げられる会話に、俺は噴出してしまった。口に含んでいた分がヘンな所に入ってしまい、噎せこんでしまう。
「大丈夫!?」
「だ……ゲホゲホッ……だいじょう、ゲホッ、ぶ、ゲホッ……だよ」
 自分で言っててアホみたいだけど、どう聞いても大丈夫じゃない。杏ちゃんは俺の背後に膝を付き、柔らかい白い手で、俺の背中を摩ってくれた。
 それがどうも、妙に気恥ずかしかったりして。
 気恥ずかしいのは、杏ちゃんにおもいきり情けないトコさらしているせいかもしれない。それとも、せっかく杏ちゃんが俺(たち)のためにスポーツドリンク用意してくれたのに、ちゃんとお礼が言えなかった事か。
「何してんの神尾。馬鹿じゃないの?」
 そんな事、深司に言われなくても自分が一番よく判ってるっつーの!
「ごめんね神尾君。今日暑いから冷たい方がいいと思ったんだけど、冷やしすぎたかな? びっくりしちゃった?」
「い、いや、そんな事全然ないよっ! 冷たい方がおいしいしっ!」
「そうだよ。杏ちゃんが気にする事じゃないよ。だいたい神尾にそんなに気を使う必要もないし」
「てめー深司少し黙ってろ!」
 咳が完全に収まった俺は、飄々とした顔で語る深司の胸倉を掴む。だけど深司はそれでも表情を変えず、悠長に缶に口をつけた。
 相変わらず、マイペースな奴……。
 怒るのも空しくて深司から手を離し、背中を向けると、俺はまだ半分中身が残っているスポーツドリンクの続きを飲む事にした。
 クスクスクス、と、かわいい笑い声が耳をくすぐって。
 はっとなって見てみると、杏ちゃんが口を抑えて笑ってた。
「やっぱ仲いいよね、神尾君と深司君」
『そんな事ないよ』
 俺と深司の声がぴったり重なると、杏ちゃんの笑い声は大きくなった。
「ほら、やっぱり仲いい!」
 杏ちゃんの言ってる事に関しては、力強く否定したい所なんだけど。
 でも、杏ちゃんが笑っているのはやっぱり嬉しいし、かわいいし。
 仲良くしてみようかとちらっと深司を見てみたが、予想通り深司は嫌味な無表情だったから、俺はすぐに顔を反らした。
「ウォン・バイ石田・桜井ペア!」
「あ、石田さんたちも試合終わったみたい。じゃあね、ふたりとも」
 ひらひらと手を振って、俺たちが飲んでいるのと同じスポーツドリンクの缶が五つ入ったビニール袋を持って、杏ちゃんは走っていく。今日の練習の最後に、向こうのコートではダブルス対決をしていて、橘さんは審判をしていたんだ(あまった俺たちはセルフジャッジでシングルス対決をしていた、と言うわけだ)。
 ひときわ背の高い石田は、その分足も長いせいか、杏ちゃんに辿り着くのが一番早い。
「はい、石田さん」
「ありがとう。杏ちゃん」
 なんてちょっと嬉しそうに缶を受け取って。
 いや、判ってるけどさ。杏ちゃんは優しくてかわいいから(気の強い所も愛敬だ)、特別な意味かそうじゃないかは別として、皆杏ちゃんが好きなんだ。だから、嬉しいに決まってるんだけど。
「なー、深司」
「んー?」
「俺って杏ちゃんに神尾君って呼ばれてるじゃん」
「そうだね」
「お前は深司君じゃん」
「そうだね」
『なんで石田は石田さんなんだろう』
 俺と深司の声は、一言一句違わず、ぴったりと重なった。ちょっとびっくり。
「お前も同じ事疑問に思ってたのか?」
「んーん。神尾の事だからどうせそんな事考えてるんだろうなと思っただけ」
 こいつ、やっぱりなんかムカツク……あー、どうせ俺は単純だよ! 判りやすいよ!
「別にどうでもいいじゃん。って言うかむしろ、神尾君の方が親しげでいいんじゃないの?」
 深司はスポーツドリンクを飲み干して立ち上がり、部室に向けて歩き出したんだけど、俺はまだだるくてこの場から動く気がしなかった。杏ちゃんが最後の缶を橘さんに渡して、穏やかな兄妹会話が交わされている様を、目を細めて眺める。
 深司の言う事は、もっともなんだけどさ。
 神尾さんって呼ばれるより、神尾君って呼ばれる方が、仲良しだとは思うんだけどさ。
 でも結局杏ちゃんにとって、深司と同レベルって事だろ? 俺は。むしろ、深司は名前で呼ばれてるから(単に橘さんの影響みたいだけど。伊武って呼びにくいし)、俺は深司以下かもしれない。
 それなのに石田はなんか、特別みたいで、ずるいなあと思ってしまう。
 同い年の男に、普通さん付けなんかしないよなぁ。
 石田は俺と違って、歳の割に悟ったみたいに大人っぽいところがある。老けてるって言うのかもしれないけど。
 常識はずれの背の高さだし……俺だってけして小さいわけじゃないけど。それに石田はガタイいいし。
 正直、俺から見たって石田は、頼りがいのあるいい奴だなって思うよ。
 んで、杏ちゃんは、橘さんの妹で、橘さんとずっと一緒に育ってきたわけだからさ、男の基準が橘さんってトコ、あっておかしくないわけじゃん。
「杏ちゃんは俺より石田の方がいいのかなあ」
 これは、俺の台詞じゃない。
 いつの間にか俺の背後にまで戻ってきていた深司の台詞。
「どうせそんなところだろ? 神尾が考えてるのは。まあ確かに、誰が橘さんに一番近いかと言えば間違いなく石田だけどね。ついで桜井かな。神尾は俺と最下位争いだよね。俺は別にそれでもいいけど」
 深司の台詞はその全てが、俺の考えている事と同じ。
「うるせえ!」
 俺は地面を蹴って立ち上がり、深司を置き去りに部室に向けて走る。
 ああまったく、ほんとにいちいち、ムカツク奴だ!
 ……なんていちいち拗ねたりするところが、ダメなんだろうな、俺は。


テニスの王子様
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